府城の西北に当り行程4里33町余。
家数44軒、東西2町18間・南北2町50間。
西は山に続き東北は田畠にて南は渓流を隔て慶徳村に並ぶ。
東11町12間
堀出新田村の界に至る。その村まで12町10間余。
西17町34間
木曽組小布瀬原村の山に界ふ。
南は村際にて
慶徳村に界ふ。その村まで40間余。
北8町
宮在家村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り15町30間余。
また
寅(東北東)の方16町6間
小荒井組太郎丸村の界に至る。その村まで22町。
端村
舞台田
本村より丑寅(北東)の方9町10間余にあり。
家数20軒、東西1町30間余・南北1町余。
四方田畠なり。
昔この村の千光寺盛なりし頃児子舞ということありて、その料に供せし故舞台田幕内という。後幕内の2字を省く。
六千刈
舞台田の東3町20間余にあり。
家数19軒、東西134町間・南北1町。
四方田畠なり。
水利
畠沢堤
村より戌亥(北西)の方14町50間余にあり。
周6町50間余。
慶徳村の養水とす。
神社
稲荷神社
祭神 |
稲荷神? |
相殿 |
伊勢宮 3座 |
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稲荷神 3座 |
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熊野宮 2座 |
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山神 |
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麓山神 |
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御嶽神 |
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山王神 |
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石神 |
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若宮八幡 |
勧請 |
不明 |
村西2町40間、山麓にあり。
鳥居あり。府下
材木町鈴木大和が司なり。
※相殿16座とあるが14座しか記載なし。
寺院
良縁寺
村中にあり。
物寶山と號す。熱塩村示現寺の末山曹洞宗なり。
造建の年月詳ならず。示現寺10世江鷗が開基なり。
江鷗が父を青木勘解由兵衛という。母は佐瀬大學が女なり。
明應7年(1498年)月光口に入と夢で娠めることあり。夫婦山寺観音に詣で、娠める子若聖子ならば速に産せしむべし。然らずば胎を下らしむること莫れとて毎日祈誓しけるが、月を経て安産しけり。幼くして頴異なり。示現寺第7世桃渓に謁し15歳にて薙髪し関東に雲遊すること数年、帰て示現寺に住しその後この寺を開基せり。
葦名盛氏その徳を崇敬して田地数町を寄付す。
天正巳丑の兵乱に堂宇燒亡して寺産もまた零落せしが後再興すという。
本尊釈迦客殿に安ず。
地蔵堂
境内にあり。
観音堂
村中にあり。
修験自性院司なり。
本尊はもと千光寺の霊像なり。慶長16年(1611年)8月この像を安置す(下の千光寺跡の条下と併せ見るべし)。
元禄7年(1694年)5月火災ありて、観音・地蔵の両像俱に灰燼となる。その後星某というもの霊跡の荒廃するを悲て、新に観音の像を造り旧像の余燼を軀内に納め小堂を営てこれを安置す。
会津三十三所順禮の一なり。
古蹟
千光寺跡
村の戌(西北西)の方20町余、山中にあり。
或は山寺ともいう。
天平中(729年~749年)釈行基会津郡羽黒山の頂に登り遥に瑞雲の棚引を見てこの地に来たり、一夏の間に弥陀・観音・地蔵の3像を彫刻し1宇を営み慈福山千光寺と名けその像を安置す。また三森山の麓に1院を建立し三森山西蓮寺と號し奥院とす(今村西の山中に遺跡あり)。その後営建年々盛にして僧院300余宇に及べりという。毎年4月17日大齋会あって児子舞などいうこともありしとぞ。
元弘・建武(1331年~1338年)以来兵革打続き堂宇もいつとなく頽破し慶長16年(1611年)8月の地震に盡く顛倒しければ、村南の地に小堂を構て観音・地蔵を安置してこの寺終に絶たり。
その後寛文10年(1670年)正月村民千手堂の跡より1石函を掘出す。中に磬2・特鈷1・銅筒2・大刀5・小刀22・瓶7あり。石函の蓋に『大治五庚戌卯月二日大檀那平孝家散位源朝臣俊邦』と銘あり(大治5年:1130年)。磬・特鈷は新に製れるものの如く、刀劔は鉄気半消したり。村民府に告ければ頓て旧地埋しという。
最勝寺跡
村より申(西南西)の方2町20間にあり。
金剛山最勝寺とて真言宗の寺なり。
元禄8年(1695年)
河沼郡牛沢組朝立村に移す。
館跡
村西40間、山際にあり。
本丸、東西23間・南北35間。
二丸、東西15間・南北30間。
天正中(1573年~1593年)勝次郎某という者住せしという。今畠となる。
余談。
知賀多神社の祭神は
埴山姫命と
大物主命の2柱。三重県鳥羽にある賀多神社とは関連が無いようです。
三森山は
賢谷村にも記載があるのですが、現在どの山が該当するのかわかりません。
最終更新:2020年08月19日 13:07