この村旧賢谷村の端村なり。承應2年(1653年)分て1村とす。
府城の西北に当り行程7里。
家数8軒、東西2町・南北2町。
五枚沢川の両岸に散居し四方田圃なり。
寅(東北東)の方9町
五目組山岩尾村の山界に至る。その村まで23町。
西6町
沼平村の界に至る。その村は申(西南西)に当り17町。
南6町
賢谷村の界に至る。その村まで19町。
北9町
板沢村の界に至る。その村まで21町。
端村
村杉
本村の東5町、山間にあり。
家数10軒、東西2町・南北2町。
山川
沼田山
村北5町にあり。
北は板沢村の山に連なり西は沼平村の山に続く。
長曽祢山
村南13町にあり。
南は賢谷村に界ひ東は五目組半在家村に属し峯を界とす。
五枚沢川
村中にあり。
板沢村の境内より来り、南に流るること20町計
賢谷村の方に注ぐ。
関梁
橋2
一は村中にあり。長1間。
一は村東1町にあり。「カケノシロ橋」といい、端村杉村の通路なり。長6間。
共に五枚沢川に架す土橋なり。
神社
熊野宮
祭神 |
熊野宮? |
相殿 |
総社 2座 |
|
稲荷神 |
鎮座 |
不明 |
端村杉村にあり。
鳥居あり。上三宮村高村能登これを司る。
寺院
観音堂
村より戌亥(北西)の方にあり。
造創の年月詳ならず。
正観音の古き木像を安ず。
村民の持なり。
追記
コメント欄にてとんりすんがりさんより情報を沢山いただきました。
背戸尻村は昭和49年に全戸が木地小屋集落と同じ新崎団地に移転して廃村となってしまいました。
立地的な不便さもそうなのですが、この辺りは昔から地滑りが頻発していたそうで特に昭和の初めに起こった地滑りでは複数の死者が出たそうで、五枚沢川の東側に住んでいた方々は他所に移ってしまい廃村時で居住者は4戸しか残っていなかったようです。現在は廃屋が2軒残るのみで、一面草に覆われ人が訪れている気配も無くこれまで訪れた廃村でも特に寂しげでした。集落の名前も地図から消え欄干が錆び果てた橋に名前が残るのみになっています。
同じく端村の村杉集落も背戸尻集落と同時に12戸が新崎団地に集団移転となったのですが、1軒だけ移転を拒んだ家があり、その方が数十年間集落唯一の住民として現在も生活しているようです。
背戸尻には源義経が奥州に逃れる際に訪れたという伝説があり、せどじり橋の少し手前にあった田んぼにこの地で斃れた「太郎」という義経郎党の墓があったそうですが、今やそこも草木に埋もれてどこにあるのか判然としませんでした。
義経の郎等で太郎と呼ばれていた方は限られます。
- 熊井太郎忠基 - 義経が藤原秀衡の元にいると聞き自分の冑鎧を埋め 急ぎ平泉へ向かったとされる人物。埼玉県比企郡鳩山町に彼が冑鎧埋めたとされる鎧塚があるらしい。
- 堀弥太郎景光 - 義経の都落ちの時に吉野あたりまで付き従うが、後に京に潜んでいる所を捕らえられる。金売吉次と同一視されている人物。
郎等ではありませんが関係者に太郎とつく人物がいます。
- 杉目太郎行信 - 義経の身代わりとして奥州合戦で討死し、鎌倉へ運ばれた首は彼だったという伝承あり。
可能性として高いのは熊井太郎忠基でしょうか?
背戸尻観音は廃村後、新崎団地の近くに移されています。
大正の頃、喜多方のとある呉服屋の大女将が病床で観音様の夢を見、拝み屋さんに見てもらったところ「戌亥の方角に寂しく不遇をかこっている観音様がいらっしゃるのでお祀りして差し上げよ」とのお告げを受け、一ノ木の方まで人をやって探した末、この観音様を見つけ改めてお祀りしたところ病気が治ったという事で評判になり戦前はかなり有名な観音様だったようです。
賢谷集落の方に話を伺ったところ戦時中は武運長久の観音様という事で毎日のように参詣客があったそうですが、戦後はだんだんと寂れてしまったようです。とはいえ、現在も旧住民の方がお祀りしており、毎月17日に御開帳されるようです。お堂の手前の六地蔵様も背戸尻から遷されたもののようです。
Google Mapの観音堂へのリンクを変更しました。
また、杉村にある神社は熊野神社で間違いないとの事です。
最終更新:2020年09月08日 16:55