耶麻郡木曽組堂山村

陸奥国 耶麻郡 木曽組 堂山(たうやま)
大日本地誌大系第32巻 145コマ目

府城の西北に当り行程7里12町。
家数19軒、東西2町38間・南北2町36間。
北は山に倚り南は宮古川に傍ふ。

東7町船引村の界に至る。その村まで11町余。
西19町宮古村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り1里2町30間余。
南1町36間中反村の界に至る。その村まで5町30間余。
北27町早稲谷村の山界に至る。その村まで34町30間余。

この村至徳の頃(1384年~1387年)堂平と称せしが、後何の頃にか今の名に改むという。
郷頭宮城八左衛門が所蔵の文書には大筒2年権現堂あるにより村名とせし(よし)を載たり(旧家の条下に出す)。

小名

長坂(なかさか)

本村より丑寅(北東)の方15町、山上にあり。
家居1軒。

山川

宮古川

村南1町30間余にあり。
宮古村の方より来り、東に流るること1里計船引村の界に入る。

関梁

橋2

一は村南にあり。権現田橋(こんけんたはし)といい中反村の通路なり。
一は村より辰巳(南東)の方6町にあり。下川原橋(しもかはらはし)といい船引村の通路なり。
共に宮古川に架す。長6間、土橋なり。

水利

小名長坂の傍にあり。
周71間。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 山神
   鬼渡神
鎮座 不明
村北2町、山上にあり。
宮城八左衛門が所蔵の文書に、大筒2年鳥子明部という者この村に権現を遷し置くと記せしは当社のことなりといい伝う。
(按ずるに、大筒という年号なし。また文書のさま古の大同を誤りしとも見えず)
鳥居あり。村民の持なり。

古蹟

館跡

村東5町、山上にあり。
東西60間・南北20間、土居・隍の形あり。
相伝て、宮城八左衛門が先祖の宅趾なりという。

旧家

宮城八左衛門

この組の郷頭なり。先祖は宮城野右馬介盛次という。子孫相続いてここに住すといえども世系(せいけい)詳ならず。
今家に蔵る文書左に記す。
  譲状事
  堂山開発之事 大筒二年九月拾貳日 新宮庄小布施明部山之所 鳥子明部其人奉守 権現奉成御宮作置(虫喰)遷置権現半彼所開始也 依有権現堂 此所堂山云り 其後自是新宮奉遷 神験是依為神根本御在所新宮諸公事候共 無彼所諸役者也
一 奥州會津新宮庄 小布施内堂山内開発以来 此神代〻手次事 鳥子明部其子祭主 其子彌藤太郎 其子彌太郎 其伯父彌藤次郎 其子彌平三郎 其子彌平次郎 其子彌平太郎 代〻如此 依為後日状如件
  于時應永三年丙子七月十三日浄法
一 奥州會津新宮庄 小布施堂山浄法跡事 依有志彌平太郎入道戒名圓法譲置處實也 但在所依為権現御神領 無諸役義於子孫雖有望半者 任此譲状可相続 依為後日譲状如件
            彌平次郎入郎 
  于時應永三年丙子七月十三日 浄法
(一行不明)
  仰本文破申候聞 如形写置申候也
           筆者(不詳)書
  于時永正十四季丁丑閏十月拾貳日主太郎右衛門
文書         主大□□□
 堂山地ぬしの本名のこと 當國宮城なりまくのもんはこひきりやうにひたりともへすそくろなり
           みやきのむまの助
大とう二ねん六月十二日   盛次判
 われら窂人の身として かゝることを書をくへきにはあらねとも 末代のものともの中に しせんせんそをたつねんとおもはん人のために かやうにしるしをき候なり くはしきことは ほん文書にあり
大とう二年六月十二日   もりつく
 はしめのほんふり候て破候間 永正十四年十月十九日うつし候也
永正十四年十月十八日  太郎左衛門
※大同2年:807年、應永3年:1396年、永正14年:1517年



余談:熊野宮の造立時期について
会津地方に熊野宮が沢山作られたのは源義家の東征後なので寛治元年(1087年)より後の事かと思われます。大同2年(807年)は考えずらいですね。寛治元年~応永3年の間に「大」から始まる元号は大治(1126年~)しかありません。なので大治2年(1127年)以後のに造立かと思われます。
最終更新:2020年09月09日 20:16