この両村は田圃相雑り地界を分たず。
赤岩村は府城の西北に当り行程7里、家数9軒、東西4町・南北3町。
中山村は赤岩村の辰巳(南東)の方に続き小渓を隔つ。家数9軒、東西1町・南北3町。
共に西北は山を負い南は揚川に傍い、山腰に住し1村のごとし。
東7町
利田村の界に至る。その村まで21町。
西21町20間
井谷村の界に至る。その村まで26町。
南4町
河沼郡野沢組尾登村に界ひ揚川を限りとす。その村まで7町。
北1町
大蘆村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り8町余。
また
申(西南西)の方25町
八重窪村の界に至る。その村まで38町。
赤岩村 端村
中村
本村より未(南南西)の方5町にあり。
家数5軒、東西1町・南北1町10間。
東南の方揚川に臨み、山の半腹に住す。
子峯
中村より未(南南西)の方8町にあり。
家数8軒、東西1町40間・南北1町10間。
四方田圃にて北は山に近し。
中山村 端村
橋沢
本村の北40間にあり。
家数4軒、東西1町・南北50間。
東西は山に傍ひ北は大蘆村の端村橋沢に連なる。
山川
鈍子岩
端村中村の辰巳(南東)の方5町、揚川の辺にあり。
高3丈余。
この岩に碁石を産すれば「たうす岩」と言うべきを誤りしなるべし。
揚川
利田村の界より来り、村南を西に流れ端村中村の東にて未申(南西)の方に折れ、端村子峯の南に至り戌亥(北西)の方に転じ、境内を経ること32町計
八重窪村の界にはいる。
小舟を設け野沢組の諸村に通す。
沼
赤岩村の西12町にあり。
東西1町・南北50間、沼坂沼という。
水利
堤8
一は端村中村より丑(北北東)の方6町にあり。周70間余、慶長4年(1599年)に築く。
一は中山村の東4町にあり。周60間余、寶暦10年(1760年)築く。
一はその奥1町計にあり。周90間余、元禄14年(1701年)に築く。
一は中山村より5町辰(東南東)の方にあり。周80間余、元禄5年(1692年)に築く。
一は赤岩村より申(西南西)の方17町にあり。周90間余、明暦元年(1655年)に築く。
一はその東に並ぶ。周110間計、寶暦13年(1763年)築く。
一は赤岩村より10町未(南南西)の方にあり。周180間、享保12年(1727年)築く。
一はその奥10町計にあり。周100計。
神社
天満宮
端村子峯の辰巳(南東)の方2町余にあり。
鳥居あり。上三宮村高村能登が司なり。
稲荷神社
端村中村の西1町にあり。
鳥居あり。高村能登が司なり。
寺院
高山寺
赤岩村の北にあり。
山號を赤岩山と称す。下野国大沢圓通寺の末山浄土宗なり。
開基詳ならず。
天文3年(1534年)良光という僧再興す。因て良光を中興とす。
本尊弥陀客殿に安ず。
古蹟
館跡2
一は赤岩村より戌(西北西)の方4町、山麓にあり。東西60間・南北50間。何の頃にか田代和泉という者住せしという。今畠となり、字を田代という。この所より陶器の損せるものと石砮を得ることあり。
一は中山村の東6町にあり。東西60間・南北50間。天正の頃(1573年~1593年)上野蔵人盛重とう者住せしという。今は茂林となる。
- Google Map
- 赤岩地区
- 中山地区
- 鈍子岩?
- 沼坂沼?
- 八重窪村から戸屋峠山を越え、赤岩村に向かう途中にある沼。
- 神社?(子峯。山郷ダムの近く。天満宮?)
- 神社?(中村。石段のようなものが見える。本殿はさらに山の上か?)
- 高山寺
- 館跡(田代和泉の館)?
- 館跡(上野蔵人盛重の館)?
- 春日神社石祠(子峯の西側)
- 子峯から県道367号新郷荻野線を西に行くと入口に案内板あり。
- 山郷ダム(ストリートビュー)
余談。
春日神社石祠について喜多方市の広報(平成28年1月発行)に記載がありました。
PDFファイルで重かったので紹介文を引用させていただきます。
春日神社石祠
蒲生氏以来、阿賀川の開削工事は会津藩の歴代藩主により数度にわたって実施されてきました。そのため通船事業も難所との長い戦いの歴史といえます。
嘉永4年(1851)、津川町検断の佐藤左七郎の建白により、越後国
水原の高田屋喜三郎が、難所である大明神の瀬の工事を請け負いました。
喜三郎は通船普請成就を祈る銘文と、工事に関わった赤岩村高橋三十郎他、越後国津川や水原の住民の名を石祠に刻み、春日大明神のご加護を祈願しました。
結局その努力もむなしく、幕末に至るまで安定した航路の開通とはならなかったようですが、発電所のダムにより川筋の多くが水没した現在は、わずかながらもこの石祠によって阿賀川舟運史の一端を垣間見ることができるのです。
ちなみに、昭和31年(1956)に春日神社は日月神社・
諏訪神社と合社して羽賀坐神社となりました。
最終更新:2020年09月16日 21:33