耶麻郡大谷組大蘆村

陸奥国 耶麻郡 大谷組 大蘆(おほあし)
大日本地誌大系第32巻 152コマ目

府城の西北に当り行程7里。
家数7軒、東西1町20間・南北1町40間。
山中に住し西南に田圃(たんぼ)あり。

東5町利田村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り28町20間余。
西13町・南8町、共に中山・赤岩両村の山界に至る。両村は共に未(南南西)に当り8町余。
北4町28間吉田組平明村の山に界ふ。

里人の説に、旧この地に周100間余の池ありしが、上林村(今木曽組に属す)の住福地越後という者水をさぐり田畝を闢かんとせしに、池中に(みずち)住みて(わざわい)をなしければ、水辺に舞台を構え児童をして遊舞(ゆうぶ)せしめ、その隙に水を引いて終にこの地を闢きしという。大蘆と名けしは池辺に蘆多くありし故によるとぞ。

端村

橋沢(はしさは)

本村より未(南南西)の方9町にあり。
家数6軒、東西40間・南北1町。
東西は山に()ひ南は中山村の端村橋沢につづく。

山川

机森山(つくへがもりやま)

村より寅(東北東)の方3町にあり。
登ること5丈計。
相伝ふ。昔いつの頃にか高寺に戦いありし時、この山に机を置き着到(ちゃくとう)を改めしゆえこの名ありとぞ。

鷹待場山(たかまちはやま)

村より辰(東南東)の方4町にあり。
高30丈計。
葦名氏の臣平田備中という者年々この山に綱をはり鷹をまちし(ゆえ)名つくという。

水利

堤2

一は村北にあり。周90間、正徳中(1711年~1716年)築く。
一は村北6町にあり。周70間余。

神社

熊野宮

祭神 熊野宮?
相殿 八幡宮
   山神
   稲荷神
   熊野宮
草創 不明
端村橋沢の戌亥(北西)の方1町余、山麓にあり。
鳥居あり。上三宮村高村能登これを司る。



余談。
高寺(坂下町の西、高寺山。もしくは立木観音の位置)がどこかの勢力と戦ったと記載がありますが、記録にあるのは下記の2回かと。
  • 宝亀6年(775年)の勝負沢の戦い
    • 中央集権化を推し進める一派(詳細不明)が侵略。
  • 建久元年(1190年)頃の高寺おろし
    • 恵日寺(及び越後城氏?)の勢力との抗争。
高寺の位置から大蘆村までは間に揚川(阿賀川)と只見川、もしくは遠回りして日橋川と大河を渡る必要があります。
高寺おろしの年代だと会津西部の揚川流域は越後城氏が(長井袋原には城長茂の奥方竈御前の別宅がありました)、坂下町は恵日寺の勢力下だったはずです。会津西部にある大蘆村辺りで高寺に関する集会を開くには不自然な気がします。
であれば、本項の記載は宝亀6年(775年)の中央集権を進める謎の勢力との戦いの事かと。

…なんとなくですが、伊治呰麻呂による蝦夷征伐が上記戦と関連しているような気がします。
呰麻呂は元々俘囚ですが朝廷に帰服しており、蝦夷征伐(慰撫)の行賞で宝亀9年(778年)に外従五位下の位を賜っています。そんな彼が朝廷に反旗を翻したのが宝亀の乱(宝亀11年(780年))で、主に藤原仲麻呂等による(陸奥)地方の圧政に耐え切れなくなった為と言われています(諸説あり)。これより陸奥・出羽国では戦乱が広がっていくことに。
最終更新:2020年09月17日 21:34