河沼郡坂下組長井村

陸奥国 河沼郡 坂下組 長井(なかい)
大日本地誌大系第33巻 127コマ目

府城の西北に当り行程5里33町。
家数59軒、東西5町40間・南北2町22間。
東北は日橋川に臨み西南は山に倚る。

東1町20間・北30間、共に耶麻郡慶徳組真木村に界ひ日橋川を限りとす。
西8町53間河原田村の山に界ふ。その村は戌(西北西)に当り29町30間。
南12町20間青津組津尻村の山に界ふ。その村は辰(東南東)に当り1里。
また
未申(南西)の方12町40間田中村の山に界ふ。その村まで35町。

山川

松林

村南9町20間山中にあり。
東西3町20間・南北2町30間。香原(かうがはら)という。
千笑原(せんさくはら)芍薬(しゃくやく)花盛の時香気ここに聞こえし(ゆえ)名付しとぞ。

日橋川

村北1町計にあり。
津尻村の界より来り、村東を北に流れ西に折れ村北をすぎ、また北に折れ東に転じ北に流れ西に転じ袋原の三面を回り河原田村の界に入る。
この間地勢に随い山腰を(めぐ)ること凡2里計。

原野

袋原(ふくろはら)

村北9町30間にあり。
西一方のみ本村の地に続き三面に日橋川を帯び、南は真木村の地に対し東と北とは慶徳組新宮村・慶徳村、木曽組小布瀬原村の山に対す。
東西25町50間・南北12町30間。
草茅生茂り往々に田圃を開く。多く萱蕨を産す。
城長茂夫妻の遺躅あり。下に載す。
※国立公文書館「新編会津風土記90」より。

三本木原(さんほんきはら)

村西4町10間余にあり。
東西2町20間・南北2町。

水利

堤3

一を荻野窪堤(おきのくほつつみ)という。
周331間。萬治2年(1659年)これを築く。
村より11町40間巳(南南東)の方にあり。
一を袖山堤(そてやまつつみ)という。
周120間。
村より未(南南西)の方11町にあり。
一を大開堤(おほひらきつつみ)という。
周142間。
村より12町未(南南西)申(西南西)の方にあり。
袖山堤は享保11年(1727年)に築き大開堤は寶永4年(1707年)に築く。

神社

安部仲麿神社

祭神 安部仲麿?
相殿 稲荷神
   聖神
   御稷神
鎮座 不明
村西3町、日橋川の南岸にあり。
その社地を侵せば祟りありといい伝う。
鳥居あり。塔寺村兼子大和が司なり。

寺院

極樂寺

村南1町にあり。
山號を花城山という。開基詳ならず。
暦應中(1338年~1342年)空範という僧住せしとぞ。
真言宗府下大和町弥勒寺の末山なり。
本尊地蔵客殿に安ず。

地蔵堂

村東にあり。
何れの頃の草創にか詳ならず。
村民の持なり。

古蹟

竈御前宅趾(かまとごぜんたくあと)

村北15町計袋原の中にあり。
草莽の間に8~9尺宛隔て大成礎相並ぶ。昔は数多ありしが、何れの頃にか極楽寺を修補せし時堀取しとて、今はわずか6、7ヶ所残れり。その側に御前清水・舞台沼あり。今は涸れて水浅く多く葭を生す。
また原中西北の方に竈滝あり。その所西南山覆い北に川流れ幽邃(ゆうすい)なる地なり。渓流岩間より3、4段となりて下り、長藤古木の間に(そそ)ぐ。潺湲(せんかん)の聲を聞く者不覚懐古の情を生す。
土人の説に、昔この辺は城四郎長茂伝領の地なりし(ゆえ)年毎にその妻竈を携来り、千笑原の芍薬を賞しこの地にて遊観歌舞しけり。
壽永元年(1182年)信州横田河原の戦いに木曽義仲に打負て後越後国にたまり兼(のがれ)てここに住せしが、竈は幾程なくて身まかりければやがてこの地に葬れりとぞ。今原中に1堆の古塚あり。高5尺計・周5間計、これをその葬処なりとて村民崇敬す。
平家物語に長茂木曽追討の為にとて越後・出羽・会津四郡の兵共を引率し信濃国に発向(はっこう)すという。
源平盛衰記には長茂が兄資永が事を国中に安堵せずして出羽国に越て金沢という所にありと聞ゆという。また長茂が許より京都に註進したるには、資永任国の越後は木曽押領の間不及国務とも見えたれば、越後国を逐落されしは一定なり。
平家物語に城四郎我身手負辛き命いきつつ何に付て越後国に引退くと記してその後の事見えざれども、東鑑壽永元年(1182年)9月28日の条下に『越後国城四郎永用於越後国小河荘赤谷構城郭剰奉祟妙見大菩薩奉咒詛源家由有其聞』*1とあれば里人の説左もあるべし。
実もこの所は大河を三面に帯び西一方のみ本村の地に通し人烟四方に稀なる境地なれば、世を忍べる人の居住せし所なるべし。原の東端に大四圍計の榎あり。その辺の字を木戸口といい古瓦石砮を出す。また南面川に付たる畠の字に馬おろしという所あり。馬場・的場の跡という所もあり。
(越後国蒲原郡下條組赤谷村の条下と併るべし)

千笑原(せんさくはら)

村南にあり。
東西2町20間余・南北1町20間余の芝原なり。
この所は高寺の園ありし跡とて昔より芍薬あり。城長茂また数千茎を植続きその妻と共に遊宴せしとぞ。今も原中芍薬多し。4月の末、5月の初には幽艶眼に満ち昔を忍ぶ媒となれり。花は一重にて紅花のもの多し。
慶長7年(1602年)蒲生秀行この地に花を賞せしこと長帳に見ゆ。その時仮屋を建しあとあり。今に至るまで不浄を置ず。
この原の芍薬は昔より堀取ることを許さず。寛政12年(1800年)より制札を立てその枝を折ることを禁ず。
原中東の方に経塚あり。これ長茂その妻の冥福を助けん為、極楽寺の僧徒をして小石を聚て経文を書せしめて埋めしとぞ。今に原上の石に往々墨痕あるものを見ることありという。

佐藤惣左衛門

その先祖蒲生氏の時よりこの村の肝煎を務。相続いて今に至るという。
家に多く古文書を蔵む。その1、2を載す。元和中(1615年~1624年)二本松城主ならび合戦の事を記せしものあり。因に出す。その文如左(※略)




蛇足。
安部仲麿神社の安部仲麿は阿倍仲麻呂の事を指していますが、なぜこの地で祭られているのでしょう。縁もゆかりも無いように思えるのですが。祖父である阿倍比羅夫(越国の豪族という説がある)ならなんとなくわかるのですが。

追記。
コメント欄で情報いただきました。
安部仲麿神社の祭神は阿部仲麻呂で間違いないとの事です。阿賀川が氾濫し洪水となった時にふらりと現れ村民を助けた靈翁が安部仲麿と名乗り、感謝した村民達が鎮守神として奉ったのがこの神社の起る所のようです。