蒲原郡上條組高出村

越後国 蒲原郡 上條組 高出(たかいて)
大日本地誌大系第34巻 49コマ目

府城の西に当り行程15里。
家数19軒、東西1町30間・南北2町。
東は室谷川に近く西は山に傍ひ、四方に田圃(たんぼ)あり。

東4町45間小杉村に界ひ室谷川を限りとす。その村は丑(北北東)に当り9町。
西は下條組谷沢村の山に続き、北は九島村の山に交わり、共に界域分明ならず。
巳(南南東)の方8町八田蟹村の界に至る。その村まで11町。

山川

室谷川

村東4町計にあり。
橡堀村の境内より来り、北に流るること13町小杉村の界に入る。

清水2

一は村北にあり。月見御所といいし人の用いし水にや。御所清水という。周7間。土人尊敬して用いるものなし。旱歳に雨を祈る所とす。
一は村中にあり。土佐清水という。周6間。

神社

若宮八幡宮

祭神 若宮八幡?
勧請 不明
村中にあり。
鳥居あり。九島村齋藤丹後これを司る。

御所神社

祭神 伝・月見御所の霊
鎮座 不明
村北40間にあり。
元弘・建武の頃(1331年~1338年)月見御所とてこの村に来り住す。因てその霊を祭るという。
鳥居あり。村民の持なり。

寶物

兜鍪前立物 1枚。
地は革にて黒漆。表の方所々剥落す。裏に鍬形(くわがた)をうちしあとあり。寛文の頃(1661年~1673年)までは金の鍬形もありしとぞ。その図左に載す。
※国立公文書館『新編会津風土記102』より
また9寸8分の短刀1口あり。無銘・古作と見ゆ。
共に月見御所の物といい伝う。

寺院

嶺寒寺

村中にあり。
高井山と號す。草水村観音寺の末山曹洞宗なり。
縁起に、文治2年(1186年)この村の地頭長谷川土佐某というもの開基にて、桃悟という僧を住持とす。土佐死してその法名により寺の名とし、また境内清冽の水あるゆえ山號とせり。その後元弘・建武の頃(1331年~1338年)の頃都人この地に来り住せしを、土人尊崇して月見御所と称せしとぞ。この時普學という僧ここに来り彼人と力を(あわ)せ破壊を補理(ほり)す。
旧はここより東5町計にあり。いつの頃にか地震して寺後の山崩れ堂宇(ことごと)頽轉(たいてん)す。
永正11年(1514年)この所に寺を建立し、明呑という僧を中興とす。
古き牌子3面あり。
一は高1尺7寸6分・幅2尺、『大圓覺高倉院尊位』(?の字は「以」か?)としるし、年月・干支を(しる)さず。寺僧相伝て、高倉宮以仁王の霊牌という。
一は高1尺4寸・幅2寸、『月見院尊霊』としるし、また年月・性氏なし。月見御所といいし人の位牌なるべしとぞ。
一は高2尺・幅5寸5分、『當寺開基嶺春心寒居士霊位文治二年四月朔日』と注す。長谷川土佐が位牌という。
本尊十一面観音客殿に安ず。

古蹟

館跡2

一は村中にあり。東西10間・南北20間。今菜圃(さいほ)となる。相伝て、長谷川土佐某が居宅なりという。
一は村南6町にあり。東西10間・南北20間。何人の住せしということしれず。この所の字を揚城(あけしやう)という。


東蒲原郡史蹟誌より一部引用
或説に曰く、月見御所と称せしは後醍醐天皇の臣北畠少将有澄卿なり。北條高時下知して越後國蒲原郡小川荘に流罪す。後ち歸洛し近江國宮津に於て逝去すと。予嘗て小川のしがらみを著し、月見御所私考を掲ぐ。今之を左に摘記して參按となす。
  • 新潟県の古四王神社
    • 御所神社について記載がありました。
    • 記述内の神社明細帳は「新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡デジタルライブラリー」にて見る事ができます。リンクが無効となるみたいなので、詳細蔵書検索の全項目欄に「神社明細帳 阿賀町」と入れて検索してみてください。
      ※111、112ページ目の画像。御所神社の所に大きく×と書かれ、明治42年3月31日若宮八幡神社に合併したとのメモ書きがあります。


余談。
阿賀町の公式ホームページ内に「阿賀町公民館だより」という住民向け冊子?のアーカイブがあります。
阿賀町公民館だより
2008年8月号(PDF)に「阿賀ふるさとカレッジ開催日程-ふるさと発見教室」の記事があり、9月9日(火)に講師が野村区在住の杉崎巌さんという方で「月見御所の遺跡を訪ねて」という教室が開催されたようです。
記事の内容を引用します。
阿賀町高出には、月見御所という貴人が住んだ伝説があり、関係遺跡として嶺寒寺、土佐清水跡、揚城跡、王ヶ峯、御所の墳墓と云う銭神塚跡、御所清水跡など訪ね、阿賀町の伝説を知りたい。
大分前の記事ですし受講内容について残っているかどうか不明ですが、2008年時点で上記の遺跡が残っていたようです。
残念ながら現存する遺跡がどこにあるのかデータを見つけられませんでした。
最終更新:2020年10月22日 21:48
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