府城の西に当り行程15里。
家数31軒、東西1町・南北4町。
山間に住し東は室谷川に傍ふ。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
東4町
八田蟹村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り6町。
西25町計
下條組谷沢村の山に界ふ。
南4町
広瀬村の界に至る。その村は未申(南西)に当り8町。
北10町
高出村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り10町。
山川
仁谷山
村西1里計にあり。
頂上まで15町計。数村入逢なり。
松・杉多く、黄連を産す。
ここより西南に連れる鍋倉という山に周8、9間・深2丈計の土穴あり。
村老の説に、昔高倉宮以仁王御生害ありし所なり。因てこの辺を御生害峯といい、この穴今に草木を生せず旱歳雨を祈れば験あり、故に「時雨御竈」ともいう。
また一説に、この所は宮の御生害ありし所にはあらず、いつの頃にか時雨王という人、乱を避けてここに匿れしに、炊煙を認て蹝跡せられんことを恐れ斯穴を穿ち飯を炊きし所故「御竈」の名あり。この人の詠なりとて
鹿ならて かよはぬ道も ふみわけて 今よりのちは すむ人のたに
といえる歌、土人の口碑に伝う。
(
舊事雑考には永亨5年(1433年)新宮氏この地にて自殺せしよしを註せり)
室谷川
村東4町計にあり。
広瀬村の方より来り、北に流るること13町計
高出村の界に入る。
御番沢
村北2町計にあり。
源を仁谷山に発し、所々の渓流これに注ぎ、1里30町山中を屈曲して流れ室谷川に入る。
広10間。
この水を引て田地に漑ぐ。
旧この所より村松領川内谷の諸村に通る径路ありし故、加藤氏の時よりここに口留番所を置き往来を察せしむ。近頃通行の者なく草木繁茂せしにより、寛政5年(1793年)に廃す。御番沢の名も番所ありし故なりとぞ。
因に加藤氏の時あたえし文書を左に出す。
覚
一 足まへ之事
一 高に掛り候金銀の事
一 京夫江戸夫之事
右者小川庄栃堀村之内越後へ之道筋人ケ
谷に其村ゟ定番を置候に付而 右
之通許置候條 不致油断堅可守者也
寛永十六年 守 主馬
九月十六日 判
小川庄栃堀村
肝煎
百姓中
屏風滝
村より戌亥(北西)の方6町余、御番沢にあり。
高20丈計。
両岸岩峙て屏風の如し。
沼
村西8町にあり。
周80間。
神社
山神社
村南30間にあり。
鳥居あり。九島村齋藤丹後が司なり。
古蹟
館跡
村より戌(西北西)の方3町、山上にあり。
東西25間・南北40間、隍の趾遺れり。
村民伝ていう。治承年中(1177年~1181年)長谷部兵衛尉信連、高倉宮に従い来り守護の為ここに築く。
信連もと大和国広瀬郡広瀬郷を領せしかば、故郷忘れがたくその名をここに移し広瀬城と名けしとぞ。
旧家
長谷川源左衛門
この村の肝煎なり。
長谷部信連が子孫といい伝えれども系譜を失い、いかなる故にて長谷川を名乗りしにか知れず。
元和6年(1620年)蒲生家よりあたえし文書を蔵む。その文如左。
漆之木有之在〻所〻蝋漆之御年貢に付而迷惑仕由候然者書在郷肝煎百姓手柄次第に漆之木うへふやし可申候 何程多ふへ候とも 今迄村〻ゟ納來御年貢より御增候て被召上候義 末代迄有間敷候 然上ハ以來枯木風折木又は如何様之申分雖有之 今迄之御帳面之内一本も御引有敷候 得其意漆之木修理可仕候在〻くつろき候様にと被思召 右之通被仰出候間 以來違變有之間敷候間 全存其旨 精を入植ふやし可申者也
元和六年九月十五日 福西吉左衛門尉 宗長 判
稲田数馬助 貞忠 判
小川庄栃堀村肝煎百姓中
- Google Map
- 栃堀地区
- 人ヶ谷山(仁谷山)
- 鍋倉山
- 室谷川 - 現在の常浪川
- 御番沢 - 現在の御番沢川のこと(常浪川との合流地点)。川沿いに林道が通っています。
- 屏風滝 - 不明。
- 山神社(大山神社?)
- 広瀬城跡 - 不明。
- 村西に城山という山があります。この山上にあったのではないのでしょうか?
余談:林道新箕輪線。
御番沢川が常浪川へと合流する地より御番沢川沿いに走り、北上し
(下條組)谷沢村方面へと抜ける林道です。
始点から約5㎞の所に2つの遺跡があります。残念ながら詳しい場所が載っている資料がないためGoogle Map上にマークすることができませんが、通行した方がブログに案内板の写真を載せていたので参考にしたいと思います。
遺跡
- 道標姫桂
- ブログ内に説明がありますが番所があった所です。現在も立派なカツラの木がそびえており、根本には案内板が立っています。
- 人ヶ谷岩陰遺跡
- 縄文時代の遺跡だそうです。数度の発掘調査も行われており、現地には案内板が立っています。(参照:ラ・ラ・ネット)
最終更新:2020年10月23日 21:37