府城の西に当り行程15里。
東西2区に住し、その間6町30間余を隔つ。
東を面倉という。家数20軒、東西2町・南北2町。
西を広手という。家数9軒、東西27間・南北22間。
共に幽谷の中に住す。
東1里12町30間
土井村に界ひ鳥屋峠を限りとす。その村は辰巳(南東)に当り1里35町余。
西3町1間
安用村の山界に至る。その村は未申(南西)に当り13町50間余。
南8町
押手村の山界に至る。その村まで15町40間。
北19町6間
小出村の山界に至る。その村は亥(北北西)に当り1里余。
端村
屋敷
面倉より寅(東北東)の方10町30間余にあり。
家数6軒、東西1町・南北1町10間、山間に住す。
中山
面倉より辰(東南東)の方31町50間余にあり。
家数16軒、東西2町20間・南北2町、山間に住す。
茗荷新田
面倉の東1里13町にあり。
家数3軒、東西10間・南北1町。
山間に住し、西は土井川に傍ふ。
夷棚
広手より戌(西北西)の方10町30間余にあり。
家数4軒、東西50間・南北30間、山間に住す。
山川
面倉嶽(大嶽/龍嶽)
面倉より丑寅(北東)の方2町にあり。
頂上まで15町計。
位置に大嶽とも龍嶽ともいう。
旱魃の年雨請する山なり。
子生山
面倉の東32町計にあり。
頂上まで19町。
雑木蕃蔚す。
猿多くすめり。
鳥屋峠
端村中山より辰巳(南東)の方にあり。
頂上まで15町余。
ここを踰て
土井村にゆく。
土井川
面倉の東27町にあり。
土井村の境内より来り、西北に流るること1里20町計
小出村の界に入る。
神社
山神社
広手より辰(東南東)の方40間余、山上にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
富士神社
端村屋敷の西1町30間余にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
熊野宮
端村中山の西北1町計、山麓にあり。
鳥居あり。粟瀬村渡部宮内が司なり。
山神社
端村夷棚の南30間余にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
墳墓
古墳
端村中山の西5町計、小倉嶺という山上にあり。
2間四方程の平地にて、土人石神とも御廟山とも称す。
高倉宮以仁親王の墓なりとて、高3、4尺余・径9尺計の封土の上に栗の老樹あり。その側に車の形に造りなせし石塔のごときものあり。その中は空虚にして跗石の左右に16輻の車輪を彫付け、その径8寸。後に表石の如きものあり。高1尺計、五角の淡白色の石なり。
ここより北の峯つづき16間計にもまた石の車、家形並びたてり。その後に表石をたて封土の上に樹を栽る。南にあるものと同じ。この辺5、6町の間は森々たる栗林にて、最も幽邃なり。
この所より10歩ばかり東に下て、東西2町・南北2町余の平地あり。宮の住み給いし第跡なりとて、封疆の跡わずかに遺れり。
ここより北の方30間計に空堀2あり。一は幅2間半。一は幅4間半。共に深2間計。土人陥井と称す。またその側の字を大城戸という。みなこれ要害の為に設けしとぞ。
この所より東の方少し隔て、土堤のごとく南北に横たわりたる小峯の東面に大なる塚5、小塚20余つらなれり。何人の墓ということを伝えず。
案ずるに、以仁親王は後白河帝第二皇子にて京三条高倉の御所におはしければ、三条宮とも高倉宮とも称す。
治承4年(1180年)5月、源三位入道頼政のすすめにより父皇の叡慮を慰んために平氏を滅さんと謀り給いしに、その事ならずして大和国奈良へ落給う処に、光明山の鳥居の前にて流矢に当りて薨す。時に歳30歳と東鑑・平家物語・源平盛衰記等に見えたり。されど村民の口碑に伝わる所は、田原又太郎忠綱が計らいにて東海道より甲斐・信濃の山路を経て上野国沼田の里に道をとり、陸奥国会津郡に来り、遂にこの所にかくれ居て天年を終り給う。車家形の塚はその墓なりという。
(一は宮の子もしくはその簾中などの墓にや。いづれを宮の墓なりというとは伝えず)
薨御の年は伝えねども4月3日なりとて、今に尊崇すること大方ならず。
平家物語・源平盛衰記等にも高倉宮には常に人の参よることなかりければ、見知まいらせたる者なし。或女房に見せて一定の御首なることを知りしと見え、愚管抄にはその学問の師宗成をしてこれを見せて疑をはるけしなども見えたれば、その世にも生死さだかならず疑ありと見ゆ。また玉海・治承4年(1180年)9月23日の記に『伝聞く、高倉宮及び頼政入道、朔日頃駿河国を経て奥の方に向う』のよし、彼土人の告札あり。同10月8日の記には『伝聞、高倉宮必定見在なり。去る7月伊豆国に下着、当時甲斐国に在、仲綱以下相具して祇候す』と記さる。またその遺蹟と伝わる所、会津・大沼2郡及び本郡の内所々にあり(各その地所にあらわす)。
これ等の趣を併せ考えれば、土人の伝える所謂れなしとも言い難し。
石塔2基
中山の西1町計にあり。
一は高2尺5寸余・幅7寸5分径。跗石径2尺4寸余。『壽清浄堅信士塔清銀太郎貞永為菩提子孫修建仁二壬戌年四月二日』と彫付(建仁2年:1202年)。
一は高2尺計の無法塔にて、跗石径1尺7寸余『清水寺二世數學上人豆州賀茂郡入間村主瑞雲山海蔵禅寺隠首大源玄徹叟』と彫付けあり。
共にその世のものとは見えず。
古蹟
百八燈山
中山の東にあり。御廟山と相対す。
山勢南北に邐迤し高からず。
昔高倉宮ここに住み給いしとき108の燈火を挑げし所ゆえ名くという。
寺趾
中山の未申(南西)の方にあり。
高倉宮、洛東歌の中山清閑寺の僧を召下し1寺を草創し清水寺と名け村を東山と名けしとぞ。
いつの頃廃せしということしれず。
この所の字を寺屋敷という。
余談。
以仁王逃亡伝説について過去色々と検証がなされてきました。実際に御廟山の発掘調査も行われたようですが、以仁王の墳墓と断定はできない(要はよくわからない)との結果が出たと記憶しています。
歴史の裏舞台であり正史には載っていない伝承ですので「この説が絶対に正しい」はありませんが、会津風土記に載っている足跡を調べるだけでも彼の親王は小川荘に来ていると信じたくなります。
参考
最終更新:2020年10月31日 22:32