極楽寺北通より南に折れ屈曲して新丁に出る小路なり。
長2町10軒余。
(この通みな東西の丁の裏行なり)
寺院
極楽寺
この小路の西頬にあり。
浄土宗本州岩城郡郡山崎専称寺の末寺なり。菩提山と號す。
慶長13年(1608年)大聽という僧草創せり。大聽もと岩城郡の産なり。早歳釈門に入り鎭西善導が法流を汲み、出羽国米沢極楽寺に住して大いに僧徒を集め法幢を建て法威を一宗に奪い妙譽を遠近に騁すと云えり。後居を本郡に卜せんとす時に岡半兵衛大聽と旧好あり、因て為に地を領主に請てこの寺を開き旧號を用いて極楽寺と称す。
三尊弥陀を本尊とし庫裏に安ず。
五輪
一基。境内にあり。高1丈計。
『江寒石照大禪定門慶長十八年丑十二月八日』と彫付けあり(慶長18年=1613年)。岡半兵衛重政が墓なり。
重政は蒲生家の臣にて越後国蒲原郡小川荘燒山の館に住し3万3千石を領し、この辺に装束屋敷ありて常に騎馬の者70人を置きしとぞ。
後慶長18年(1613年)罪ありて駿府に召され、遂に彼地にて戮せらる。如何なる罪状にかその故を知るものなり(武徳編年慶長19年の記には『重政津川の城にありしに忠郷母堂の命に背き外池信濃良重と彼地を引くよし駿府に聞こえ五月十日蒲生五郎兵衛郷春に津川の城を賜はりし』と見ゆ)。
初め半兵衛燒山の館を修理せんとて暫くこの装束屋敷に移り居しが、日毎に人をも倶せず何くともなく出て行き日暮れに帰りし。その体甚だ興に入しかば妻怪で人をして窺い見せしむるに、
高久組神指村なる如来堂の林中に至てその行方を失いしという。妻
愈怪み、半兵衛が帰りをまちその
故を詰り問いしに半兵衛笑って言う。
吾先に神指村の如来堂に至るに深く林の中に笑語の聲聞こえしかば、不審に思って伺い行くに女兒8、9人計なみ居て酒及かわせしが吾名を呼びて挫に伴い酒肴を進めて餐しぬ。日暮れ酒闌に及びて今は帰りなんと云うを衣裾にすがりて止めしかば又の日を約して帰れり。後その興忘るること能わず日毎に彼処に行て遊ぶなりと語る。
妻熟々聞いて
猶不審晴れず、人をして行て見せしむるに
但堂中古額一版あり。女兒の遊せる図なりという。妻聞て
扨こそと思い人を馳て件の額を取りかくせり。その後半兵衛彼の所に至り先の女を
覔めるに蹟形もなかりしとぞ。人々始めてその怪異を覺れり。後幾くもなくして戮に就けりという。
彼額画者を詳にせざれども妙手の筆する処なりとて、近き頃まで後分町圓福寺に納め置きしが災に罹りて失せしとぞ。
参照・補足
- 蒲原郡海道組焼山村 - 本文にある越後国蒲原郡小川荘燒山とはこの村か。ただ焼山村に岡半兵衛の記載はない。
- 蒲原郡津川町 - 慶長6年より岡半兵衛重政が猿戻城の城代を務める旨の記載あり
外部リンク等
武徳編年集成の岡半兵衛の記載について
武徳編年集成 巻之六十四
慶長十九甲寅年(1615年)
五月小 ◯十日の記
蒲生下野守忠郷の朝臣岡半兵衛重政は忠郷母堂の命に背き外池信濃良重と氏に彼地を引く事神君の上総に達しければ則蒲生五郎兵衛郷春に津川の城を賜り先達て浪客となる蒲生源左衛門郷成を招き帰し三春の城四萬五千石を授け政事を執らしむべき旨命ぜらる。
最終更新:2026年02月08日 21:00