祭神 | |
相殿 | 三島神 |
若宮八幡 | |
鎮座 | 不明 |
神社仏堂名 | 祭日 | 旧祭日 | 位置 | 備考 |
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熊野神社 | 新五月三日 | 新五月一五日 | 根岸山 | |
子育地蔵さま | 春(三月か四月、二四日) | 旧三月二四日 | 根岸山 | 婦人会が管理し、気候等を見合わせて祭りをする |
観音さま | 新八月九日 新八月一七日 |
旧七月九日 旧七月一七日 |
根岸山 | 聖観音。もと、ふくろ口にあった寺の本尊 |
短銃もって郵便配達
「ころぶいし」と書いて通称「ころぶし峠」という。田島町大字静川のうち黒沢部落(旧黒沢新田村)から昭和村大字大芦までを結ぶ三里一三町(約13.4キロメートル)の山道で、田島側が黒沢・昭和側が畑沢に沿っている。そのほぼ中央に転石峠(標高1115メートル)があり、この附近の峠では高い方に属する。中山峠(1155)駒止峠(1135)に次ぐ高さで、山王峠の906メートルや船鼻峠の1027メートルより高い。黒沢部落も大芦部落も標高620メートル前後であるから、峠を越すには一里半の距離で約500メートル登ることになり、両側とも裾野が長いから峠の頂上近くなって急坂になり通行人をなやましている。黒沢側の麓は戦後開拓地となって果樹園経営までしたが今は廃止され、ただ開拓小屋を民宿がわりに利用することがこころみられている。大芦部落の方も畑沢に沿って畑小屋という四、五軒の小部落までいまは自動車で入るが、畑小屋の人々は移転を考えているという。
この峠は、現在はほとんど往来が絶えてしまったが、大芦部落と黒沢部落にとっては小さい範囲ながら大切な交通路であった。双方に親戚があって昔を推測させる。明治初年に黒沢部落の細井家に郵便局が設置されたとき、配達区域に峠むこう側の大芦部落が入っていた。配達夫はさぞ苦労したことと思うが、明治の半ばになって、郵便局から政府にピストル支給願が出された。政府は驚いて事情をしらべると、転石峠に熊が出るので配達夫の危険防止のためだという。転石峠から昭和村側は御前岳国有林の素晴らしい山毛欅の一次林だから熊にはいいすみ家を提供していたのだろう。昭和村野尻に野尻郵便局ができたのが明治六年、喰丸に郵便受取所が設けられたのが翌七年なのに大芦部落がしばらく黒沢局の配達区内に入っていたことは、転石峠の往来が割合多かったことを推察させる。
終戦後になるが車の普及するまでは転石峠も利用されていた。そのエピソードとして次のようなことがある。二十七年頃と思うが大芦部落に急病人ができて、昭和村側では対処ができず、急を要するとみて村人が田島町の県立病院に往診を依頼してきた。雪のある季節でしかも夕方であったが話を聞いた院長Mはすぐ支度をして看護婦も連れず迎えの村人とでかけた。雪の転石峠を徒歩で越さねばならないのだが村人が大勢応援にきていた。おそらく畑小屋あたりかと思うが馬ゾリが迎えにきていてそれに乗って部落に入り病人には間に合うことができた。すでに夜半になっていたがM氏は翌日の診療のために帰路についた。再び大勢の村人や馬ゾリで峠を越し、病院の診療には間に合うことができた。村をあげて一人の病人のために世を徹した救援行動も感動的なら、M院長の村人の熱意に応じた行動力にも敬意を禁じ得ない。私はその頃M院長の往診を自宅で受けていたが、淡々と話してくれた院長がいまだに忘れられない。同時に雪の転石峠も、そんなかたちでなければ越すことができなかったという印象がいまも鮮明である。