会津郡高野組大豆渡村

陸奥国 会津郡 高野組 大豆渡(まめわた)
大日本地誌大系第31巻 111コマ目

府城の南に当り行程12里6町余。
家数64軒、東西3町・南北2町30間、北は檜澤川に臨み三方田圃(たんぼ)なり。
また、丑寅の方11町に家居1軒あり。

東9町金井沢村に隣りその村際を界とす。
西2町黒沢新田村に隣りその村際を界とす。
南1里1町河島組藤生村に界ひ木檜峠の峯を限りとす。その村まで2里1町。
北1里25町大沼郡野尻組大芦村に界ひ転石峠(ころふしとうげ)を限りとす。その村まで3里13町。

山川

黒沢(くろさは)

村より戌亥(北西)の方1里余にあり。
頂まで18町計。
西南は共に針生村の山に続き、戌亥(北西)の方は大芦村に属し、共に峯と界とす。
この山の西を転石峠と云い大芦村へ通る路なり。

小塩沢(こしほさは)

黒沢山の東に並ぶ。
頂まで18町計。
北は大芦村の山に連なり、東は金井沢村に属す。

大岩(おほいは)

村西5町余にあり。
頂まで5町計。巉巌(ざんがん)(そばだ)ち檜沢川その麓を流る。

天正中(1573年~1593年)田島の城主長沼盛秀、伊南の河原田盛次と戦いし時、盛次が支族河原田大善某という者ここに拠て敵を防ぎ遂に戦死せしとぞ。因てこの山を岩館(いはのたて)ともいう。
黒沢新田村の境内に大善及び従卒の墓なりとて古墳2あり。

高べろ山

村北18町にあり。
登ること6町。
雑樹多し。

小檜(こひ)

村南1里1町にあり。
藤生村にゆく路なり。
登ること5町余。頂を界とす。

檜沢川

村北1町余にあり。
黒沢新田村の界より来り、東に流るること15町余、金井沢村の境内に入る。

原野

(まぐさ)

村の戌亥(北西)の方15町にあり。
東西20町・南北23町。
北黒沢原と云う。

関梁

村より丑寅(北東)の方、隣村の通路檜沢川に架す。
長12間、土橋なり。

水利

村西にて檜沢川を引き田地に灌ぎ金井沢村の方に注ぐ。

倉廩

米倉

村西にあり。本組の米を納む。

神社

龍口神社

祭神 罔象女神(みつはのめのかみ)
相殿 三島神
若宮八幡
鎮座 不明
村北4町余に在り。
鳥居拝殿あり。

神職 君島大和

金井沢村に居住す。
8世の祖を忠太夫義國といい、寛文中(1661年~1673年)神職を司り、相続いて今の大和充豫に至るという。

寺院

南泉寺

村北11町、山麓にあり。
松見山と號す。浄土真宗高田派伊勢国一身田専修寺の末山なり
開基の年代詳ならず。
本尊弥陀客殿に安ず。
鐘楼門あり。鐘の径2尺5寸、『奥州會津郡南之山大豆渡村南泉寺什宝寛政六寅年四月』と彫付けあり。銘あれども略す。


参照


外部リンク等


村名について

明治10年(1877)、大豆渡村・黒沢新田村が合併し静川村が発足
明治22年(1889)、高野村・塩江村・福米沢村・金井沢村・静川村・針生村が合併し檜沢村が発足
昭和30年(1955)、田島町・檜沢村・荒海村が合併し田島町が発足
平成18年(2006)、田島町、舘岩村、伊南村、南郷村が合併し、南会津郡南会津町が発足

古地図

※地理院地図(大正2年測図/昭和8年要部修正測図)

神社仏堂

町史より)
神社仏堂名 祭日 旧祭日 位置 備考
熊野神社 新五月三日 新五月一五日 根岸山
子育地蔵さま 春(三月か四月、二四日) 旧三月二四日 根岸山 婦人会が管理し、気候等を見合わせて祭りをする
観音さま 新八月九日
新八月一七日
旧七月九日
旧七月一七日
根岸山 聖観音。もと、ふくろ口にあった寺の本尊

転石峠

(会津の峠より)
短銃もって郵便配達
「ころぶいし」と書いて通称「ころぶし峠」という。田島町大字静川のうち黒沢部落(旧黒沢新田村)から昭和村大字大芦までを結ぶ三里一三町(約13.4キロメートル)の山道で、田島側が黒沢・昭和側が畑沢に沿っている。そのほぼ中央に転石峠(標高1115メートル)があり、この附近の峠では高い方に属する。中山峠(1155)駒止峠(1135)に次ぐ高さで、山王峠の906メートルや船鼻峠の1027メートルより高い。黒沢部落も大芦部落も標高620メートル前後であるから、峠を越すには一里半の距離で約500メートル登ることになり、両側とも裾野が長いから峠の頂上近くなって急坂になり通行人をなやましている。黒沢側の麓は戦後開拓地となって果樹園経営までしたが今は廃止され、ただ開拓小屋を民宿がわりに利用することがこころみられている。大芦部落の方も畑沢に沿って畑小屋という四、五軒の小部落までいまは自動車で入るが、畑小屋の人々は移転を考えているという。
この峠は、現在はほとんど往来が絶えてしまったが、大芦部落と黒沢部落にとっては小さい範囲ながら大切な交通路であった。双方に親戚があって昔を推測させる。明治初年に黒沢部落の細井家に郵便局が設置されたとき、配達区域に峠むこう側の大芦部落が入っていた。配達夫はさぞ苦労したことと思うが、明治の半ばになって、郵便局から政府にピストル支給願が出された。政府は驚いて事情をしらべると、転石峠に熊が出るので配達夫の危険防止のためだという。転石峠から昭和村側は御前岳国有林の素晴らしい山毛欅の一次林だから熊にはいいすみ家を提供していたのだろう。昭和村野尻に野尻郵便局ができたのが明治六年、喰丸に郵便受取所が設けられたのが翌七年なのに大芦部落がしばらく黒沢局の配達区内に入っていたことは、転石峠の往来が割合多かったことを推察させる。
終戦後になるが車の普及するまでは転石峠も利用されていた。そのエピソードとして次のようなことがある。二十七年頃と思うが大芦部落に急病人ができて、昭和村側では対処ができず、急を要するとみて村人が田島町の県立病院に往診を依頼してきた。雪のある季節でしかも夕方であったが話を聞いた院長Mはすぐ支度をして看護婦も連れず迎えの村人とでかけた。雪の転石峠を徒歩で越さねばならないのだが村人が大勢応援にきていた。おそらく畑小屋あたりかと思うが馬ゾリが迎えにきていてそれに乗って部落に入り病人には間に合うことができた。すでに夜半になっていたがM氏は翌日の診療のために帰路についた。再び大勢の村人や馬ゾリで峠を越し、病院の診療には間に合うことができた。村をあげて一人の病人のために世を徹した救援行動も感動的なら、M院長の村人の熱意に応じた行動力にも敬意を禁じ得ない。私はその頃M院長の往診を自宅で受けていたが、淡々と話してくれた院長がいまだに忘れられない。同時に雪の転石峠も、そんなかたちでなければ越すことができなかったという印象がいまも鮮明である。
最終更新:2025年09月12日 17:05
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