皆鶴姫


皆鶴姫の伝承は、彼女の碑の傍にある説明文を引用しましょう。

皆鶴姫の碑群
 この碑群のうち、中心をなす皆鶴姫の碑は、寛政五年(1793年)に建立されたものである。石碑の正面(南向き)には姫の法号とされる「安至尼」の文字と碑には平安時代末期の皆鶴姫と源義経の物語が刻まれている。
 碑文には「義経は皆鶴姫の義父、鬼一法眼が所有する兵法書を何とかして得ようとし、姫と親密になった。義経の動きが平氏の知るところとなると、義経は急ぎ都を出発し平泉に向う。皆鶴姫は義経の後を追い藤倉まで来たが、疲労により病に倒れた。村人に看護され快方に向かったが、姫は近くの難波池に移った自分のやつれた姿に悲しみ、池に身を投じた。村人たちは難波寺を建て姫の冥福を祈った。それから500年が経ち、寺はなく池も僅かに残っているのみだが、墓参りをすれば願いがかなうという」と記されている。
 碑の両側には正徳六年(1716年)と昭和三十九年(1964年)に建立された姫の墓があり、古くから現在まで、地域の人たちに守り伝えられてきたうかがわれる。
      平成二六年十月 会津若松市教育委員会

(追加)
これは源義経と皆鶴姫の悲恋物語を伝える碑と墓である。
皆鶴姫は二位大納言藤原成道と側室桂の娘で、父が亡くなった後、母は姫を連れて一条堀河に住む兵法学者法眼吉岡鬼一憲海の後妻となった。
時は平安の末期。平治の乱で源義朝が平清盛に破れ義経は洛北の金剛寿会院鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗っていた。承安二年(1172)彼は京都を出て熱田神宮で元服、義経と名を改め、奥州秀衡をたずね、そこで過ごした。その後承安四年(1174)義経は京に戻り、山科にあって、平氏の動向を探っているうちに、文武二道の達人、鬼一法眼のことを聞き、彼の物兵書六韜(ろくとう)の書等十六巻をどうにかして手にいれようとして、法眼のもとに押しかけ。時期を待ったが、どうしても見せてもらえない。そこで義経は姫と懇ろになり、密かに書き写すことに成功した。しかし義経の行動が清盛に察知され、義経は奥州に走った。これを聞いた皆鶴姫は大いに驚き遂に意を決し、安元元年(1175)八月義経の後を追い藤倉までやってきたが、疲労困憊のあまり、とうとう病に倒れてしまった。村人たちの手厚い看護により、快方に向かったが、安元二年(1176)の春、姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き悲しみ、池に身を投じてしまった。時は弥生の十二日、十八才であった。
その時義経は御山の会津領主河辺太郎高経の屋敷(会津鑑によれば大寺磐梯町)にあって、当地にかけるけ池のほとりに墓を造り、自ら卒塔婆を書いて供養した。
法号を安至尼という。村人は皆鶴山難波寺と建て、姫の冥福を祈った。
藩主は後世一夫の役を免じて堂守を置き、参詣すれば必ず良縁が授かるといって城下や付近から参詣する人が多かったという。
昭和六十二年二月、町指定有形民俗文化財として指定された
      平成七年九月 河東町教育委員会


碑文について
元々石碑はあったようですが寛永5年(1793年)新たに作られたようです。この新しい石碑に刻まれた文は会津風土記に載っており『寛永五年癸丑春三月癸卯 澹園安鱗撰』と筆者の事まで載っています。澹園安鱗が何者か分かりませんが、他に書物を作ったりしているようなので学者だったのかも知れません。
寛永5年の時藩主は松平容頌で、家老田中玄宰の指揮の元倹約の徹底や教育への普及に力を入れており、江戸に会津藩産物会所を作り地元産の品を販売し経済を発展させるていた時期です。ひょっとしたらこの碑文は地域興しの一環だったのかもしれません。
風土記本文にも彼女の事を記したのは義経記のみで他の書物には記載がないことと、その義経記すら彼女の名前が載っていないし話が少し違うと指摘しています。多少話を盛ってしまった感があるのではないでしょうか。

碑文(画像3枚)
※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記87』より

さて。碑文を見ると
葢皆鶴者 二位大納言藤原成道女也 其母曽為大納言小妻生皆鶴 及大納言薨 携皆鶴帰佳里 後嫁鬼一法眼 法眼養皆鶴為己子
との記載があります。鬼一法眼の所に来る前は藤原成道という大納言の娘さんだったようです。大納言が亡くなった後母親が鬼一法眼の所に嫁いだ時に一緒に行き、法眼からは我が子のように育てられたみたいですね。
藤原成道が誰かは解りませんが、おそらくは蹴鞠の神様と言われた正二位大納言・藤原成()の事ではないかと。結構良い所のお嬢様だったのですね。そんなお嬢様が山路歩いて病に伏せて痩せ衰えて、我が子まで殺されてしまい、なお義経に逢える見込みが無いと言われたら絶望もするでしょう。

風土記の記述
風土記には彼女のエピソードが2つ載っています。
一つは藤倉村の難波池の記載にある話。
もう一つは郭外千軒道の清林寺に伝わる話です。
いづれも皆鶴姫が藤倉に来て身を投げた事は一致しているのですが時期が異なります。難波池の方は義経が頼朝と会う前(1174年~1180年)で、清林寺に伝わる話だと義経が高館で亡くなった後(1189年~)と10年近く差があります。どちらが正しいとは言いませんが彼女が藤倉に来た事は間違いなさそうです。18歳で亡くなった事を考えると他の伝承に残る安元元年(1175年)からの出来事である可能性が高いかと思われます。

帽子丸
皆鶴姫には2歳になる子供がいました。
名前を帽子丸といい会津にも一緒に来ています。ところが、敵に見つかってしまい帽子丸は西柳原村にある沼に投げられ溺死してしまいます。西柳原に帽子沼という沼の記事があるのですが、この皆鶴姫のエピソードが元になって名前が付けられたとあります。

ところで敵とは何でしょう?
当時の会津は平家側に付いていた恵日寺と城氏の勢力下にありました。平家方の兵に見つかり義経の子である帽子丸を殺めた…と考えるのが普通なのでしょう。皆鶴姫もこの地に着くなり義経はどこかと村人たちに声をかけまくっていたでしょうし、噂が広がりやがて敵兵に見つかってしまったのかもしれません。
ですが、ちょっと疑問点が。当時の会津の領主は河辺太郎高経との記載もあります。彼は1175年頃奥州藤原家から派遣されてこの地を治めています。奥州藤原氏はまさに義経を匿っていた張本人です。時期的に微妙ですが、彼は上司が義経を庇護していた事は知っていたでしょうし、その縁者を勝手に殺めてしまうとは思えません。
なら誰が。そもそも皆鶴姫には付き人も居ましたし、雑兵の1人や2人が相手なら簡単に子供を奪われる事にはならないでしょう。皆鶴姫自身は無事なわけですし。敵は組織的で、付き人は倒されてしまい、唯一皆鶴姫だけが助かった? ならばその後は…。

地蔵像・阿弥陀三尊
碑文によれば皆鶴姫は地蔵画像(地蔵像)を携えて藤倉村に来ており、亡くなった後は延命寺に安置されたようです。
ただ、清水寺の伝承では阿弥陀三尊を携えており彼女の堂を建てた際に本尊にした、となっています。
おまけに気仙沼に残る伝承では観音像を携えていたいたとか。
おそらく付き人の方が運んだのでしょうが、彼女が仏教に帰依していた事が伺えます。

気仙沼の伝承では彼女は勘当された事になっているので、付き人の方は同行していないと思われます。いい所のお嬢様だった彼女が京都から気仙沼までの船旅をどうやって過ごしたのか、観音像をどうやって運んだのかが気になる所ではあります。

鏡山
藤倉村の記に、皆鶴姫は鏡山の地に鏡を埋めたとあります。風土記の年代の時点で鏡山の地は畑になっているため場所の特定は難しいですが、明治時代の地図に地名は載っていました。
おおよそになりますが、現在の49号線にある古川農園というラーメン屋さん近辺が該当するようです。



簡易年表

和暦 西暦 出来事 皆鶴姫の年齢
保元4年
平治元年
1159年 皆鶴姫生まれる 1歳
応保2年 1162年 父・藤原成道死去 4歳
 ー   ー  皆鶴姫の母親、鬼一法眼の元へ嫁ぐ
承安4年 1174年 義経鞍馬寺を出奔し平泉へ 16歳
         義経鬼一法眼の元に現れる
         ?月 皆鶴姫帽子丸を出産 (帽子丸1歳)
安元元年 1175年 ?月 義経鬼一法眼の兵法書を盗み見る 17歳
         ?月 義経平泉へと戻る
         6月? 皆鶴姫京を発つ(+従侍2人、付人2人)
         ?月 帽子丸西柳原村で沼に沈められる (帽子丸2歳)
         8月 皆鶴姫藤倉村に辿り着くも倒れる
安元2年 1176年 3月12日 皆鶴姫難波池に身を投げる 18歳
 ー   ー  村人、皆鶴山難波寺を建立


参照