昔は村より2町丑(北北東)の方にあり。萬治2年(1659年)今の地に移す。
府城の北に当り行程12町。
家数58軒、東西1町15間余・南北3町29間余、四方田圃なり。
水利
黒川堰
黒川堰
倉廩
米倉
村中にあり。本組の米を納む。
神社
天子神社
| 祭神 |
天子神? |
| 相殿 |
伊勢宮 2座 |
| 熊野宮 2座 |
| 稲荷神 |
| 白鬚神 |
| 伊豆神 |
| 三島神 |
| 諏訪神 |
| 山神 |
| 八乙女神 |
| 鎮座 |
不明 |
村中にあり。
鳥居拝殿あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり
寺院
西光寺
村西にあり。
真言宗安楽山と號す。
博労町自在院の末寺なり。
開基詳ならず。
元亀中(1570年~1573年)宥意という僧中興す。
もと村と同く丑(北北東)の方2町にあり、萬治4年(1661年)ここに移せり。
本尊弥陀客殿に安ず。
古蹟
館跡2
一は村中にあり。
東西32軒・南北28間。土居堀の趾遺れり。
いつの頃にか渡部源左衛門某という者居りしという。
一は村より丑(北北東)の方3町30間計にあり。
東西20間・南北30間。堀形あり。
何人の住せしということを知らず。土人鈴木屋敷と唱ふ。
外部リンク等
村名について
幕末まで(1868年)、会津郡上荒久田村
明治22年(1889年)、上高野村・始村・藤室村・中沢村・中沼村・木流村・柳川村・界沢村・石堂村・上荒久田村が合併し栄和村となる。
明治36年(1903年)、栄和村の一部(始・中沢・石堂・藤室・上荒久田)に町北村が、残部(中沼・木流・柳川・界沢・上高野)に高野村が発足。
昭和26年(1951年)、町北村が若松市に編入。
昭和30年(1955年)、門田村・湊村・一箕村・高野村・神指村・大戸村・東山村が若松市に編入し、改称して会津若松市となる。
上荒久田の社寺
法人番号公表サイトで調べると下記の登録がある
| 法人番号 |
商号又は名称 |
所在地 |
| 7380005008060 |
天子神社 |
会津若松市町北町大字上荒久田字石尻94番地1 |
| 9380005008430 |
西光寺 |
会津若松市町北町大字上荒久田字石尻90番地 |
| 1380005008272 |
麓山神社 |
会津若松市町北町大字上荒久田字村西66番地 |
余談:上荒久田について。
鎌倉時代以降に開発された地区で、南北に米沢街道上道がとおっています。江戸時代前半の万治3年(1659)に、街道が整備されるのに伴って、現在の集落形態になったものです、それまでは、今の集落の東側、農協倉庫東の「古屋敷」に集落の中心部がありました。また、そこには渡部源左衛門の館跡があり、元亀年間(1570年頃)に再興された安楽山西光寺もありました。村の北東には「鈴木屋敷」と呼ぶ館跡もありました。その場所は、鈴木新田と呼ばれているところです。また鎮守の「天子神社」は、蒲生氏時代の1620年頃、キリシタンの教会が建てられていたところで、教会特有の建て方の一段高く造られています。その後、キリシタンは禁制となり、今では名残の「天子」のみが残されています。会津戦争では佐藤家2軒を残し焼かれています。
天子神社について
天子神社内の解説版の記載を引用します。
天子神社について
一、祭 神 瓊々杵尊・相殿天照大御神
一、勧 請 文治五年(西暦一一八九年)
一、例大祭 四月三日
由来推考
本社は、文治五年日向高千穂嶽より勧請とあり、中世芦名時代には領主の庇護も受け栄えるも天正の兵乱に罹って神器・古文書・社記当悉く焼失とありますが途絶えたのではないと思います。
その後郷土史諸説の中で圧巻としては、天正十八年(一五九〇年)キリシタン大名蒲生氏郷公入国を以て産業の創出・城下町づくり、特に民生の安定に尽瘁されて城下三ヶ所に天主堂を建てたとあるので、との一堂が本社にもあったのではないか。そのため村にはキリシタン信者が多かったのではないか、との推考も歪めないと思います。その証のように寛永二十年(一六四三年)保科正之公の会津入城に従って来られた家老の太田小太夫実次という人、敬虔なキリシタン信者であったが、幕府のキリシタン禁制を憚った公が、彼を谷野又右エ門と改姓させて城北荒久田の地に六町四方を与えて帰農させた。その時青苧を栽培していた。しかし更に幕府の探索厳しくなったので、北方
耶麻郡小布瀬ヶ原を経て千咲原に移住させたとあります。在住は僅かであったにせよ村人との間には何らかの交際があってお互い至福を感じたのではないかと思います。
明治以降は国家神道において「町北村村社」となり遠近の参詣者も多く栄えたが、第二次世界大戦後暫し苦難を経て「宗教法人・天子神社」となり、現在は境内の一部を町内会施設等、町民融和にも役立たせています。
平成十四年 四月三日 上荒久田 天子神社氏子会
天子神社敬神会
ざっとした歴史はこんな感じでしょうか?
文治5年に高千穂より勧請
→天正の兵乱(おそらく天正巳丑の乱、伊達家の会津攻め)
→蒲生氏郷がキリシタンの為に天主堂設立(その一つか?)
→寛政20年保科公入城時にはキリシタン弾圧あり
→キリシタン弾圧が激しくなり家老が千咲原に逃亡
→会津戦争(戊辰戦争)で一時衰退
→明治政府により町北村村社に指定
→第二次世界大戦で一時衰退
→宗教法人化
最終更新:2025年12月17日 21:36