祭神 | 天子神? |
相殿 | 伊勢宮 2座 |
熊野宮 2座 | |
稲荷神 | |
白鬚神 | |
伊豆神 | |
三島神 | |
諏訪神 | |
山神 | |
八乙女神 | |
鎮座 | 不明 |
鎌倉時代以降に開発された地区で、南北に米沢街道上道がとおっています。江戸時代前半の万治3年(1659)に、街道が整備されるのに伴って、現在の集落形態になったものです、それまでは、今の集落の東側、農協倉庫東の「古屋敷」に集落の中心部がありました。また、そこには渡部源左衛門の館跡があり、元亀年間(1570年頃)に再興された安楽山西光寺もありました。村の北東には「鈴木屋敷」と呼ぶ館跡もありました。その場所は、鈴木新田と呼ばれているところです。また鎮守の「天子神社」は、蒲生氏時代の1620年頃、キリシタンの教会が建てられていたところで、教会特有の建て方の一段高く造られています。その後、キリシタンは禁制となり、今では名残の「天子」のみが残されています。会津戦争では佐藤家2軒を残し焼かれています。
天子神社について
一、祭 神 瓊々杵尊・相殿天照大御神
一、勧 請 文治五年(西暦一一八九年)
一、例大祭 四月三日
由来推考
本社は、文治五年日向高千穂嶽より勧請とあり、中世芦名時代には領主の庇護も受け栄えるも天正の兵乱に罹って神器・古文書・社記当悉く焼失とありますが途絶えたのではないと思います。
その後郷土史諸説の中で圧巻としては、天正十八年(一五九〇年)キリシタン大名蒲生氏郷公入国を以て産業の創出・城下町づくり、特に民生の安定に尽瘁されて城下三ヶ所に天主堂を建てたとあるので、との一堂が本社にもあったのではないか。そのため村にはキリシタン信者が多かったのではないか、との推考も歪めないと思います。その証のように寛永二十年(一六四三年)保科正之公の会津入城に従って来られた家老の太田小太夫実次という人、敬虔なキリシタン信者であったが、幕府のキリシタン禁制を憚った公が、彼を谷野又右エ門と改姓させて城北荒久田の地に六町四方を与えて帰農させた。その時青苧を栽培していた。しかし更に幕府の探索厳しくなったので、北方耶麻郡小布瀬ヶ原を経て千咲原に移住させたとあります。在住は僅かであったにせよ村人との間には何らかの交際があってお互い至福を感じたのではないかと思います。
明治以降は国家神道において「町北村村社」となり遠近の参詣者も多く栄えたが、第二次世界大戦後暫し苦難を経て「宗教法人・天子神社」となり、現在は境内の一部を町内会施設等、町民融和にも役立たせています。
平成十四年 四月三日 上荒久田 天子神社氏子会
天子神社敬神会
*1 2ヶ所とも黒田堰と記載