府城の西北に当り行程20町余。
家数38軒、東西2町・南北3町5間。
西は府下西黒川
達磨分の民家に続き三方
田圃なり。
東3町18間
上荒久田村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り6町10間余。
南2町
藤室村に隣りその村際を界とす。
北11町26間
沼木村の界に至る。その村まで12町50間余。
また
丑寅(北東)の方3町14間
下荒久田村の界に至る。その村まで7町20間余。
亥(北北西)の方6町53間
上高野村の界に至る。その村まで11町40間余。
端村
屋敷
本村の丑(北北東)の方4町10間にあり。
家数23軒、東西47間・南北54間。
四方田圃なり。
山川
沼
村より丑(北北東)の方4町10間余にあり。
東西4間・南北2間。
相伝う。昔この沼より毎夜光明を放ちしかば、村民これを怪しみ往て見るに大木伏てあり。割て見れば中に長3寸計の観音の銅像ありしという。今観音寺の境内観音堂に安置す。
水利
中明堰
黒川堰
寺院
観音寺
村中にあり。
明吉山と號す。
博労町自在院の末寺真言宗なり。開基詳ならず。
天文中(1532年~1555年)宥栄という僧中興す。
本尊大日客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。
草創の始を知らず。
会津三十三所順禮の一なり。
旧家
大島忠左衛門
この村の肝煎なり。
先祖は六郎常義とて文治中(1185年~1190年)この地に来り相続て今に至るという。
庭際に1株の古梅あり。花時賞翫するもの多し。文亀2年(1502年)(或は明應の頃(1492年~1501年)ともいう)兼載ここに来り大島殿ということを隠して
春くれば喜多しまとの梅
といい発句を詠し与う。因て「まとの梅」と称す。後故ありてその懐紙を失う。元禄14年(1701年)権中納言藤原実富卿に請てその事を記し今に伝う。
古地図
最終更新:2025年06月24日 17:02