会津郡高久組中明村

陸奥国 会津郡 高久組 中明(なかのみやう)
大日本地誌大系第31巻 36コマ目

府城の西北に当り行程20町余。
家数38軒、東西2町・南北3町5間。
西は府下西黒川達磨分の民家に続き三方田圃(たんぼ)なり。

東3町18間上荒久田村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り6町10間余。
南2町藤室村に隣りその村際を界とす。
北11町26間沼木村の界に至る。その村まで12町50間余。
また
丑寅(北東)の方3町14間下荒久田村の界に至る。その村まで7町20間余。
亥(北北西)の方6町53間上高野村の界に至る。その村まで11町40間余。

端村

屋敷

本村の丑(北北東)の方4町10間にあり。
家数23軒、東西47間・南北54間。
四方田圃なり。

山川

村より丑(北北東)の方4町10間余にあり。
東西4間・南北2間。
相伝う。昔この沼より毎夜光明を放ちしかば、村民これを怪しみ往て見るに大木伏てあり。割て見れば中に長3寸計の観音の銅像ありしという。今観音寺の境内観音堂に安置す。

水利

中明堰

藤室村の方より来り、田地に注ぎ沼木村の方に注ぐ。

黒川堰

上荒久田村の方より中明堰の支流に合し下荒久田村の方に注ぎ中明堰という。

寺院

観音寺

村中にあり。
明吉山と號す。
博労町自在院の末寺真言宗なり。開基詳ならず。
天文中(1532年~1555年)宥栄という僧中興す。
本尊大日客殿に安ず。

観音堂

境内にあり。
草創の始を知らず。
会津三十三所順禮の一なり。

旧家

大島忠左衛門

この村の肝煎なり。
先祖は六郎常義とて文治中(1185年~1190年)この地に来り相続て今に至るという。
庭際に1株の古梅あり。花時賞翫(しょうがん)*1するもの多し。文亀2年(1502年)(或は明應の頃(1492年~1501年)ともいう)兼載ここに来り大島殿ということを隠して
春くれば喜多しまとの梅
といい発句を詠し与う。因て「まとの梅」と称す。後(ゆえ)ありてその懐紙を失う。元禄14年(1701年)権中納言藤原実富卿に請てその事を記し今に伝う。




古地図

※地理院地図(昭和43年測図/昭和6年修正測図)
最終更新:2025年06月24日 17:02
添付ファイル

*1 美しさ良さなどを味わい楽しむこと