羽黒神社

陸奥国 会津郡 南青木組 湯本村 羽黒神社
大日本地誌大系第31巻 68コマ目

祭神 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
鎮座 天平中(729年~749年)?
縁起に㨿に、天平中(729年~749年)行基この国に来り、紫雲のたなびくを見てこの峰頂(ほうちょう)に尋ね登しに、(たちま)ち3足の烏飛来りまた軍荼利妙見観音の3尊その形をあらわしければ、行基その霊瑞に感じ三社權現をここに請し側に1宇の梵刹(ぼんさつ)を建て羽黒山東光寺と號く。
その後法流の院宇300余区ありて山下に連なり近里に満つ(院内村はその遺名なりとぞ)。
葦名直盛の時住持(じゅうじ)澄鑁をして国家の安寧を祈らしめ、本郡赤井村(原組)に於て150石の地を寄付す。
天正12年(1584年)6月13日盛隆当山にて舞楽遊覧あり。蒲生秀行の時その臣岡野信春という者罪ありて当山に隠れしかば、住僧その赦を請いしにより社領を没収せられしという。

鳥居

山下にあり。
高1丈9尺。両柱の間1丈5尺。
ここおり二王門に至る。

二王門

3間に2間、南向。
力士の像、古佛と見ゆ。各長8尺余。
ここより曲折数回にして登ること8町、本社に至る。
緑樹路を挟み苔蘚(たいせん)地に布き物さびたる幽境なり。

盥水処

本社の東南にあり。
社の東より筧にて遥かに山泉を引きこれに注ぎ、また東光寺庫裏の方に注ぐ。

本社

3間四面、南向。
社前に数級の石階あり。
神體(しんたい)は木像なりという。別当といえども昔より見ることを得ず。
毎年8月朔日より7日まで祭禮あり。
また鰐口1口を懸く。『奥州大會津羽黒山大權現御寶前之鰐口本願盛長大工野口外記慶長十九甲寅年五月五日別当法印春盛上人敬白』と彫付あり(慶長19年=1614年)。

鐘楼

本社の前にあり。
鐘、径1尺9寸。『正保三丙戌大工早山掃部助直次』と彫付あり(正保3年=1646年)。
銘は煩しければ略す。

地蔵堂

本社の西にあり。
旧院内村にあり、いつの頃にかここに移すという。
旧地を今地蔵屋敷という。

末社

稲荷神社

境内にあり

雷神社

同上

山王神社

同上

山神社

同上

麓山神社

本社の北3町余山上にあり。
奥院とす。

別当 東光寺

本社の西にあり。
上野国世良田長楽寺の末山天台宗なり。
山號を羽黒山という。
客殿に正観音を安じ本尊とす。

寶物

御正体

1面。
その銘左に載す。
奥州大會津湯上羽黒御正體當当明尊旦那見性房暦應二巳卯二月十八日施主敬白
※暦應年=1339年

御正体

1面。今はなし。
奉造琢大會津湯上羽黒三社權現正観音御正躰願主有慶細工願主施主喜承房観阿弘長三壬亥年十一月十六日
という銘ありしという。
※弘長3年=1263年

鐡鉢

1口。今はなし。
汶白大會津郡奉施入羽黒山權現御鉢大檀那藤原氏女大檀那平行信右志者二世悉地成就圓満故也建久五年七月五日
という銘ありしという。
舊事雑考には建武に作る(いず)れが是なることを知らず)
※建久5年=1194、建武5年=1338年

賽銭鉢

1口。
その銘左に載す
奥州大會津郡湯上羽黒山大權現御寶前弘長三年十一月十六日

鐡燭台

1箇。
奉寄進會津羽黒山常住天正九年辛巳九月大町雪下政家作
と彫付、また台の裏に
藤左衛門
と彫れり。
※天正9年=1581年


最終更新:2024年03月28日 20:00