村の西南、穴切坂の麓に井あり。その井赤きゆえ村名とす。
府城の東に当り行程2里余、家数54軒。
東西4町1間・南北1町50間。
四方田圃にて西北は山に近し。
白川街道の駅所にて村中に官より令ぜらるる掟条目の制札あり。
原村駅より1里17町24軒に継ぎ、ここより府下に継ぐ。
東14町53間
篠山村の山界に至る。その村まで20町20間余。
西8町48間
原新田村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り30町40間余。
南11町12間
下馬渡村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り20町20間余。
北28町余
河沼郡代田組八田野村の山に界ふ。
この村の肝煎小川安右衛門という者の家に文禄中(1593年~1596年)の水帳を蔵む。
標紙に左の書付あり。全文は煩を恐て略す。
文禄三年午六月廿日鳥居四郎左衛門
奥州門田東拾二村の内赤井村御検地帳
田方
畠方
小名
下窪新田
本村より辰巳(南東)の方22間にあり。
家数4軒。東西1町2間・南北40間。
東北は山に倚り西南に田圃あり。
廻戸新田
本村より亥子(北北西~北の間)の方10町10間余にあり
家数5軒。東西1町20間・南北40間。
西北に山を負い東南は田圃なり。
端村
桂沢新田
本村より辰巳(南東)の方10町10間余にあり。
家数12軒。東西1町30間・南北1町51間、白川街道にあり。
西北に山を負い東南は田圃なり。
山川
実森山
村東11町にあり。
登ること1里2町計。
穴切坂
村より戌亥(北西)の方10町50間、府下より白川に通る街道にあり。
赤井川
村東8町にあり。
下馬渡村の界より北に流るること1里14町余、湖水に入る。
赤井谷地
(谷地とは湿地にて水たまれる処をいう方言なり)
村北11町にあり。
東西1里2町・南北30町計。
多く芦萩を生じ、また「こけのみ」という草実あり(この地に限らず湿地に生ずる草なり)。採て食ふべし。叢生して枝繁く。長1尺計。葉円くして小なり。6、7月の頃浅紅の実を実ふ。結ぶ味淡くして少し酸し。
原野
篠山原
村より丑寅(北東)の方18町にあり。
東西17町・南北15町。
この村及び篠山村の秣場とす。
水利
堤7
一は村より申酉(西南西~西の間)の方5町にあり。周80間余、大沢堤という。寛永5年(1793年)築く。
一は村より申(西南西)の方10町にあり。周90間余、後庵堤という。明暦2年(1656年)に築く。
一は村より未申(南西)の方2町20間にあり。周170間、平下堤という。寛文9年(1669年)に築く。
一は端村桂沢新田の西50間にあり。衆70間余、延寶4年( 1676年)に築く。
一は村より辰巳(南東)の方10町50間にあり。周70間余、泥沢堤という。
一は村より丑(北北東)の方18町にあり。周180間余、寺崎堤という。
一は寺崎堤の北にあり。周90間余。北堤という。
神社
荒脛巾神社
村中にあり。鳥居あり。
昔は拝殿廻廊当の結構巨大にて神田も許多ありしとぞ。
原村丸山主計これを司る。
寺院
圓福寺
村中にあり。
赤井山と號し府下
野伏町圓満寺の末山真言宗なり。
何れの時の創立にか詳ならず。
天正元年(1573年)平田大炊助某(古蹟の条下に出す)中興し尊壽という僧を住職とす。その後院宇
頽破せしを尊照という僧再興せしという。旧村南にありとて、その地に銀杏の古木残れり。
客殿に如意輪観音の像を安じ本尊とせり。
地蔵堂
客殿の西にあり。
古蹟
小山館跡
村より午未(南~南南西の間)の方6町山下にあり。
東西3町余・南北50間。
天正中(1573年~1593年)平田大炊助この地を領知せし時の居館なりとぞ。
また村南3町余に馬場迹あり。今は菜圃となりき。
足軽屋敷跡
村より戌(西北西)の方12町計にあり。
ここより原新田の境内に亘り糠塚と唱ふ。
蒲生家の時加藤金右衛門という者ならび足軽60人を置し所という。
文禄中(1593年~1596年)の水帳にも足軽新田・金右衛門新田の名見ゆ。
その後府下
大町の北に移せし
故彼の処を今に
糠塚と称す。
最終更新:2023年06月27日 05:51