南町分


南町の南に続き、地面東西10町20間・南北9町10間。
東は本郡南青木村に接し、西は材木町分に隣り、南は本郡南青木組井出中野両村に界ふ。
民居、凡て87軒あり。

常慶寺町の南に1区あり。
家数10軒、東西29間・南北27間。
馬橋通(うまばしとおり)という。北端の古川に架する石橋を馬橋と称す(ゆえ)にこの称あり。

ここより南7町50間に台屋敷(だいやしき)とて家数13軒あり。東西42間・南北40間。寛政5年(1793年)に闢く。

その余は南町及び小田町の中に雑居す(各その条下に付す)。

古川(ふるかわ)

南青木村の境内より来り田間の小渠合し馬橋通の北を経て黒川に入る。
夏月水邊に蛍火多く納涼によし。

館跡

古川の南にあり。
今半は弘真院の境内となる。
西南に(ほり)形残れり。
葦名家の臣松本右馬允某というもの住せりという。今にこの邊の字を允殿館(じようどのやかた)と称す。塔寺八幡宮長帳・明應7年(1498年)の記に右馬允兄弟等と同じくこの館にて生害せしよし書せり。されどもその事実を詳にせず。

神社

荒神社

祭神 荒神?
鎮座 不明
館跡の北にあり。鳥居あり。
弘真院司なり。

寺院

成願寺

古川の南岸にあり。
正覺山と號す。京師妙心寺の末寺臨済宗なり。
もと江州*1日野にあり。
天正18年(1590年)住持陽春という僧氏郷に従い来る。この時南青木組小田村寶積寺無住なりしかば氏郷命じて彼寺に住せしめ(なお)旧名によりて成願寺と號せり。
文禄3年(1594年)5月11日氏郷の母卒し当寺に葬り法諡(ほうし)して華鮮盛春大姉という。陽春導師たり因て寺領200石を寄付す。
慶長中(1596年~1615年)郭内本二之丁に移る。
第2世九峯が時に至て寺領論争のことあり。初め陽春200石の内50石を分ちその弟子林首座に与ふ。林首座死して九峯彼が弟子を責め彼50石を返すさんことを求む。因て領主に訴え遂に50石を没収せられぬ。
寛永13年(1636年)加藤家の命に依てこの地に移る。
寺領、今なお150石なり。

制札

門外東にあり。

客殿

8間に6間、北向。
本尊弥陀。

寶物

涅槃像 1幅。張思恭筆。蒲生家の寄付なり。
羅漢画 2幅。對顔輝筆
達磨画 1幅。僧貫休筆
寄付状 4通。その文如左(※略)

弘真院

成願寺の西にあり。
妙覺山と號す。山城国醍醐三寶院の末寺真言宗なり。
慶長の頃(1596年~1615年)秀栄という僧蒲生秀行に従て下野国宇都宮より来り。郭内正覺寺(今廃す権現下郭の条下を併見るべし)に住し150石を付す。同17年(1612年)秀行卒す。初め秀行鷹狩に出し時ここに伽藍を建べき由を命ぜしが幾もなくして卒せり。因てこの地に葬り当寺を建立し秀栄をして院主たらしめ寺領200石を寄付し、また影堂を建て玉蔵院(今はなし)と號し50石を付し崇敬他に異にして院宇も壮麗なりしが、第2世宣應が時に至り蒲生家断絶して寺産を失い頽破(たいは)せしを栄辨という僧再興す。
本尊薬師庫裏に安ず。

薬師堂

境内にあり

蒲生秀行墓

薬師堂の南にあり。
五輪高9尺余。『奉造立五輪塔過去弘眞院殿前拾遺覺山静雲大禪定門奉爲昌他多一心也乃至法界平等普利慶長十七年壬子文月五日(孝子等敬白)』と彫付けあり。上に屋を架し四面に柵を(めぐ)らす。
秀行は氏郷の長子にて文禄4年(1595年)千代丸とて13歳の時父の遺領100万石を賜はり藤三郎秀朝と称しまた秀隆と改む。後に飛騨守従四位下侍従に任ぜらる。慶長3年(1598年)(ゆえ)あって所領を没収せられ下野国宇都宮にて18万石を賜り、同5年(1600年)上杉氏を征伐し給ふ時旧領の地なれば先陣して野州*2氏江駅に至りしに、上方にて石田等が乱起りて後は留て宇都宮の城を守り景勝を押ふ。同6年(1601年)再びこの地に封ぜられ60万石の地を賜り、同17年(1612年)壬子5月14日30歳にて卒しここに葬る。毎年盂蘭盆に香奠(こうでん)を供す。


最終更新:2020年03月20日 21:18

*1 近江国。現在の滋賀県

*2 下野国。現在の栃木県