河沼郡代田組大和田村

陸奥国 河沼郡 代田組 大和田(おほわた)
大日本地誌大系第33巻 86コマ目

府城の北に当り行程2里。
家数35軒、東西45間・南北3町。
四方田圃(たんぼ)なり。

東2町6間・南2町10間、共に熊野堂村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り5町50間余。
西3町8間代田村の界に至る。その村は申(西南西)に当り11町20間。
北3町方便村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り9町30間。
また丑寅(北東)の方5町58間鴨田新田村の界に至る。その村まで7町30間余。
戌亥(北西)の方6町19間岡谷地新田村の界に至る。その村まで7町20間余。

村東に米沢裏街道あり。

小名

町和田(まちわた)

本村の東続きにあり。
家数7軒、東西50間・南北1町10間。
三面田畠なり。
寛政3年(1791年)開く。

山川

日橋川

村より丑寅(北東)の方9町20間余にあり。
方便村の境内より来り、西に流るること3町40間また方便村の境内に入る。

関梁

新橋(しんはし)

村の寅(東北東)の方24町日橋川に架す(耶麻郡塩川組落合村の条下に詳なり)。

水利

大和田堰

方便村の方より来り、田地の養水とし代田村の方に注ぐ。

神社

八幡宮

祭神 八幡宮?
相殿 伊勢宮
   磐椅神
   姥神
鎮座 不明
村中にあり。
鳥居拝殿あり。

神職 佐々木右京

寶永の頃(1704年~1711年)佐々木出羽某というもの当社の神職となる。
右京義次まで5世なりとぞ。

寺院

寶性寺

村中にあり。
大融山と號す。
縁起を按ずるに、昔この村の主大和田氏菩提のため建立すという。
天正17年(1589年)伊達氏の乱に兵燹(へいせん)の為に堂宇燼滅(じんめつ)せり。
今に薬師堂・毘沙門堂の址なりとて礎石存す。
天正の末(~1593年)密僧相続て住すること2世にして浄土宗となり下野国大沢圓通寺の末山となる。
客殿に本尊弥陀を安ず。

古蹟

館跡

村より戌亥(北西)の方5町計にあり。
東西28間・南北38間。
四面に土居の形存す。中は芝原となる。
村老相伝て大和田某という者住すという。
大和田氏の事詳ならず。

古碑

村東1町にあり。
高3尺計・幅1尺5寸余の野面石なり。
上に梵字あり。その下に『□安二年□□四月四日』と彫付けあり。
村老相伝う。昔夏秋の夜折々鬼火燃えしかば、その頃この村の寶性寺の僧必黄金の精ならんと思い一夕竊に発く。然るに天霊の枯たるありければ、故の如く封じ蔵しとぞ。
因にいふ、耶麻郡五目組半在家村に猪俣を氏とするものあり。その先祖足利持氏に事へしが、持氏長岡四郎左衛門という者に討れし後その首を取返し大和田村に持来り葬るといい伝う。(将軍家譜及び鎌倉志等の書には持氏永安寺にて自害すとあればこの説神事難し)。
その地今は知れざれどもこの処をその首の塚なるべしという説あり。正史に載せざる所なれども参考の為にここに併せ禄す。


最終更新:2020年05月02日 12:11