府城の北に当り行程2里8町。
家数22軒、東西1町15間・南北1町、四方田畝なり。
東12町34間
北高野新田村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り14町30間余。
西1町45間・北1町、共に
島村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り2町15間。
南1町3間
岡谷地新田村の界に至る。その村は未(南南西)に当り3町。
また
辰(東南東)の方4町36間
鴨田新田村の界に至る。その村まで8町50間余。
巳(南南東)の方2町54間
大和田村の界に至る。その村まで9町30間。
未(南南西)の方11町45間
代田村の界に至る。その村まで18町。
寅卯(東北東~東の間)の方9町30間
堂島新田村の界に至る。その村まで10町40間余。
村の未申(南西)の方に方便山という小山あり。故に村名とす。
文禄の頃(1593年~1596年)「方便」を「田計」に作るという。
村の西南に米沢裏街道あり。
昔は舞台田という端村あり。今はなし。
端村
上野
本村より10町10間余東にあり。
家数7軒、東西1間20間・南北40間、北は芝原にて三面田畠なり。
明暦元年(1655年)開く。
山川
方便山
村の未申(南西)の方50間計にあり。
高3丈・周38間。
應永中(1394年~1428年)地大いに震いこの山一夜に湧出すという。今に地震すれども動くことなしとぞ。
稲荷社あり。故に里俗に稲荷山ともいう。
山と称すれどもその実は小陵なり。
二森山
村東20町長谷地新田村の南にあり。
2山並峙つ。
一は高50間。
一は高30間計。
日橋川
村東10町30間にあり。
漆沢新田村の境内より来り、西に流れ大和田・堂島新田両村の境内を経て、凡23町余流れて
島村の界に入る。
関梁
堂島橋
村より寅(東北東)の方13町にあり。
日橋川ここに至て分れて3派となり、北に流れまた合して1水となる。その間に2洲をなす。これを堂島といい、橋またその名による。
3橋を架す。
西の橋最大なり。長18間。
中の橋、長3間。
東の橋、長4間。
共に幅8尺計、
耶麻郡塩川組赤枝村の方に通る道なり。
水利
大和田堰
神社
稲荷神社
方便山の頂にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。寶珠寺司なり。
寺院
寶珠寺
村中にあり。
方便山と號す。應永6年(1399年)の草創にて開基の僧を甚識という。大町一桂院の末寺真言宗なり。
客殿に本尊地蔵を安ず。
古蹟
古塚
百姓屋敷の中に高6尺・周7間計の塚あり。
俗に方便塚という。
相伝う。昔里人の妻妖狐のために魘れて死す。夫怒て狐を狩んとす。衆狐恐れて彼が伯父の僧と化し、往て狩すべからざることをとく。人ありて妖狐なることを悟り彼夫に告て殺さしむ。果して狐なりしかばその屍をここに埋む。彼狐精祟をなすに因り、塚を築き稲荷を勧請し狐を配して祀るという。
村名について。
明治八年(1875)に方便村・方便新村・岡谷地新田村が統合され岡田村が発足。
明治十二年(1879)一月二十七日、郡区町村制の施行により河沼郡の村となる。
明治二十二年(1889)四月一日、町村制の施行により岡田村と周辺の村が合併し堂島村が発足。
平成十七年(2005)十一月一日、河東町が会津若松市に編入
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- 方便村 - 河東町史 上巻
- 柏原新田村 - もとは方便村の小名・上野 - 河東町史 上巻
伝承
(町史より)
方便山と稲荷神社と宝珠寺
密伯慧識 河沼郡方便村方便山宝珠寺を建てる
伝えて云う 応永初年之頃 邑の裏に小山夜夜中に現る。因って以って邑の名となし又寺の名とすと云う。又寺西百歩計りに一塚有り、方便塚と云う。
民間に伝えて云う 昔里人之妻、妖狐となり、おそわれて死す。夫忿悶仇を狐に報ぜんとしこれを狩らんと欲す。衆狐之を恐れ、狩るを止めしめんと欲し、而して彼の叔父之僧に化けて往きて親しく説く、必ず狩るべからざるを告ぐ。一夫その僧の妖狐なるを知り、夫を説いて悉くこれを殺さしむ、埋めて一塚を築く、所謂今方便塚是れ也
後狐精崇りをなす故 祀りて稲荷神と為し、社を方便塚の上に建てしと云う。且つ又寺を宝珠と号す。説く者は彼夜中出現之山形宝珠に似たる故 取り名を為すと云う。今見れば築壇なり 自然には非ず
上野を柏原と改称した件
上野を柏原と改称したのは、記録を総合すると、元文四年(1739)から、明和四年(1767)の間で、このことは明和四年に「会津御私領村名並高帳」を調製した際に
風土記に方便村端郷上野とあり候処 地下より柏原新田と申し出候事
とあり、柏原と名づけたいことを申し出ている。附近一帯の原野に、柏と称する
濶葉樹が多かったところから、柏原の村名にしたいといわれ、明和四年の高帳によると、生産高五四石余と記録されている。
(略)
鎮守としては、戸隠神社が村東に鎮座する。祭神は
手力男命。いつの頃の勧請かは明らかでないが、
金川村の戸隠神社を分祀したと伝えているので、開村と密接に繋がるものと考えられる。祭日九月九日。
村北にある地蔵堂には、台座七〇センチメートル程の地蔵尊が祀られ、台座には
北國歴遊の途にて 当村篤信者の依頼に応じ之を塗替す 大正六丁巳年三月 東都画家大村敬花
の墨書がある。
最終更新:2025年08月03日 14:48