耶麻郡塩川組落合村

陸奥国 耶麻郡 塩川組 落合(おちあひ)
大日本地誌大系第32巻 48コマ目

この村は應安年中(1368年~1375年)鈴木道徳という者闢けりという。この地南に日橋川、北に大谷川あり。村西にて2流合す故に落合村と名く。

府城の北に当り行程2里18町。
家数17軒、東西1町52間・南北2町40間
東西南に雑木林の平山ありて北は大谷川に傍ふ。

東11町48間入倉村の界に至る。その村まで18町10間余。
南5町40間河沼郡代田組大和田村に界ひ日橋川を限りとす。
西6町10間赤枝村の界に至る。その村は戌亥(北西)に足り8町。
丑寅(北東)の方1町西連村の界に至る。その村まで13町余。

山川

日橋川(につはしかわ)

入倉村の方より来り、村南を西に流るること20町余赤枝村の境内に入り、俗に堂島川という。

大谷川

入倉村の境内より来り、村の西北を24町余斜めに流れ赤枝村の界に入る。

関梁

新橋

村より辰巳(南東)の方4町40間余、日橋川に架す。
長16間・幅2間。
橋北に碑あり。橋の記なり。その文左に載す。
※国立公文書館『新編会津風土記55より』


神社

十二所神社

祭神 十二所神?
相殿 諏訪神
   山神
   幸神
   大明神
勧請 不明
村東3町余にあり。
鳥居拝殿あり。北小路大久保播磨仮にこれを司る。

山神社

祭神 山神?
勧請 應安元年
村東にあり。
應安元年(1368年)鈴木道徳というものの勧請なりという。
辰巳(南東)の隅に1株の桜樹あり。大さ5圍計この社勸請の頃植えしものにや、そのさま数百歳を歴たる老樹なりしが今は枯れてかたえに(ひこばえ)*1を生す。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

慈眼寺

村中にあり。
應安年中(1368年~1375年)鈴木道徳この寺を開き南英という僧を請て住持とす。慶長11年(1606年)五目組熱塩村示現寺16世順学という僧住せしより曹洞宗となり、元禄2年(1689年)会津郡南青木組北青木村善龍寺に隷せり。
山號を無量山という。
本尊地蔵客殿に安ず。また正観音も安置す。

墳墓

佐瀬平八郎常雄墓

村東9町余、上原という所に高2尺余の五輪あり。
文化2年(1805年)より年々1夫の役を免じその墓を掃い荒穢せざらしむ。
近頃石碑を建つ。その文如左(※略)

鈴木道徳墓

村東1町、墓所の中に2尺計の石像あり。即道徳が墓なりという。

古蹟

館跡

村より巳(南南東)の方16町20間余にあり。
東西53間・南北41間。
貞治7年(1368年)鈴木兵内左衛門重義築き縄牽城と名くという。

旧家

鈴木四郎右衛門

この村の肝煎なり。先祖は弥次郎重賢とて源義家朝臣に仕え備中国浅口郡糸田という所を領す。重賢10世の裔兵部少輔道清、その子兵内左衛門重義まで代々鎌倉に住す。
康安元年(1361年)細川相模守清氏に語らわれ細川右馬頭頼之と戦う。相模守滅亡の後貞治6年(1367年)道清父子共に会津に来り葦名盛詮に仕ふ。翌年河沼郡稲川荘に移り新田を発しこの村を開き、2水合流の地ゆえ落合村と名け館を築きこの地を領せり。後重義入道して道徳と改め、應永12年(1405年)2月15日85歳にて終れり。道徳情あるものにて奴婢を免じて領民とすること前後3度、その輩恩を感じその辺りに家居せしによりこの村暫時の内ににぎわいて富饒の村となれりという。
子孫相続いてここに住す。道徳が子孫四郎右衛門重次というもの慶安4年(1651年)に新橋を造り、正保3年(1646年)磐梯山の温泉を開くという。
今の四郎右衛門は重次が6世の孫なり。
先祖よりの物なりとて槍2本・刀1腰を持伝う。




余談。
縄牽城(じょうけん-)の場所ですが、村から16町20間余(約1.7㎞)南南東となると日橋川を渡り河東球場がある辺り、もしくはその対岸の家ノ前近辺が該当します。あまりにも集落から離れすぎてますね。

追記。
コメント欄で情報頂きました。
(大和守種常の養嗣子)佐藤平八郎常雄の墓は、現在の上原ではなく金屋地区にあるようです。なお、佐瀬種常の墓は耶麻郡塩川組入倉村の地区にあり父子共々町の史跡として整備されているそうです。


最終更新:2020年07月05日 15:02
添付ファイル

*1 切り株から出た芽