河沼郡青津組東青津村

陸奥国 河沼郡 青津組 東青津(ひかしあおつ)
大日本地誌大系第33巻 109コマ目

昔はただ青津村と称して1村なり。後東西を分けて別村とせり。

府城の西北に当り行程3里18町。
家数78軒、東西2町50間・南北3町18間。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
また巳(南南東)の方1町40間青木村の民居に続き家数2軒、西の方6町西青津村の境内に家居1軒あり。

東15間・北4町、共に青木村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り1町40間。
西5町・南3町40間、共に西青津村の界に至る。その村は未(南南西)に当り3町余。
また戌亥(北西)の方20間余に穢多の居所あり。家数2軒。

この村四方田圃(たんぼ)にて西北は川に近し。
慶長16年(1611年)山崎新湖湛て多く田圃を浸せし時、蒲生氏より与えし文書今に肝煎の家に蔵む。その文如左(※略)。

山川

日橋川(につはしかわ)大川(おほかわ)

俗に大川という。下同。
村北6町にあり。
青木村の境内より来り、5町50間西に流れ宮川を得て南宇内村の界に入る。
廣50間余。

宮川(みやかわ)鶴沼川(つるぬまかわ)

俗に鶴沼川という。下同。
村西30間にあり。
西青津村の界より来り、北に流れまた東に折れ西に転じて日橋川に入る。
境内を経ること凡23町。広10間余。

原野

川原

村より戌亥(北西)の方22町にあり。
東西2町30間・南北20間余。

関梁

橋2

一は村西6町30間にあり。
長24間・幅7尺。
牛沢組塔寺村に往く道なり。大橋という。
一は新橋とて村より戌亥(北西)の方5町40間にあり。
長15間の土橋にて農事の便とす。
共に宮川に架す。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 伊勢宮 3座
   稲荷神 2座
   御稷神 2座
   山神
   伊豆神
   地神
鎮座 不明
村の戌(西北西)の方大亀甲館の上にあり。
鳥居あり。当寺村兼子大和これを司る。

八幡宮

祭神 八幡宮?
勧請 不明
村西小亀甲館の上にあり。
鳥居あり。兼子大和が司なり。

寺院

浄泉寺

村中にあり。
清光山と號す。開基詳ならず。
旧は浄土の道場にて古より弥陀の像2軀を安じ、その中に『作者佐少辨法眼康暦二庚申年作畢』と記せしものありしという(康暦2年:1380年)。今はなし。その頃の草創にや。文明年中(1469年~1487年)薫山という僧中興してより曹洞宗となる。天正の頃(1573年~1593年)には本村の住人生江主膳が菩提所にて寄付の田地も多かりしとぞ。
会津郡南青木組恵倫寺の末山なり。
三尊弥陀を本尊とし客殿に安ず。

観音堂

大亀甲館の上にあり。
この堂ものとは青木村にありて大同中(806年~810年)の建立なりといい伝う(今も青木村の北2町計に堂淵という田地の字あり)。
慶長16年(1611年)の地震に堂宇頽廃しここに移すという。
会津三十三所順禮の一なり。
浄泉寺司なり。

鐘楼

観音堂の前にあり。
鐘径2尺1寸、『寛延三庚午歳正月別當清光山浄泉寺現住大瑞代願主照譽常光』と彫付けあり(寛延3年:1750年)。銘あれども煩しいければ略す。

古蹟

館跡

村中民居の地なり。
東西28間・南北54間余。
土居堀の形残り、東の方に的場と称する所あり。
天正の頃(1573年~1593年)葦名の臣生江氏の居りし跡なしという。
天正6年(1578年)2月野沢原町の住人大槻太郎左衛門某というもの葦名盛氏に叛し時、生江大膳・金上兵庫・松本左衛門・新国上総等と盛氏に従い柳津口に向い大槻が婿山内右近を打敗れりという事舊事雑考に見え。また天正17年(1589年)6月生江主膳磨上の戦に打負けて、青津に帰り一族郷民を集め己が館に楯籠んとしけるが、もとより分内狭く要害あさまなれば館の南2町計を隔て堀をほり廻し河水をせき入れ、北の方は日橋川の端まで1面に搔楯(かいだて)を搔続けて(おびただし)く結構しければ敵軍容易く押寄さりしが、幾程なくて義廣常州に没落し始終怺ふべき様なければ遂に降人に出。その後生江が拵えたる結構を見れば、堀の水は僅に膝を過ず搔楯はただ葦麻からを一重圍たる計なりしと四家合考にあり。
また村の戌(西北西)の方3町計に男壇・女壇とて壇2あり。
男壇は高3尺・周10間、女壇は高2尺・周5間。これを生江壇ともいう。男壇の上に古き石塔1基あれども文字なくその来由をしらず。

亀甲館2

村の戌(西北西)の方にあるを大亀甲館といい、高3丈・周100間。上に観音堂及び稲荷の祠あり。
ここより南40間にあるを小亀甲館といい、甲1丈5尺・周60間。上に八幡宮を勧請す。
何れの時何人の築けることを知らず。地形各亀甲に似たるゆえ名けしとぞ。
林木蕃密にして近代の修築にあらず。
またこの村は川に近き所なれば、村民水災を患てこれを築くともいう。今も洪水あればここに上て災を免る。

旧家

生江勇八郎

この村の肝煎なり。
生江氏の遠孫なりとて世々生江氏の館跡に住し、先祖の武器刀槍の類を持伝うれどもその家系を詳にせず。また古文書2通あり。その文如左(※略)。



蛇足。
風土記の時代亀甲館は昔誰かが住んでいたと思われていたようですが、実はお墓でしかも東北地方で2番目の規模の前方後円墳でした。