河沼郡坂下組下茅津村

陸奥国 河沼郡 坂下組 下茅津(しもかやつ)
大日本地誌大系第33巻 122コマ目

府城の西北に当り行程2里26町。
家数28軒、東西1町4間・南北2町2間。
四方田圃(たんぼ)なり。

東5町10間・南3町26間、共に牛沢組中茅津村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り6町50間。
西3町6間福原新田村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り7町50間余。
北6町48間海老沢村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り11町20間余。

小名

河原屋敷(かはらやしき)

本村の北3町50間余にあり。
家数10軒、東西50間・南北1町8間。
四方田圃なり。

寺院

真福寺

村西にあり。
松岩山と號す。曹洞宗なり。
開基の僧を林首座という。永禄元年(1558年)に創建し、慶長10年(1605年)より天寧村天寧寺の末山となるという。
虚空蔵を本尊とし客殿に安ず。

旧家

石田七郎左衛門

慶長中(1596年~1615年)上杉景勝就封の時、石田土佐というもの従い来てこの村の北舘という所に居住し肝煎となりしより、子孫相続いて今に至れりという。家に先祖の武器数品と上杉氏・蒲生氏・加藤氏の時の證文21葉を蔵む。今その1、2を下に出す。その文如左(※略)
長帳慶長3年(1598年)上杉景勝就封の事を記せし所に四郡の御代官のことは、山の郷は満願寺仙右衛門殿、河沼郡は山田喜右衛門殿、稲川のことは津川をしからみ宇津江藤右衛門殿云々とあり。
(※略)


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  • 会津坂下町史 3(歴史編)- 新開津 - 国立国会図書館
    • 村名の遷移:下萱津→河原屋敷(下皆津・下海津)→下茅津
    • 名医・石田家(石田謙斎・石田竜玄)の伝承の記載あり
    • 中開津との間に八幡ノ木という八幡太郎義家由来の杉並木があり付近に水神様も祀られていたが、新宮川敷となり無くなったとの事
    • 犬の飼育や土蔵の建築、内井戸の設置を禁止した謂れあり
    • 金山という地に縄文時代の遺跡があった

余談:
元の中茅津新村・下茅津村が明治8年(1875年)に合併して新開津村となる。
明治22年(1889年)の町村制の施行により付近の村々が合併し金上村となった。
さらに、昭和30年(1955年)に坂下町付近の町村が合併し会津坂下町が発足。金上村は廃止となる。
参考:河沼郡 - Wikipedia

現在の開津地区付近から宮古橋方面に流れる宮川は、1950年から2005年までの改修工事により作られた水路。
元の宮川の水路は旧宮川として坂下町中方面に向かっている。
新開津付近には新宮川橋や新開津橋等複数の橋が掛けられているが新編風土記編纂時にはなかったもの。
ならば河原屋敷とはどの辺りだったのか?
最終更新:2025年06月08日 15:22