河沼郡坂下組福原新田村

陸奥国 河沼郡 坂下組 福原新田(ふくはらしんでん)
大日本地誌大系第33巻 123コマ目

この村は元和9年(1623年)福原嘉左衛門というもの新墾せしゆえ村名とせりという。

府城の西北に当り行程2里24町。
家数42軒、東西2町16間・南北1町50間、四方田圃(たんぼ)なり。

東5町38間海老沢村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り6町10間余。
西9町坂下村に界ひ宮川を限りとす。その村まで14町。
南8町25間牛沢組中茅津村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り16町10間。
北1町18間青津組村田村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り13町。
また
辰巳(南東)の方7町6間下茅津村の界に至る。その村まで7町50間。
未申(南西)の方4町47間下金沢新田村の界に至る。その村まで5町30間余。
申(西南西)の方4町50間葉林村に界ひ宮川を限りとす。

山川

宮川

村西4町50間にあり。
中茅津村の界より来り、下金沢新田村の境内を経て北に流れ坂下村の界に入る。
この村の境内を流るること12町計。

寺院

徳正寺

村西にあり。
山號を福壽山という。
元は禅宗にて元和9年(1623年)隣恱という僧建立せり。
寛永18年(1641年)より浄土宗府下五之町高巖寺の末寺となる。
本尊弥陀客殿に安ず。

太子堂

境内にあり。

参照・補足

  • 元和九年(1623)に福原新田村が開村されたと伝えられるが、これは新田村が形成されて佐瀬氏が肝煎に命ぜられた年で、それ以前に何名かが開墾に着手したことも察せられる。

外部リンク等


村名について

明治8年(1875年)、福原新田村・下新田村が合併し福原村が発足。
明治22年(1889年)、福原村・宮古村・金上村・海老細村・塚原村・開津村・新開津村が合併し改めて金上村が発足。
昭和30年(1955年)、坂下町・若宮村・金上村・広瀬村・川西村・八幡村が合併して会津坂下町が発足。

社寺

6.神社
八雲神社 祭神:須佐之男神 祭日:七月十五日(旧六月十五日) 字宮東地区。鎮守神
7.寺院
福寿山徳正寺 浄土宗 本尊:阿弥陀如来坐像 像高:三十三糎 総高:八十三糎 寺号はこの寺を建設した佐瀬嘉左衛門徳正(のりまさ)の諱をとって名付けたと伝えられる
太子堂 本尊:聖徳太子孝養像 像高:七十五糎 総高:九十糎 祭日:八月二十二日(旧七月二十二日) 徳正寺境内
優婆夷堂 明治中ごろ関脇優婆夷堂から勧請

伝承

町史より)
おかめ松
天文五年(1536年)の大洪水(白髭の水か)後、大きな亀の死体が発見された。里人はこれを埋め小壇を築き、その上に松を植えて大亀松と名付けた。それがいつしか「おかめ松」と呼ぶようになり枝葉が繁茂した。
大正四年(1915年)八月二十三日、耕地整理の際、この名木を切り倒すのを惜しんで、同年八月金上小学校校庭に移植した。現在も生育している。原地は校舎より東方百米位である。
※会津坂下町の町史編さん室によると枯渇・伐採された樹木の中に数えられている
最終更新:2025年11月16日 21:47