この村もとは水田なく専ら炭を焼いて産業とせしに、出羽国より猪子五郎兵衛という者来て、池水をほりぬき田地若干を開き池原村と名く。その子荘五郎また新田40石を墾発せしが、4分にして自らその1を取り残りの30石は1村に分け与ふという。今も新田を開けば4分の1を肝煎に配し余を村民に分ち敷はこの故なりとぞ。
府城の西北に当り行程5里18町。
家数15軒、東西2町44間・南北1町50間。山の半腹に住す。
東1町10間
西羽賀村の山界に至る。その村まで20町10間。
西8町
漆窪村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り22町。
南18町
天屋村の山に界ふ。
北8町56間
塩坪村の界に至る。その村まで13町10間余。
山川
猿山
村より亥(北北西)の方10町にあり。
頂まで2町。
この山の中腹に火室とて20間四方計の所あり。この地厳塞にも氷ることなし。
この下に十本という岩あり。中段に小坂あり十本坂という。仰ぎ望めば懸崖絶壁削成すが如く、下は数丈の断岸にて揚川の碧流に望む。
またこの山に荘司沢とて長3町20間・広4間計の岩沢あり。沢の水上に瀑布あり。土人伝えていう、壽永年中(1182年~1184年)出羽国の住佐藤荘司讃州八島の役に赴んとてこの所に至りしに、牽所の馬誤てこの沢中に堕ぬ。荘司捨かたくや思けん水上の幕府に17日夜籠て丹祈をこらし、頓てその馬を牽あげしが思わずも斯遅留せしは不吉なり。まづ人を馳て合戦の動静を窺わんと、石田平次國清に日を刻して彼地に赴しむ、期を過しなば対面すべからずと命ず。國清頓て壮年の郎等8人を撰び八島に至りしに、兄の三郎兵衛嗣信已に討れしかば、弟の四郎兵衛忠信が返書を得て立ち帰りこの山の麓に至れば夜深更に及ぶ。國清思いけるは期を過つの罪対面恊いがたしといえども反命せすんばあるべからずとて、己一人山に登りしに途中にして鶏鳴て聞しかば山上より文筥を荘司が陣に投じ終に山を下て自殺すという。今に鳥屋箱岩文落等の字あり。
また十本岩の辺より蛤蜊石を産す。初め國清荘司にすすめんとて齎し来りしが化せしなりという。怪迂の説信ずるに足らずと雖も伝わるままに記す。
水利
堤
村より未(南南西)の方1町にあり。周1町10間西村堤という。寛保3年(1743年)に築く。
神社
稲荷神社
村西1町10間余にあり。
鳥居あり。野沢本町伊藤対馬が司なり。
余談。
揚川(阿賀川)を望む断崖絶壁は
このあたりです。丁度よいビューポイントが無いのは残念です。この絶壁の向こう側に十本坂と瀑布があるのでしょうか?
最終更新:2020年05月23日 17:06