河沼郡代田組八田野村

陸奥国 河沼郡 代田組 八田野(はつたの)
大日本地誌大系第33巻 95コマ目

府城の東北に当り行程1里24町。
家数66軒、東西6町55間・南北2町13間。
山中に住す。四方田圃(たんぼ)なり。

東1里22町36間耶麻郡川西組戸口村に界ひ日橋川を限りとす。
西11町浅野村の山に界ふ。その村まで24町20間余。
南5町20間稲荷原新田村に界ひ十日森山と限りとす。その村まで5町50間。
北12町30間川西組大寺本寺両村に界ひ日橋川を限りとす。大寺村まで17町30間、本寺村まで26町20間。
また
未申(南西)の方6町10間生井新田村の界に至る。その村まで8町10間余。
戌亥(北西)の方7町漆沢新田村の界に至る。その村まで9町30間。
辰巳(南東)の方24町53間強清水新田村の界に至る。その村まで1里7町余。

村西二本松街道に1里塚あり。

この村本組第一の大村なりしが、境内に往々新田を闢て村居を構え昔に比すればその地漸せまれりと(いえども)大抵1組の地面半はこの村に属せり。
この村昔蒲生源左衛門が知行所なりしとて、その時の文書と大寺村と山を争いし時の文書4通を肝煎八田吉郎兵衛が家に蔵む。その文如左(※略)。

小名

高下(かうのした)

本村より12町20間巳(南南東)の方にあり。
家数5軒。山中所々に散居す。
四面に少く田畝あり。

山川

十日森山(とおかもりやま)

村南5町余にあり。
頂まで1町。周130間余。
昔空海10日の間護摩を修せし所ゆえ名くという(耶麻郡川西組本寺村恵日寺の条下と照見るべし)。
松蕈を産す。
またこの東に東十日森山あり。高1町余。
共に松樹多し。

明留坂(あかるさか)

村より未申(南西)の方10町余、府下より二本松に通る街道にあり。
下ること7町30間余、麓に橋あり。
会津郡の界なり。

日橋川

村北12町余にあり。
会津郡の界より来り、両山の間を屈曲し北に流れ西に転じ、2里22町余流れ漆沢新田村の境内に入る。

原野

秣場5

一は村より30町辰(東南東)の方にあり。東西20町・南北16町。大野原(おほのはら)という。
一は村南12町にあり。東西29町40間・南北4町。
一は村より11町戌(西北西)の方にあり。東西19町40間・南北1町余。
一は村北5町にあり。東西15町30間・南北3町20間。
一は村より12町辰巳(南東)の方にあり。東西1町余・南北10町。
みな数10ヶ村入逢の秣場なり。

関梁

日橋

村より16町北、日橋川に架す(耶麻郡川西組大寺村の条下に詳なり)。

水利

日橋堰

村より15町余亥(北北西)の方にて日橋川をせきあげ漆沢新田村の方に注ぐ。

戸口堰(とのくちせき)

村より1里20町余十六橋の北際にて日橋川を引き田地の養水とし、村より20町余東にて2派となり、一は滝沢組滝沢村の方に注ぐ。一派田地の養水とし浅野村の方に注ぎ、下流数村の田畝に(そそ)ぐ。

堤6

一は村より19町辰巳(南東)の方山間にあり。周500間計。
元禄中(1688年~1704年)築く。
生井新田村の田地の養水とす。

余の5は大野原の中にあり。
一は大山堤(おほやまつつみ)という。周110間。
一は離森堤(はなれもりつつみ)という。周250間。
一は細谷地堤(ほそやちつつみ)という。周126間。
共に寛文中(1661年~1673年)築く。
一は大堤(おほつつみ)という。周296間。元禄中(1688年~1704年)に築く。
一は新堤(しんつつみ)という。享保中(1716年~1736年)に築く。周178間。
共に強清水新田村の養水とす。

神社

諏訪神社

祭神 諏訪神?
相殿 明神 地主神なり
鎮座 不明
村より2町20間北、小山の上にあり。
鳥居あり。島村武藤河内が司なり。

伊勢宮

祭神 伊勢宮?
草創 不明
村より2町10間辰巳(南東)の方にあり。
鳥居拝殿あり。大藏院司なり。

寺院

大藏院

村中にあり。
八葉山と號す。開基詳ならず。
文禄中(1593年~1596年)弘等という僧住せりという。
府下博労町自在院の末寺真言宗なり。
本尊大日客殿に安ず。



明留坂について

※地理院地図(大正2年測図/昭和6年修正)

現在の地図に明留坂の記載はありませんが、明治時代の地図を見ると下居合から上松窪を経て生井へ抜ける道に明坂とあります。現在の県道64号線会津若松裏磐梯線の一部が該当するようです。ここが旧二本松街道です。
最終更新:2020年05月04日 10:34
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