耶麻郡川西組磨上新田村

陸奥国 耶麻郡 川西組 磨上(すりあげ)新田村
大日本地誌大系第32巻 31コマ目

この地は磐梯山の南麓、磨上原とて広野なり。
寛永2年(1625年)開て民居とす。
大寺・本寺両村の原野に交わり田圃(たんぼ)散在せり。

府城の東北に当り行程3里。
家数6軒、東西2町・南北1町20間、二本松街道に住す。

東58間・西4町30間、共に数村入逢の原野に界ふ。
南6町布藤村の界に至る。その村まで13町。
北8町大寺・本寺両村の原野に連なり境界分明ならず。

村西に一里塚あり。

小名

滝原(たきのはら)

本村の西10町20間余にあり。
家居1軒。
北に大谷川あり、南に二本松街道あり。

端村

横達(よこだち)新田

本村の西26町余にあり。
家数10軒、東西2町23間・南北30間、二本松街道に住す。
西南に小山連なり東北に田圃あり。
本村と同く開きし民民(民居?)なり。

大曲(おほまがり)新田

横達新田の北5町40間余にあり。
家数9軒、東西2町26間・南北1町、四方田圃なり。
寛永17年(1640年)に開く。

塩原(しほのはら)

横達新田の戌亥(北西)の方7町余にあり。
家数10軒、東西5町・南北5町。
南に田地を開き東西北は山に()ふ。

山川

大谷川

村北3町にあり。
大寺・本寺両村の境内より来り、西に流るること8町余大寺村の方に注ぐ。

(うは)

村西2町余にあり。
周1丈余。
何れの頃にか毎夜化して女となりし故の名なりとぞ。

関梁

端村横達新田の北にあり。
長5間、大谷川に架す。
隣村の通路、土橋なり。

神社

佐良志奈神社

祭神 不明
相殿 稲荷神 3座
   山神  4座
   伊勢宮
   熊野宮
勧請 不明
村より亥(北北西)の方3町にあり。
祭神及び勸請の年代詳ならず。
鳥居拝殿あり。三城潟村佐野壱岐が司なり。

古蹟

古戦場

村の四方12里の間は磨上原と称す。
放鷹の地にて鶉雲雀(うずらひばり)の獲多し。

相伝ふ。
文治中(1185年~1190年)源義経東に下りし時、武蔵坊弁慶・亀井六郎従い来り、路傍の石にて墨すり山水の美を記せしとて、今なお硯石と唱え周6間計の石あり。
この地は打開け南下りの昿野にて天正中(1573年~1593年)伊達・葦名戦争の地なり。その事の始は猪苗代盛國、政宗に頼まれ葦名氏に叛んとせしを、子の盛胤が諫にて事やみぬ。
天正17年(1640年)巳丑伊達・葦名再びの確執より高玉・阿子島まで皆叛きしを見て盛國伊達氏に属せんとおもいし折節、政宗の臣伊達藤五郎・片倉小十郎と談合し盛國に隠謀をすすめんとて、政宗の陣所大森に行きしかじかの事政宗に申て書簡を認め猪苗代へ遣しければ盛國仔細なく同心す。
その後(いよいよ)催促の為に同6月朔日藤五郎・小十郎盛國が(もと)に来り軍の評定せしが、この時黒川より坪下口の押として200騎猪苗代の非常を守らせしを盛國詐謀を廻らし黒川に還す。また政宗に信をあらわさんため我子の13歳なる亀王といえるを政宗の陣阿子島へ遣し質に渡す。葦名義廣磐瀬にありてこの由を聞き心許なしとて6月4日ひとまず会津に帰る。
盛國既に藤五郎・小十郎を引入、みづから案内して磨上原に打出、陣所を見計い、軍の評定し、近里を焼散して猪苗代に帰る。然る処に政宗布施備後を使として、汝等敵地に長居せんも心許なし。押付その地に討入べきよし藤五郎・小十郎が方へいい越ければ、2人の者驚きいまだ事の始終も調はず御出張は詮なし、まづ本宮に御陣をめさるべしと返答す。政宗既にかく有べしとさとり備後が途中まで使いを出し、一刻もはやく大将の御出張をまつよし言葉をかえて復命させ、政宗は面々急ぎ兵糧つかえ馬に飼て、先より先へ打出よと左右に下知し総軍は坪下越を打越させその身はわずか17騎にて石莚越して猪苗代へと急ぐ。藤五郎・小十郎今朝返答の上は斯あるべしとも思わざりしに、その由を聞て驚きつつ早々酸川野まで出迎ふ。政宗猪苗代に着しはその夜の事なり。
かくてこのよし黒川へ告来りければ義廣(さて)は盛國はや叛きけるよ勢のあつまらぬ先に追散らせとて、やがて富田将監を先陣としその夜磨上原に向い普藤の東なる高森山に陣をとり、先陣将監は湯田沢の辺まで打出たり。
6月5日早朝に政宗勢をわけ八森(はちがもり)に本陣をすべ、弾正盛國を先陣とし片倉小十郎・伊達藤五郎・白石若狭等相続て備えけり。互いの先陣吹渡(ふきわたり)という処にて打合せしに、盛國が勢ども散々に打れ開き(なび)きしを将監追懸しかば、先陣の崩懸るに揉立られ2陣の片倉まで崩れけり。政宗これを見て太郎丸掃部に鉄砲200埏差添え先陣にかお合せよと下知す。掃部馳付つるべ放ち横様より打せければ、将監進み兼る処を将監が手の者共も筒口を揃え打掛しかば、掃部が勢どよめく所を(いるかせ)に馳散し追懸けり。掃部今政宗に事ふれども旧は葦名累代の恩顧の者なり。将監かねて今度の振舞を悪みしに、掃部一騎東を指てにげ行ければ将監馬を駆著て指物の根筒をつかみ馬より引落さんとせしを、後より七宮木工助追続きしかば将監由なき敵に目を懸しとや思いけん、掃部を突落し首を掻けとて七宮に渡しその身は先陣に進む。伊達勢かく崩れ騒ぐを見て藤五郎若狭馬を西頭に駆せ七森(ななつもり)の間まで旗を進めければ、葦名方にて敵既に後へ廻ると思い進退なお予せる程にかねて大繩刎石と富田平田と権を争い思々に成たる。葦名方互に心を置、周章(しゅうしょう)騒ぐを伊達勢利に乗り切懸る。
この日は西風やや強かりしに、折しも風変りて磐梯より東風俄に吹下し兵塵みな葦名の陣へ吹懸しかば敵味方を弁せず、葦名勢みな引連て散乱せり。義廣今日を限と思い定め旗本勢400余騎を進め八森に向う。政宗これを見て手痛き軍することなかれ敵の機に乗り事をあやあつなと左右に下知し、やがて相懸りに懸り散々に戦いしが、義廣ただ本陣計に打なされければ、心ある郎等とも勝敗は今日にかきるまじ(しばら)く引返し給えとて義廣の馬の(くつわ)をとり僅か30騎にて引き返す。日橋は敵既に引落しぬ。大寺より西に下り堂島橋を渡り黒川えぞ帰りける。
佐瀬平八郎(塩川組落合村の条下に詳なり)も群る敵に馳入て散々に戦い痛手をおい落合村の東にて打れぬ。
河原田治部少輔盛次檜原口を守り大塩に居りしが、今度の戦いを聞きこの処に向い味方敗軍の体を見て片倉と戦い首7打取けり。
金上遠江守盛備(越後国蒲原郡津川と大寺村の条下を併せ見るべし)津川の居城より馳来り、葦名敗軍の体を見てつらづら思いしは味方度々勝に乗りしを宗徒の者とも心々になり身にそまぬ。軍すればこと斯は打負たれ、かかる敗軍に何ぞ1人も打死する者なき。いでや我1人も国難に死せんとて、追来る敵を支て一軍し1足も引ず討死す。
その余葦名勢敗走し日橋川に溺れて死する者数を知ず。
磨上の役散して後政宗首を実検せしにその数1583とぞ聞えける。
かくて義廣は遂に常陸の佐竹に奔り寄公となり、その後政宗黒川に入しが、同18年(1641年)豊臣家その剽掠(ひょうりゃく)の地を削り羽州長井に遷し給う。


明治8年に磨上新田村・布藤村・源橋村・一ノ沢村が合併して更科村になる。
明治22年の町村制施工により周辺の村々が合併して磐梯村が成立、昭和35年(1960)に磐梯村から磐梯町となる

姥石(姥石)

町史には『姥石という石があって、毒石と呼ばれている』と記載がある(磐梯町史近世資料 1より)
村西式丁ニ姥石有而毒石と云 夜ニ姥ニ化往来之者ニたき付候 依而たき付石と唱申候
歌に
 会津山ふもとの野辺の草ふかき
  人とる石の有とこそしれ
但 土田新田村之北ニモ毒石有之候
歌に
 みちのくのふもとの野辺のかたはらに 人取石の有とこそいふ
申伝候
「たき付」が何を指しているのか不明ですが、このあたりでは昔怖い老婆が住んでいたようです。

佐良志奈神社

(町史より)
岩代国耶麻郡更科村字宮西鎮座
祭神:豊玉姫命
勧請:貞観七乙酉年(865) 月日不詳

祭神が海の女神とは驚きです

二本松街道(下街道)

見やすい地図がありましたのでご紹介。

ちょうど磨上地区付近から県道7号線と分岐していることがわかります。
現在、磨上公民館(と磐梯町第2分団第七班消防屯所)があるところが分岐地点になります。

また、磐梯山ジオパークのサイトより旧二本松街道の記載を引用します。
 近世の猪苗代では東西に二つの街道が走っていた。北側を通る街道は、本宮宿から楊枝峠を経て、壺下(つぼおろし)、関脇・都沢から観音寺を通り、西館の舟渡し場で長瀬川を渡り、猪苗代城下に入り、城下からは土町より土田?に沿って土田集落を通り大寺へ向かい、その後は八田野、明留(あかる)坂、松窪、藤原を通り綿掛橋を渡り西へ向かい、滝沢町蚕養国神社への道で、これを当時は二本松街道と言っていた。猪苗代城下を通るため、中心の街道で公用の人々が通り、荷継ぎもされた本街道であった。公儀や私用の往還の便宜を図るため、一里塚を作ったり、橋の架け替えなどの道路整備がなされた。
 この街道は下街道とも呼ばれたが、若松城下から福島などの中通りへの道筋であった。 また、会津藩祖保科正之の墓と正之を祀る土津神社へ藩主が参詣するのにも利用され、若松城の支城でもある猪苗代城の往還路としても重要であった。
 この下街道は、1892(明治25)年に新県道が街道のすぐ南側を開通したことにより、衰退の一途をたどった。この旧二本松街道の三忠碑付近は松並木が良好な状態で残り、当時の面影が偲ばれる場所で、1998(平成10)年に猪苗代町の重要文化財(史跡)に指定されている。
 この二本松街道の南側を通る二本松裏街道もあった。これは、関都から西側へ向かい金曲を通り、長瀬川を渡り、猪苗代湖の北岸沿いに、入江・三城潟・長浜から戸ノ口・強清水を通り、沓掛峠を越え、滝沢峠を越えて滝えん沢町の蚕養国神社への道で上街道とも呼ばれた。この二本松裏街道のほうが、現在の国道49号線に沿う通りで、現在も使われている。 この二つの街道を結ぶのが、三城潟から猪苗代城下まで通る街道であった。



磨上原(摺上原)

磨上原はおおよそこのあたり周辺を指します。
地名は義経が東下りした際に付き添っていた弁慶がこの地にある硯石で墨を磨った事に由来するようです。硯石は土田地区no
西側に「弁慶の硯石」として現存しています。
なお、近くに玄能石(殺生石の破片)もありますが別物です。

また、葦名氏と伊達氏が戦を行った「摺上原古戦場」については磐梯山ジオパークの説明が詳しいので引用します。
戦国時代末期の1589(天正17)年6月5日早朝、会津城主葦名(あしな)義広軍16,000騎と米沢城主伊達政宗軍23,000騎とが、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で激突、東北の雄を決める戦いが行われた。
当初、葦名軍の先陣・富田将監が、伊達軍の先陣・猪苗代盛国勢を破り、伊達軍の二陣原田勢、さらに三陣片倉勢を突き崩して政宗の本陣を目指した。この時、伊達軍の太郎丸掃部(かもん)が200人の足軽を指揮して将監勢に鉄砲を浴びせかけ、将監方に多くの犠牲者が出たが、将監はついに太郎丸を討ち取りなおも進撃を続けた。しかし、葦名軍の二陣佐瀬勢、三陣松本勢、五陣平田勢などは兵を進めなかったばかりか、戦見物の雑人たちが伊達軍に撃ち崩されたのを見て、味方の葦名軍が敗れたと思い、一度にどっと崩れて若松に向って退却を開始した。浮足立った葦名軍は日橋川まで後退したところ、あらかじめ伊達軍が廻り込んで橋を壊しておいたので、葦名軍は橋がないことに慌てふためき多数の兵が川に落ちて溺れ死んだ。これを機に葦名軍は総崩れとなり、葦名義広はわずか30騎ばかりとなった近習に守られ、黒川城に逃れた。
摺上原の戦いに勝った政宗は、それから6日後に葦名家の居城・黒川城に入り、会津の領地を手に入れ、400年続いた名家葦名家は滅びた。しかし、政宗が会津に入ってからわずか1ヶ年過ぎた1590(天正18)年7月10日、豊臣秀吉の奥州仕置によって、政宗は会津を追われた。
摺上原合戦図

  • 参考
    • 磨上峠」の項参照 - 磐梯町史近世資料 1
    • 弁慶の硯石 - Welcome!ふくしま 会津情報館
    • 摺上原古戦場 - 磐梯山ジオパーク
    • 町指定史跡 三忠碑 - 摺上原の戦いで戦死した金上盛備・佐瀬種常・佐瀬常雄を讃える石碑。嘉永3年(1850年)に会津藩主松平容敬が古戦場跡に建立。
最終更新:2025年07月24日 21:47