村の四方12里の間は磨上原と称す。
放鷹の地にて
鶉雲雀の獲多し。
相伝ふ。文治中(1185年~1190年)源義経東に下りし時武蔵坊弁慶・亀井六郎従い来り、路傍の石にて墨すり山水の美を記せしとて、今なお硯石と唱え周6間計の石あり。
この地は打開け南下りの昿野にて天正中(1573年~1593年)伊達・葦名戦争の地なり。その事の始は猪苗代盛國、政宗に頼まれ葦名氏に叛んとせしを、子の盛胤が諫にて事やみぬ。
天正17年(1640年)巳丑伊達・葦名再びの確執より高玉・阿子島まで皆叛きしを見て盛國伊達氏に属せんとおもいし折節、政宗の臣伊達藤五郎・片倉小十郎と談合し盛國に隠謀をすすめんとて、政宗の陣所大森に行きしかじかの事政宗に申て書簡を認め猪苗代へ遣しければ盛國仔細なく同心す。
その後
彌催促の為に同6月朔日藤五郎・小十郎盛國が
許に来り軍の評定せしが、この時黒川より坪下口の押として200騎猪苗代の非常を守らせしを盛國詐謀を廻らし黒川に還す。また政宗に信をあらわさんため我子の13歳なる亀王といえるを政宗の陣阿子島へ遣し質に渡す。葦名義廣磐瀬にありてこの由を聞き心許なしとて6月4日ひとまず会津に帰る。
盛國既に藤五郎・小十郎を引入、みづから案内して磨上原に打出、陣所を見計い、軍の評定し、近里を焼散して猪苗代に帰る。然る処に政宗布施備後を使として、汝等敵地に長居せんも心許なし。押付その地に討入べきよし藤五郎・小十郎が方へいい越ければ、2人の者驚きいまだ事の始終も調はず御出張は詮なし、まづ本宮に御陣をめさるべしと返答す。政宗既にかく有べしとさとり備後が途中まで使いを出し、一刻もはやく大将の御出張をまつよし言葉をかえて復命させ、政宗は面々急ぎ兵糧つかえ馬に飼て、先より先へ打出よと左右に下知し総軍は坪下越を打越させその身はわずか17騎にて石莚越して猪苗代へと急ぐ。藤五郎・小十郎今朝返答の上は斯あるべしとも思わざりしに、その由を聞て驚きつつ早々酸川野まで出迎ふ。政宗猪苗代に着しはその夜の事なり。
かくてこのよし黒川へ告来りければ義廣
扨は盛國はや叛きけるよ勢のあつまらぬ先に追散らせとて、やがて富田将監を先陣としその夜磨上原に向い普藤の東なる高森山に陣をとり、先陣将監は湯田沢の辺まで打出たり。
6月5日早朝に政宗勢をわけ
八森に本陣をすべ、弾正盛國を先陣とし片倉小十郎・伊達藤五郎・白石若狭等相続て備えけり。互いの先陣
吹渡という処にて打合せしに、盛國が勢ども散々に打れ開き
靡きしを将監追懸しかば、先陣の崩懸るに揉立られ2陣の片倉まで崩れけり。政宗これを見て太郎丸掃部に鉄砲200埏差添え先陣にかお合せよと下知す。掃部馳付つるべ放ち横様より打せければ、将監進み兼る処を将監が手の者共も筒口を揃え打掛しかば、掃部が勢どよめく所を
忽に馳散し追懸けり。掃部今政宗に事ふれども旧は葦名累代の恩顧の者なり。将監かねて今度の振舞を悪みしに、掃部一騎東を指てにげ行ければ将監馬を駆著て指物の根筒をつかみ馬より引落さんとせしを、後より七宮木工助追続きしかば将監由なき敵に目を懸しとや思いけん、掃部を突落し首を掻けとて七宮に渡しその身は先陣に進む。伊達勢かく崩れ騒ぐを見て藤五郎若狭馬を西頭に駆せ
七森の間まで旗を進めければ、葦名方にて敵既に後へ廻ると思い進退なお予せる程にかねて大繩刎石と富田平田と権を争い思々に成たる。葦名方互に心を置、
周章騒ぐを伊達勢利に乗り切懸る。
この日は西風やや強かりしに、折しも風変りて磐梯より東風俄に吹下し兵塵みな葦名の陣へ吹懸しかば敵味方を弁せず、葦名勢みな引連て散乱せり。義廣今日を限と思い定め旗本勢400余騎を進め八森に向う。政宗これを見て手痛き軍することなかれ敵の機に乗り事をあやあつなと左右に下知し、やがて相懸りに懸り散々に戦いしが、義廣ただ本陣計に打なされければ、心ある郎等とも勝敗は今日にかきるまじ
姑く引返し給えとて義廣の馬の
轡をとり僅か30騎にて引き返す。日橋は敵既に引落しぬ。大寺より西に下り堂島橋を渡り黒川えぞ帰りける。
佐瀬平八郎(
塩川組落合村の条下に詳なり)も群る敵に馳入て散々に戦い痛手をおい落合村の東にて打れぬ。
河原田治部少輔盛次檜原口を守り大塩に居りしが、今度の戦いを聞きこの処に向い味方敗軍の体を見て片倉と戦い首7打取けり。
金上遠江守盛備(越後国蒲原郡津川と
大寺村の条下を併せ見るべし)津川の居城より馳来り、葦名敗軍の体を見てつらづら思いしは味方度々勝に乗りしを宗徒の者とも心々になり身にそまぬ。軍すればこと斯は打負たれ、かかる敗軍に何ぞ1人も打死する者なき。いでや我1人も国難に死せんとて、追来る敵を支て一軍し1足も引ず討死す。
その余葦名勢敗走し日橋川に溺れて死する者数を知ず。
磨上の役散して後政宗首を実検せしにその数1583とぞ聞えける。
かくて義廣は遂に常陸の佐竹に奔り寄公となり、その後政宗黒川に入しが、同18年(1641年)豊臣家その
剽掠の地を削り羽州長井に遷し給う。