耶麻郡川西組土田新田村

陸奥国 耶麻郡 川西組 土田新田(はにたしんでん)
大日本地誌大系第32巻 33コマ目

延寶2年(1674年)筑前守正経この村を開き見祢山土津神社の祭田とす。

府城の東北に当り行程3里余。
家数30軒、東西4町14間・南北40間、二本松街道に住す。

東1町行津村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り15町。
西2町28軒磨上新田村と入逢の原野に界ふ。
南4町32間布藤村の界に至る。その村は未(南南西)に当り16町40間余。
北3町大寺・本寺両村の原野に界ふ。
また
丑(北北東)の方2町3間湯達沢新田村の界に至る。その村まで5町。

また村中に行津村の端村袋新田より移りし家居1軒あり。

山川

寒地獄清水

村南30間余にあり。
2間に3間。甚だ寒冽なり。
下流を行津桜川両村の養水とす。

殺生石

村西1町10間、林中にあり。
高1間半・長3間半。
下野国那須原殺生石、源翁に打れてここに飛来りしを、源翁また来り拄杖にて打破せしという。

人取石

村北20間にあり。
高7尺余・周9間余。
四方に柵を繚らし(みだり)に近かざらしむ。
毒石にて往来の者この毒にあり死せしことありという。
何人の詠にか歌一首あり。
會津山麓の野邉の傍にひととり石のあるとこそきけ

水利

土田堰

延寶中(1673年~1681年)八萬の人夫を催し川東組渋谷村の境内にて檜原川を引き、磐梯山の腰を()り8600間の渠を通しこの村を開く。延寶2年(1674年)に成れり。因て土田堰という。
長坂新田・渋谷・見祢3村を過ぎ見祢山の社地より猪苗代城下の原野を経てこの村に至り、田地の養水となり小屋川に入り大谷川となる。

堤2

一は村南3町にあり。東西30間・南北35間、狐盛(きつねがもり)堤という。
一は村北10町にあり。東西40間・南北20間、一森堤という。





忠彦神社

本神社について詳細に書かれた資料は見つかりませんでしたが、土田堰の終点付近の村落である事から、土津神社に祀られている忠彦神社を分祀したものでしょう。となると祭神は友松勘十郎氏興となります。

藤石神社

猪苗代湖北民族誌の「人を殺す毒石(土田)」より引用
土田地内に「人取石」という毒石がある。藤石ともいう。四メートルに二・七メートルの石で、藤色の無気味な姿である。
昔、或る旅人がこの石に腰をかけて休んだが起ち上ることができなかった。
それからは村人はこの石に近寄らなくなり、この石を「人取石」というようになった。
この石に近寄っただけで怪我をするといったたりをなす石なので、その怪性を鎮めるために村人相謀り、この石を神とまつり藤石神社と崇敬した。(略)
藤石神社はこの石を祀った神社のようです。
最終更新:2025年07月24日 20:57