清国は元号でいうなら同治元年。
同治帝の治世下である。帝が6歳の子供であり、実際に政事をみていたのは外戚との権力闘争を勝ち残った母親の
西太后である。
清国は1840〜42年の第一次アヘン戦争、
清国との貿易不均衡をアヘンの密輸入で是正しようとするイギリスと密輸入を根絶しようとする清国との間で行われた戦争。敗れた清国は香港の割譲、南京条約の締結を強いられた。
徳川幕府にも伝えられて、異国船打払令など攘夷政策の緩和につながった。
1856〜60年の第二次アヘン戦争、
別名「アロー戦争」と呼ばれるのは、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため。
清による英船アロー号への臨検や仏宣教師殺害を機に勃発。英仏軍は広州や北京を占領し、円明園を破壊、清は敗北した。天津条約と北京条約を締結。これにより、外国公使の北京駐留、11港の開港、キリスト教布教の公認、アヘン貿易の合法化などが認められた。
アメリカはこの事件を徳川幕府に誇張して伝え、条約締結を有利に導こうと小細工を仕掛けた。
により、清国は半病人状態となった。
外患があるなら内憂も存在する。
太平天国の乱、捻軍、大成国、回族である。
科挙に落第し続けた洪秀全が「神の声が聞こえる(意訳)」と称してキリスト教に影響を受けた拝上帝会を設立して生活苦に苦しむ民衆に声をかけて信徒を集め、1851年に武装蜂起。
南京を占領して天京と改め、清朝と激闘を繰り広げた。英仏は太平天国に接触をはかったが、太平天国は清朝以上に排外主義で英仏は清朝を支援して太平天国を潰すことに決めた。
清朝は
曾国藩、
李鴻章、
左宗棠ら漢人出身の政治家が台頭し、今までのヤり方では勝てないと判断し、外国軍隊のヤり方を取り入れた
郷勇と呼ばれる地元の志願兵からなる義勇軍を組織した。英仏軍も上海の官僚と商人が資金を拠出し、西洋式の銃や大砲を整え租界にいた外国人や近隣の中国人を5,000人ほど徴兵して義勇軍を組織し、太平天国に対抗した。
太平天国は最初こそ理想主義に燃えて連戦連勝だったが、洪秀全やその取り巻きが調子に乗り、化けの皮が剥がれて、私欲まみれの失敗国家に成り下がった。更に内ゲバや仲間割れを起こして組織は自壊。1864年7月19日、天京攻防戦で清軍の攻撃により天京が陥落し、太平天国の乱は終結した。
ねんぐんと読む。「捻党」と呼ばれる民間互助組織が第一次アヘン戦争後の社会不安や不況で生活苦に陥る農民らを吸収し、一大勢力を築き、1855年に武装蜂起。捻軍の由来は参加した農民たちが神様を祭る風習として油紙を捻って燃やしていたから、とも。淮河北方の方言で、一本一本の糸をよりあげる、つまり人々の集まりという意味を表すとも言われている。
清朝の首都・北京近くで暴れていたので、太平天国より捻軍の対応を清朝は優先した。
張楽行が「大漢盟主」となり、太平天国と手を組んで連携し、清朝を苦しめたが、張が1863年2月に清軍との戦いで捕まり斬首。
甥の張宗禹が残党を率いて抵抗したが、1868年8月に清軍との戦いで壊滅した。
だいせいこく、と読む。明末清初に民間で結成された秘密結社・天地会は横暴な役人から民衆を守る為に戦う組織だったのが、役人の主である清朝を打倒する為の組織に変貌していく。
1855年に武装蜂起。各地の戦いで主だった指導者が戦死ないし処刑され1864年に壊滅。しかし、その後も天地会は再興され、1911年の辛亥革命などに現れて活躍した。
かいぞく、と読む。回とはイスラム教を示し、
回民蜂起とも呼ばれ、清朝から観るとイスラム教徒の反乱である。
雲南で1856〜73年まで発生した潘泰の乱と呼ばれたビルマ系イスラム教徒による反乱と陝西省・甘粛省で1862〜73年まで発生した陝甘回変と呼ばれた回族の反乱である。
前者はビルマ系住人と漢民族系住人の騒乱に清朝が介入、ビルマ系住人を虐待した為に、ビルマ系住人が武装蜂起。杜文秀が指導者となり清朝からの分離独立をはかり、清朝と戦ったが、1873年に杜文秀が根拠地・大理の陥落時に自殺。残党も1874年に壊滅。武装蜂起の死者は100万人にのぼり、生き残った多くの回族の難民が周辺のビルマ、タイ、ラオスなどに逃れた。
後者は回族と漢民族が対立。太平天国や捻軍が襲来すると聞いた漢民族が武装し、回族も自衛の為に武装。疑心暗鬼と流言飛語から回族が太平天国に呼応する形で1862年に武装蜂起。清朝が各地の反乱に忙殺されていた間は勢力を拡大出来たが、太平天国の乱や大成国の反乱が収まると清朝は左宗棠を派遣し、本格的な制圧に乗り出した。
左宗棠は懐柔と武力を巧みに使い分け、回族の連携を分断し、各個撃破に務め、1873年までには回族の勢力は壊滅し、残党はロシア帝国領の中央アジアに逃げ込み、ドンガン人と名乗る様になる。
高杉と中牟田は日記に太平天国の乱しか記していなかったが、情報源の白人や清国人も全体像を把握している訳ではないので、仕方ない。
4ヶ所の内憂がそれぞれ10万人を超える勢力である為、戦力が足りない場所は外国軍隊の力を借りる事態になった。それが太平天国の乱を担当していた曾国藩、李鴻章たちである。
高杉は一連の内憂を見て、儒学の聖地・孔子廟が外国軍隊の駐屯地にされていること、アジア人も西洋のヤり方を覚えれば太平天国を圧倒している西洋人と対等に振る舞えると教えられたこと、租界を作り上げ我が物顔で振る舞う西洋人とその周りでおこぼれにあやかろうとする清国人など、アジアに対する西洋の優位をまざまざと見せつけられた。
高杉や中牟田はイギリス人、アメリカ人、清国人と交流を持ち、中牟田は航海書を貰い、高杉は香炉や書を贈られた。
上海郊外にイギリス軍が築いた砲台に赴き、後装式のアームストロング砲が配備されているのを見学、日記に性能などを書き写している。
2人は「これさえあれば、外国にペコペコしなくて済むのに(意訳)」と日記に記している。
この幕府使節団一行は7月5日に上海を出港、13日夜に長崎に着港した。長崎に着いた高杉は翌日、オランダ人が蒸気船を売りに出されていると知ると毛利家が購入する仮契約を独断で締結した。
高杉が毛利家に提出した上海レポートには、
『清国がこのような惨状に陥るのは、軍艦、大砲、小銃を造らず、「海国図志」を絶版にして、情報を閉ざした事にある。今の日本は清国の前車の轍を踏む勢いにある。そうしない為に蒸気船や大砲、小銃を購入し、人材を海外に派遣して情報を集める必要がある(意訳)』
と記している。このレポート、8月24日に京都の長州屋敷にて殿様に報告されている。
高杉が日本を離れていた間に国内は情勢が変貌していた。
英国公使館焼き討ち
高杉が文久2年(1862)1月3日に江戸を出立して長崎〜上海〜長崎〜萩と移動して8月上旬には萩城下に戻り、独断で締結した軍艦購入の許可を貰おうとしたが、毛利家では既に8月1日に横浜でジャーディン・マセソン商会からランスフィールド号を購入する契約が成立。高杉は呼び出されて軍艦購入会議に参加し、更に追加で買いましょうと提案したが、人手不足で購入は見送られた。
ランスフィールド号は当時の干支にちなんで壬戌丸と命名されたが、井上馨らが閏8月27日に購入した後、横浜で購入立ち会いをした幕臣・勝海舟に話しかけた。
井上が言うには、長州には蒸気船に精通した人がおらず、この船も最初はイギリス人を雇って戦う予定だったが、さすがに気まずいという雰囲気になった。そこで海軍の教官歴があり、私塾を主宰する勝から人を借りて教えてもらう話になった。
話を聞いた勝は最終的に弟子の庄内人・高木三郎や幕府海軍から機関士を長州に貸すことにして、彼らから教わる事でようやく蒸気船を動かすことが出来た。
6月に薩摩島津家の国父・島津久光が勅使・
大原重徳を擁して江戸に着き、幕政クーデターに成功。
安政の大獄で政治活動を止められていた前一橋家当主・
一橋慶喜を
田安慶頼に変えて将軍後見職に、前越前福井松平家当主・
松平慶永を政事総裁職に就任させる体制を実現した。
最初、毛利家は長井の航海遠略策を軸にした開国論で京都デビューを果たすはずだったが、久坂や桂がこれに反発。『企画が弱い』と難癖を付けて取り下げさせ、毛利家は破約攘夷論に方向変換。
同じ頃、土佐山内家(24万石)では武市半平太が文久元年(1861)8月、土佐勤王党を結成。主宰する武市は久坂の破約攘夷論に共鳴し「土佐一国の攘夷」を実現する為、参政・吉田東洋が邪魔と考え、反吉田派の政敵と手を組み、文久2年(1862)4月8日に暗殺。土佐山内家の実権を握った。
互いに殿様を上洛させ、攘夷を実現する為、久坂と武市で「京都手入れ」と呼ばれる政治工作を行った。長州が朝廷工作、土佐が
安政の大獄で攘夷派を弾圧した幕府の役人や宮中の要人に「天誅」という名目で報復テロを行い、京都の幕府権力は無力化され、無政府状態となった。
長州と土佐の攘夷派は久光の幕政改革を酷評し、同年8月3日、世子・広封は京都から江戸に向かい、同月24日に江戸城に登城し、将軍・徳川家茂に勅書を伝達した。
勅書の内容は安政の大獄や桜田門外の変で幕府が処罰した人たちを国事殉難者として顕彰する事。これには病死した徳川斉昭へ官位の贈呈、処刑された吉田松陰の罪を取り消すなどが含まれていた。
同年11月28日、幕府は大赦令を出し、「安政の大獄」を誤りとし、「桜田門外の変」を正しいと認めた。これにより幕府のメンツは丸潰れ。
三条実美、
姉小路公知ら攘夷を催促する勅使一行は10月に京都を出立、同年11月27日、江戸城に登城し、江戸城大広間の上段に座り、中段の将軍・家茂に勅書を読み上げた。内容は攘夷を実施し、報告する事。親兵を設置する事の2つ。
12月5日に幕府は勅命を受け入れ、将軍家茂自ら上洛して報告する事を伝えた。
三条ら勅使一行は12月7日に江戸を出立し、23日に京都に到着。世子も12月9日に江戸を出立した。
この間、ここまで毛利家を牽引してきたのは久坂と桂である。特に久坂は同年8月1日に『廻瀾條議』、閏8月28日に『解腕痴言』を記した。前者は毛利家内部宛、後者は対外的に宛てた文書である。
どちらもざっくり言えば、破約攘夷論を唱えているが、違いは前者が長井雅楽を糾弾し、吉田松陰を讃える事で毛利家を破約攘夷論へ一本化する。後者は高杉が久坂に教えた海外事情を紹介し、外人が病人の面倒を見たり、国の為に助言するのは侵略の第一歩だから、隙を見せるな、と危機感を煽っている。
毛利家から高杉に8月11日に萩を出立し、京都にいる殿様に上海レポートを提出してから江戸に行けと沙汰が下る。高杉は同月24日に京都に着き、レポートを提出。江戸にいる桂に26日付で高杉は手紙に、
「久坂はやり過ぎた。まだ、国力も情報もないのに、攘夷に先走りし過ぎ。(意訳)」
と記し長州の京都手入れに批判的だった。
この後、江戸に向け出立、先に江戸にいた世子に拝謁し、
「幕府が攘夷をするする詐欺なのはけしからん。しかし、長州単独で攘夷をするのはまた違う話。公武合体による挙国一致の攘夷を実現させるべく、根回しするのが大切。それまで長州は国力を蓄え、軍備を調えるのが一番(意訳)」
と主張したが、受け入れられなかったため、閏8月27日、世子と父親宛に「毛利家を出ます。探さないで下さい(意訳)」と手紙を記し、江戸を出奔した。常陸国笠間城下(常陸笠間牧野家8万石)に住む水戸学の学者・加藤桜老に会いに足を運び、人生相談。加藤は高杉に毛利家へ戻るように諭した。更に加藤は桂に手紙を記し、高杉が罪に問われないように取り成しをお願いした。同年9月13日、高杉は毛利家に帰参。
この頃の高杉は久坂が政治に深入りしているのを苦々しく見ており、江戸留守居役・宍戸九郎兵衛に対し、「久坂を持ち上げ過ぎ。増長して手に負えなくなるぞ(意訳)」と警告の手紙を記している。
同年10月19日、友人の渡辺内蔵太に宛てた手紙に「人材を集めて、久坂の暴走を止めないといけない(意訳)」と記し、後半は「情報収集でイギリスに行くんだろう?オレも入れろ!!(意訳)」と記している。
後年、井上馨や伊藤博文ら『長州ファイブ』と呼ばれるイギリスへの密航留学生が横浜から出港するのは翌年5月12日の話である。
この当時、長州自体が世間から「攘夷www(意訳)」などと陰口を叩かれていた。それが悔しいと感じた松蔭門下生は何か世間の鼻を明かす事をしてやろう、と企んでいた。この頃、世子の小姓役として江戸で勤務していた井上馨は渡辺を通じて高杉と出会い、意気投合。3人で外国公使を殺害して、幕府の尻に火をつけてやろうと企んだが、これに久坂や品川弥二郎ら松蔭門下生が参加し、騒ぎが大きくなった。土佐の武市半平太や
坂本竜馬も巻き込みながら、世子がこの話を嗅ぎ付け、計画の中止を説いたので、この話はなくなった。後で長州と土佐で交流会が開かれ、参加した周布政之助が土佐の山内容堂を「てめぇも攘夷なwww(意訳)」と煽り、土佐と一触即発の雰囲気になりかけたのだが、世子が後日、土佐に謝罪。
松蔭門下生達は問題点として団結力が足りないと考え、盟主・高杉、副盟主・久坂による『御楯組』という秘密結社を結成する。同志で集まって血判状(血盟書)を書き、攘夷を実行するため強い決意を誓い合った。
その最初の行動は建設中の品川御殿山イギリス公使館を焼き討ちしたのである。
幕末には口を閉ざしていたが、維新後、政治家になった井上馨や伊藤博文が自らの武勇伝として口外し、自伝にも記している。ざっくり言えば、13人で12月12日夜に焼き討ち。祝杯を遊郭で行なった。イギリス、徳川幕府は生麦事件の処理もあり、そこまで乗り気じゃなく、犯人不明で、捜査を打ち切り。
長州が実行犯という噂は当時から言われており、「攘夷www(意訳)」と陰口を叩かれることはなくなった。
この公使館焼き討ち事件の後、焼き討ちメンバーは続々と江戸を離れていた。
井上、渡辺らは同月14日頃に江戸を出立、25日に京都に到着。久坂は土佐の
中岡慎太郎らと一緒に江戸を出立し、松代で佐久間象山と会見し、毛利家への移籍を勧誘したが、断られた。この後、京都に到着する。
毛利家では焼き討ちメンバーに対して文久3年(1863)1月6日、7日間の謹慎を申し渡したが、形だけで、20日には井上、渡辺が世子小姓役に復帰した。
高杉は当時、江戸にいた桂小五郎らとともに、吉田松陰の遺体を改葬し、荏原郡若林村(現・東京都世田谷区若林)に神式で埋葬した。最終的にここは明治15年(1882)、松蔭神社となる。
同年1月27日に京都で毛利家は諸大名の家臣と会合し、同年2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府はヤル気が無い為、久坂が朝廷に建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。
また、京都御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州毛利家が握ることとなった。
その裏で同年2月6日、長井雅楽が萩城下の自邸にて切腹した。久坂や桂の横やりで長井の案は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、殿様により帰国謹慎を命じられた。長井本人はこの措置に納得しておらず、長井を担いでクーデターを起こそうとする人たちがいたため、毛利家の分裂を抑えるためと自身を納得させた。
切腹の前日、高杉の父・小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣の かかるうき身は数ならで 唯思はるる 国の行く末」と辞世の歌を残した。
東行と奇兵隊
江戸にいた高杉は前年に発生した生麦事件の賠償問題が破談に終わり、攘夷をするなら江戸か横浜とみていた。仲間として江戸で土佐山内家を出奔した
岡田以蔵を居候させていた。しかし、周りがそれを許さなかった。京都で朝廷工作を行う世子・広封や久坂、井上、渡辺らが桂小五郎や高杉の手伝いを求めるようになり、桂や高杉も京都に向かう事になる。この旅の最中に以蔵が6両の金を使い込んで高杉とケンカになり京都に到着後、高杉は土佐勤王党に連絡をとり、6両を取り戻している。以蔵は坂本竜馬の紹介で勝海舟の護衛をする事に。
3月11日頃に京都に到着した高杉。攘夷祈願の為に孝明天皇は上賀茂・下鴨神社に行幸。お供に公卿88家、将軍家茂以下21の大名が従い、公武合体、天皇と将軍の上下関係を表す一大イベントになった。これは世子・広封や久坂らが関白・鷹司輔煕に攘夷祈願の為に賀茂神社と泉涌寺への行幸を建議し、採用された為。
幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が諸侯に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。
有名な高杉の「よっ、征夷大将軍!!(意訳)」発言はこの時のネタ。最近の研究ではこの頃、志士デビューした山縣有朋が日記の中で「高杉と一緒に将軍を観た(意訳)」という記述を元ネタに、戦前、高杉の研究者たちが「高杉が言っていないor言ったけど意味やニュアンスが違う発言を誇張・曲解することが多くそれを総じて『言っていない語録』が誕生している(意訳)」から発言が作られて独り歩きした結果、といわれている。
その頃毛利家は高杉を国許で政務座に就けるという噂があった。高杉は政治に就く事を拒み、3月15日、10年の暇を願い出て、頭を丸めて僧形になり「東行」と号した。
毛利家は驚き、周布が事情聴取を行い、高杉は
「今の毛利家にはついて行けない(意訳)」
と申していると報告。毛利家は高杉の振る舞いを許した。
高杉の「東行」は周布との事情聴取で「西行法師」にあやかったと話した。暇を認められた高杉は毛利家のツケで京都各地の料亭や遊郭に出入りして飲み歩いていた。その頃の飲み友・
堀真五郎が「西行は西に行くから西行、高杉の東行は東に行くから東行なのか?東に何の目的があるのか?(意訳)」と質問すると、高杉は「キミの質問は正解。東に行く目的は教えてあげない(意訳)」と煙に巻いた。
この頃、江戸から尊王攘夷の為に来た幕府募集の
浪士組が、内輪もめの結果、京都に残る
芹沢鴨、
近藤勇一派と、江戸に戻る清河八郎派に分裂した。清河は朝廷工作を行い、2月29日に東に下り攘夷をせよ、との勅命を貰い、3月13日に京都を出発した。
高杉はこの浪士組に便乗して東で攘夷をするんじゃないか?と堀や周布は勘づいたのである。
高杉が「賊」と呼ぶ西洋人は京都からみたら、東の横浜にいる。天皇は「東に行き」西洋人と
戦えと、将軍や浪士組に命じた。高杉の理論では全国の大名が東に行き、征夷大将軍のもとで一致団結し、挙国一致体制を築き、外患を除かなければならない。高杉はアメリカが南北戦争、清国が内乱で死に体と化して、清が外国からの援助に頼る有り様を「外患より内憂の方が恐ろしい(意訳)」と評している。毛利家は天皇と将軍の対立を煽り、地元を戦場にする覚悟で外国と戦う準備をしていた。毛利家が征夷大将軍ではないのにである。
この頃の高杉は討幕どころか、毛利家も公武合体体制下で東に行き、攘夷を実行するべきだと行動しようとしたが、不発に終わった。
高杉をやべぇ奴と見なした毛利家は堀をそのまま監視役にして国許へ戻す事に決めた。2人は3月26日に京都を離れ、4月9日に萩城下に戻った。高杉の帰宅を知った父は高杉を実家ではなく、萩城下近郊の松本村に小さい家を与えて、そこに妻と二人きりの生活をする様に命じた。高杉はこの家を「松下塾」と名付け、若者に学問を教えたとある。柳生新陰流免許皆伝、昌平黌出身、海外渡航歴あり、と書くと、スゴいキャリアである。
高杉は夫婦水入らずで2ヶ月程、松本村で過ごしたのだが、その間、長州や土佐の攘夷派とその取り巻きの公家らは孝明天皇が外人を先入観から毛嫌いしているのを上手く扱い、孝明天皇から毛利家へ陣羽織を下賜、対外戦争は長州にお任せ!という雰囲気を作った。
長州は自国の海域を通行するアメリカの民間船・ペンブローク号に同年5月10日、砲撃を行う。ペンブローク号は豊後水道経由で上海に逃れた。同月23日にフランス軍艦・キャンシャン号、同月26日オランダ軍艦・メデューサ号を砲撃。キャンシャン号は長崎に逃れ、メデューサ号は乗組員4人が戦死した。
久坂らは攘夷を実施したと朝廷に報告するため、同月27日に馬関を出立、6月1日に上洛すると朝廷よりお褒めの勅諚を賜る。
5月29日、世子による巡察が行われ、その席で毛利家に招かれた軍事顧問の中島名左衛門が「ラッキーパンチが当たっただけ。これから外国による倍返しが来ますよ。覚悟してください(意訳)」と発言。この日の夜、中島は毛利家の攘夷派により斬殺された。
中島の言う倍返しは6月1日、アメリカ軍艦・ワイオミング号による報復攻撃を皮切りに行われた。長州海軍は壬戌丸、庚申丸が撃沈、癸亥丸は大破し、4隻の長州艦隊は3隻が戦闘不能となり潰滅した。アメリカ側の死者6人、負傷者4人、長州は死者8人・負傷者7人であった。陸上の砲台は艦砲射撃で甚大な被害を受けた。
同年6月5日、フランス東洋艦隊・セミラミス号とタンクレード号が報復攻撃を開始、前田、壇ノ浦の両砲台を完璧に粉砕した。砲台の支援に出陣した既存の武士階級は艦隊からの艦砲射撃で鎧袖一触、相手にならなかった。
高杉は仲間うちから「お~い高杉、攘夷やろうぜ!!(意訳)」と誘われたが、「あっ、ごめん、オレ行かない…(意訳)」と返答。
6月3日、出奔した高杉に対する処分が下り、今回は不問にするが、身分は父の育みとされ、家督相続権を失った。高杉も本来は重罪になる話が大甘処分で済ませたあたり、長州は人がいないんだな、と友人の中村九郎に手紙を記している。
長州艦隊は壊滅、既存の武士階級が役立たずなのを聞いた殿様はぶち切れて同年6月5日、高杉を呼び出して対策を求めた。高杉は士分以外から広く募兵し、一団を
奇兵隊とすることを提案。殿様の鶴の一声で決まり、高杉は世子相談役として出仕。高杉に馬関防御を命じ、翌7日、光明寺党を叩き台に高杉が武士、農民、町人からなる奇兵隊を結成した。高杉は最初、庶民が軍事に参加する事に消極的だった。しかし、既存の武士階級が口だけ番長なのにあきれ果て、次善の策として志願兵による奇兵隊を設立した。奇兵隊の「奇兵」の由来は高杉によると、『「正兵」が「正面から敵を引き受ける」のに対し、「奇兵」は「少ない兵や奇策で敵をかき回し、神出鬼没の動きで敵を悩ます」のを目的にする』、とあり、ゲリラ戦力なのである。
毛利家と高杉の間で馬関防備に対する意見のすり合わせが行われ、同年6月27日、正式に奇兵隊惣督に任命され、合わせて政務座に加えた。
馬関防衛に関しても、総責任者・国司信濃を補佐する相談人に任命された。同格の用談人に任命された波多野金吾(後の広沢真臣)や高杉が両親に宛てた手紙では、高杉は育みで家督相続権を持たない為、既存の武士団へ命令権を持たない奇兵隊限定の指揮官であると説明があり、波多野は武士団への指揮官で任命され有事の指揮権は高杉が格上とある。更に壊滅した砲台や艦隊の再編が高杉や波多野の主な目的だった。
筑後久留米有馬家(禄高21万石)の攘夷派や佐賀鍋島家に連絡を取り、高い火力を持つ大砲を購入しようとしたり、武家の婦女子を動員するなどして崩壊した砲台を再建した。
現実に攘夷をすると長州毛利家の大砲の飛距離は不十分だった。対岸の
豊前小倉小笠原家(禄高15万石)からも砲撃し、はさみ撃ちにして、戦果を挙げることが可能だった。毛利家とその一門では小倉小笠原家に対して文久3年(1863)4月27日と同月29日に共同作戦で攘夷をしようと申し入れをしているが、小笠原家は朝廷から政務を委任されている幕府の命令を順守すべきという方針を採った。
これに毛利家は、朝廷の命令を蔑ろにし、攘夷を行わない小笠原家は厳罰に処せられるべきだと主張した。
文久3年(1863)6月14日、長州毛利家の朝廷工作により、監察使・正親町公董が御親兵60人を引き連れ、毛利家へ派遣する事を決め、同月16日に出立。同年7月16日に下関入りした。
毛利家は大砲持参で田野浦に上陸、砲台を築き、陣地や宿舎を設置し、小笠原家の領地を侵食した。高杉は正親町に小笠原家への弾劾状を提出し、京都では小笠原家の官位剥奪・所領没収という勅命まで作られて、実施されようとしていた。
幕府は毛利家の行為に危機感を抱き、詰問使・中根一之丞を軍艦・朝陽丸に乗せて派遣したが、逆に毛利家は朝陽丸を砲撃、停泊した朝陽丸を奇兵隊が拿捕、中根らを殺害した。(朝陽丸事件)
小笠原家は朝陽丸に事情を説明するべく家臣を乗せていたが、切腹に追い込まれた。
同年8月13日、大和行幸の詔が出され、同時に毛利家当主・毛利敬親らに上京が命じられた。
諸大名へも行幸供奉、軍用金献納が命じられた。
同年8月17日に大和国五条で天誅組の変が勃発した。
一番最初は江戸の幕府が老中格・
小笠原長行を責任者にして西洋式軍隊を投入、京都を包囲して孝明天皇に開国和親の勅許を出させる。
「認めなければ孝明天皇を
承久の乱の
後鳥羽上皇みたく島流しにする」と広言したので、京都の幕府側、諸大名がブチ切れて一触即発の事態になった。
当時、京都にいた将軍・家茂が軍隊を宥めながら江戸に連れて帰ったので、何事も無かった。
次が薩摩島津家と福井松平家によるクーデター計画。
薩摩島津家は薩英戦争に忙殺。
福井側が島津家が兵隊を出さないならリスクが高過ぎと二の足を踏み、とん挫。
三番手は小笠原家が家臣を京都に派遣し、訴えを聞き入れた京都守護職・松平容保(陸奥会津松平家23万石)が長州の破約攘夷論に危機感を抱く孝明天皇・中川宮・薩摩島津家とともに長州毛利家を朝廷から追い出す為のクーデターを実行した。(文久政変)
これにより、毛利家とその取り巻きの公卿達は京都を追われ、長州に亡命した。(七卿落ち)
中川宮「おめぇーの席ねぇーから!」
会津武士、新選組「カエレ!」
これを打破する為、奇兵隊を率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が高杉を筆頭に毛利家内部から出てきたが、世子からやめてとお願いされ、中止に至る。七卿落ちの護衛で京都にいた長州軍が地元に戻ると、京都の攘夷路線に反対してクーデターを起こそうとしていた椋梨藤太らと衝突。高杉が京都から戻る長州軍と呼応して椋梨らを抑えて権力を握る。
上記の権力闘争と別に、創設された奇兵隊はさっそく既存の武士階級と衝突し、争いが絶えなかった。互いに歩み寄る気は無い。
高杉は奇兵隊初代惣督だったが8月16日に発生した教法寺事件の件、権力闘争の後始末から高杉を政務座に就ける話を実現する為に、高杉は同年9月10日政務座役に就任、同月12日に奇兵隊惣督を辞職して、河上弥市と滝弥太郎の二人が奇兵隊惣督に就任した。
政変を受けて長州に落ち延びてきた尊攘派公卿・
三条実美ら七卿は三田尻の
招賢閣に滞在する事になり、同年9月25日、その護衛は奇兵隊が行う事になった。
三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉の6名である。
錦小路は元治元年(1864)4月27日病死、澤は一旦、生野の乱で居なくなるが、敗北後、再び長州に戻り三条らと一緒に過ごす。澤の存在は幕府も死んだと思ったのか、この後、三条らの身柄引き渡し交渉でも、澤の名前は出てこない。
高杉の下に、京都から締め出されて亡命した諸国の浪士たちが集まり、七卿を擁して奇兵隊を率いて失地回復を謀りたいと申し出てきた。高杉が実現に向けて動いた形跡はない。
10月1日、高杉は椋梨らのクーデターを止めた事を世子から高く評価され、父の育みから新知160石を与えられ、父とは別に高杉家を創設。その当主となった。父も高杉の振る舞いと自身の体調不良から世子や奥方のスケジュール管理を行う秘書室長的な役職を辞職したがっており、高杉に引き継ぐ形で辞職が許された。高杉が独立したので父に嫡男がいなくなり、妹の子供・百合三郎を養子に迎えた。
同月30日、高杉は父に改名を相談している。上記の朝陽丸事件で幕府の使節団一行に危害を加えた長州の元凶が高杉だと幕府が認識している、と内外から知らせがあり、高杉がごまかすために通称を「東一」にしたいとあり、高杉は通称を東一にしている。本人は関与してないのに、指名手配犯にされていたのである。
この頃の高杉は京都の政局に関与しない考えだったが、文久政変からの劣勢を打破する為、毛利家内部で軍勢を率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が出てきた。
首謀者は出奔浪士などを集めて作られた遊撃隊の総管・来島又兵衛、久坂玄瑞、浪人の真木和泉など。
周布や高杉は外国艦隊の襲来も予想されるから、今は内側を固めるのが先決と反対すると、来島が
「やーい、権力の犬www。犬らしく尻尾でも振ってキャンキャン鳴いてろwww(意訳)」
と高杉を嘲笑うと、高杉はブチギレてしまい、文久4年(1864)1月28日、
山田顕義とともに出奔。元治元年(1864)2月2日大坂に到着し、薩摩島津家の実力者・
島津久光を暗殺しようとするも、当時一緒にいた
中岡慎太郎らに反対されて不発に終わる。毛利家から久坂玄瑞が来て呼び戻され、同年3月29日、牢屋に入った。新知160石や「東一」の名を取り上げられ、通称が「和助」となる。
牢屋の外から周布が
「ここで3年我慢して勉強するんだなwww
これくらい我慢できなきゃ、将来、大望を成す事など出来んぞ!」
と馬に乗り、酒を飲み、刀を抜いて大声で叫んだら周布は失脚した。高杉は6月21日に出所して謹慎処分となる。
その間、同年6月5日夜に
新選組の池田家事件で松蔭門下生の吉田稔麿や杉山松助が討死、この事件の後、同年7月11日、三条大橋の辺りで禁裏御守衛総督・摂海防御指揮を務める
一橋慶喜の相談役・佐久間象山が
河上彦斎らに暗殺された。暗殺の理由は佐久間と京都守護職を務める会津の公用局が孝明天皇を彦根経由で江戸に移し、和宮、婿の家茂と兄妹、夫婦仲良く過ごしてもらい、幕府が帝を独占する為である。これが成立すると長州は孝明天皇存命中、逆賊確定なので阻止したのである。
象山暗殺から8日後の7月19日、長州は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。
禁門の変である。
国司信濃、福原越後、益田右衛門介の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、桑名などの兵と激戦。
幕末武士団番付けの東西両横綱、西の薩摩と東の会津に、加えて新選組を敵に回して勝てる術は無かった。
指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、寺島忠三郎、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。桂小五郎は会津の敗残兵狩りから命からから逃れ、但馬に潜伏する事になる。
上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。
国内では孝明天皇が長州の攘夷論が実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると懲罰目的の勅命を降し、西国21の大名家に出兵が発令されたのが、同月24日。
元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。
後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。
狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。
この計画を徳川幕府は知らされていたが、それはみっともないとの感覚が幕府にもあり、日本内部の問題として処理しようと言う空気が強かった。
連合艦隊が集結した日に、将軍は在京の諸大名に総登城を命じ、長州征伐を布告した。
イギリス留学中の伊藤博文、井上馨らが慌てて帰国して、同月3日に伊藤と松島剛蔵が、翌日には前田孫右衛門と井上が四ヶ国連合艦隊に
「お情けで関門海峡を通航するのを認めてやるよw。感謝しな!!(意訳)」
と説明したが、四ヶ国連合艦隊はこれを認めず、下関に陣取る奇兵隊らに攘夷の行なうべきでない事を説いたが、皆、頑なに攘夷を貫いた。
説得が失敗に終わった井上は8月3日、毛利家に対し、高杉の謹慎を解除して国難にあたらせて欲しいと提案。毛利家が提案を受け入れ高杉は自由の身になる。井上は高杉に「外国と戦争を避けようとしたが、長州は誰も話を聞いてくれない。逆転の発想でとことん外国と戦争して、骨の髄まで外国に勝てないと分かるまで戦争させる事にした(意訳)」と提案。高杉はこれを受け入れて、同月5日の御前会議で井上、伊藤と徹底抗戦を主張して受け入れられ、翌日、高杉が政務座に就任し、井上は小郡代官に就任し、指揮命令系統の再編を行なった。
連合艦隊を迎え撃つ長州の布陣は2000名の人員と70門の大砲を前田、壇ノ浦、洲崎、弟子待の四か所の砲台に配置したが、大砲は規格、射程、性能がバラバラ、人員もヤル気のある奇兵隊や膺懲隊とヤル気の無い正規の武士団などバラバラで、前回の戦いで受けた損害から回復しきれてなかった。
元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。
翌日も連合艦隊は砲撃と上陸を行い、連合艦隊側が2600名の陸戦隊を上陸、武器もエンフィールド銃で武装され、ゲベール銃や火縄銃、槍や弓矢で武装された長州側と交戦。
損害はイギリス側が本国に送った報告でイギリス軍が戦死8、負傷51、フランス軍が戦死4、負傷5となっている。
長州軍は戦死13(奇兵隊6、膺懲隊7)、負傷27(奇兵隊16、膺懲隊11)。
長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだ。
フランス海軍士官アルフレッド・ヴィクトル・ルサンの『フランス士官の下関海戦記』(樋口裕一氏訳)によると、
「大砲を船に積み込むのに日本人等は我々の手伝いをしてくれた。彼らは軍人が見てない処では戦争の中止を満面の笑みで受け入れた。我々の砲弾の爆発する音を声で真似しながら、彼らは戦争なんか大嫌いだ!と大声で話していた。」
と長州の民衆が武士に愛想を尽かしていた事が理解出来る。
四ヶ国連合艦隊と長州の交渉は元治元年(1864)8月8日から高杉が表舞台に立ち、行われた。
当時、山口滞在の五卿や、長州に亡命していた攘夷派浪士たちは、高杉のやる事に反対し、刺客まで差し向けて来たので、高杉が逃げる羽目になった。それでも高杉はなんとか同年8月14日に内容として関門海峡の通航を妨害しない、砲台は再建しない、新築しない、石炭、食糧、薪水などの必要品は売り渡す、という講和を纏めた。
賠償金は一応支払うと約束するが、実は暗黙の了解があり、幕府が金を出せば毛利家に支払い義務はない。
毛利家は「我々に責任はない。天皇と将軍に責任がある(意訳)」と押し通した。
四ヶ国は毛利家の言い分は筋が通っていると判断した。天皇、将軍、毛利家と同じ穴の狢と断定している。嫁の父親である天皇に頭が上がらない将軍は横浜鎖港をガチでヤル気になり、生糸の輸出を全面的に禁止すると公言した。
嫁の父親である天皇が攘夷派の日本代表で、四ヶ国からすれば毛利家の親分と見ている。池田屋事件も禁門の変も攘夷派の内ゲバなので、未来は少しも明るくない。
この時の日本の大口取引先はイギリスである。
駐日公使・オールコックは攘夷を実施する長州を見せしめに叩いて、天皇や将軍に警告を与えるためといわれている。
オールコックは攘夷の停止は幕府の義務である。それをヤラないなら四ヶ国連合艦隊が
「
幕府に変わってお仕置きよ」
になり、請負代金を幕府に支払わせる、という理屈だった。幕府が支払いを認めれば、長州は賠償金を免除される。
幕府はオールコックの理屈を受け入れ、全面的に認め、以後は安政の五カ国条約を忠実に守ると約束した。
高杉はこの時、「これでダメなら朝鮮で長州亡命政権だな(意訳)」と国外逃亡を覚悟していたと伊藤博文は伝える。
当時からよく言われた長州領内から島の一つを占領する計画は当時の記録(外国側、長州側)に無く、元ネタは明治42年(1909)7月4日、伊藤博文が軍艦で関門海峡を通過した際に「あのとき外国側が彦島寄こせとアピったけど、オレらがゴネたから話が有耶無耶になった。ゴネてなけりゃ、彦島は香港、馬関は九龍半島になっていたねw(意訳)」と秘書官の古谷久綱に雑談として話したのを古谷が翌年、伊藤の伝記を記した際、この話も載せて出版した。この話の裏付けを取らずに研究者が採用した結果、談話だけが独り歩きした。
決起
攘夷戦争をしている最中の同年7月27日、毛利家は当主親子と分家筋の当主が三田尻で集まり、緊急対策会議を行い、禁門の変は殿様の指示ではなく、一部の跳ねっ返りによる暴発と話を結論づける。しかし、幕府は毛利家が国司信濃に宛てた進発状を押収していた。このため、会議の決定で幕府との対話が通じない事が分かった。
9月2日、高杉は山口に入り、11日に萩に帰るのだが、毛利家の会議に参加した形跡はない。
毛利家では9月1日、山口に在住する家臣団に長州征伐に対して武備恭順を貫くと布告。
椋梨藤太らが萩から山口に押しかけ、「帝の住まいに砲弾をぶち込んだのだから、謝罪恭順が当たり前だろう!!(意訳)」と殿様に強く迫り、殿様は「その通りだ(意訳)」と前言を翻す。奇兵隊の山縣有朋らはこれに反旗を翻し、徹底抗戦を主張するなど、大混乱だった。
9月25日、山口の政事堂内で長州征伐の対応を巡る御前会議が行われた。
椋梨が「帝による長州征伐など御家の恥。この恥をそそぐには、攘夷を行い、御所に砲弾をぶち込んだ連中を自らの手で処断して帝に謝罪して赦しをもらうのが一番(意訳)」と主張。
これに対して井上馨が「武備恭順一択。たとえ帝相手でも謝罪恭順などあり得ない。ましてや幕府風情に頭など下げられるか!!(意訳)」と強硬論を主張する。
会議は井上の武備恭順を採択して閉幕したが、その夜、井上馨は刺客に襲われ、50針を縫う重傷を負い、九死に一生を得る。
刺客の1人・児玉愛次郎は襲撃の理由を「井上が諸隊を率いて反対派を襲撃しようとしたから、先手を打った(意訳)」と維新後の聞き取り調査に答えていた。
同じ頃、周布政之助が前途に絶望して自刃していた。
それまで攘夷を指導していた前田孫右衛門らは10月6日に失脚、武備恭順から天皇に対して謝罪恭順へ舵を切り、椋梨らが10月24日までに毛利家の実権を握る。
その頃、高杉は妻が妊娠中で10月5日に待望の長男を出産し、それに立ち合っていた。今でいう産休のハシリである。
産後の経過を見た後、産休を切り上げて10月24日深夜に出奔。翌日、湯田町高田村にある井上馨の自宅を訪ね、見舞う。27日に奇兵隊の屯所を訪問。惣督・赤禰武人が体調不良で療養中のため。山縣有朋と相談するも不調に終わる。高杉は谷梅之助と名前を改め、馬関経由で博多を訪ね、筑前福岡黒田家(禄高52万石)の尊攘派と連絡を取り、九州各地の尊攘派を糾合して長州の実権を取り戻そうと試みたが、不調に終わる。
高杉は山荘を管理する野村望東尼のところに潜伏したが、11月14日宛で甥の百合三郎に「脱走したのは身の危険を感じたからだ。オレを捕まえるのは殿様を騙る悪者の命令だ。勅命も偽物。
具体的な場所は教えられないが、両親の事は忘れてないし、妻には息子を立派な武士に育てて欲しい(意訳)」と手紙を記している。
高杉が身の危険を感じたのは正解だった。
椋梨派が作成した「切腹者リスト」の中に高杉の名前が記されており、罪状は「奇兵隊を煽り、幕府の使節団を殺害するなど、不義不忠の輩である(意訳)」とあり、要は朝陽丸事件の首謀者にされたのである。高杉にとっては不本意であるが…
長州征伐は征討軍15万を揃えた幕府が11月18日総攻撃予定とした。毛利家では三家老を11月11、12日に切腹、四参謀は12日に打ち首、椋梨派による謝罪を確認した幕府の征討軍は12月27日に解兵し、第一次長州征伐は終了。この後、八重臣が12月19日に清水以外を打ち首に、25日に清水を切腹させるという一幕がある。
高杉は博多から11月25日馬関に現れ、三家老、四参謀の死を聞いて愕然とし、分家筋の長府毛利家の菩提寺・功山寺に潜伏している三条実美らを連れてアメリカに亡命しようと誘ったのだが、三条に断られた。逆に失地回復せんかいと発破をかけられた。この時、御盾隊の指揮官で松蔭門下生の天野御民が高杉と接触。長州内部の実情を知る事が出来た。
天野は赤禰武人、山縣有朋、時山直八ら奇兵隊の幹部連中が萩の椋梨派と会合を重ねて、獄中にいる上記の八重臣を助ける代わりに椋梨派から提案を受け、それを受け入れるのではないか?と危惧している。他の諸隊はそれを聞いて動揺しており、指揮官の中には武装蜂起して椋梨派を打倒し権力を握るべきだ!と騒ぐ人たちがいると高杉に伝えた。
高杉は天野の話を聞いて12月12日、長府にある御盾隊の駐屯地を訪れる。御盾隊惣督・太田市之進(後に御堀耕助と改名)や遊撃隊軍監・高橋熊太郎らとクーデターの相談を行う。そこに赤禰武人が訪れて、高杉らにクーデター反対を訴え、幕府との妥協を提案。高杉が「無礼な事をいうな!!分をわきまえないといかんよ。赤禰はたかが百姓だ!!百姓が毛利家譜代の家臣であるオレと対等に話す根拠などない!!(意訳)」と罵り、更に「これから萩を奪いとるぞ、者どもオレに続け!!(意訳)」と吠えるように叫んだと天野は記すが、誰も賛同しなかったので、高杉は失望し、その場を去る。
赤禰はなおも高杉を説得しようと奇兵隊名義で三条実美にお願いして高杉を呼び、三条に高杉を説得させた。高杉は話を聞いたフリをしてその場を去り、馬関の伊藤博文を頼る。
馬関に来た高杉は伊藤、前原一誠ら50人を引き連れて12月15日の深夜、長府の功山寺にいる三条実美らを訪ね、高杉が「
我々は馬関を取って根拠地とし、椋梨派と戦う。今は力こそ正義だ!!(意訳)」と伝え、馬関へ向かったと護衛の土方久元は記している。三条らは失地回復しろと発破をかけたが、まさか本当に武装蜂起するとは思ってなかったらしく、三条と一緒にいた三条西季知、東久世通禧が15日付の日記に
「オイオイオイ、高杉死ぬわ(意訳)と記載している。
高杉は12月16日、馬関の新地会所で武装蜂起。大義名分を記した檄文を各地の高札場に貼り付ける。それによれば「
殿様はご先祖様の遺志を継ぎ、正義を貫こうとしているが、俗物どもがその場しのぎで帝に頭を下げ、幕府に媚び、正義の武士を虐殺、敵を領内に迎え入れ、長州を売り渡そうとしている。我々が俗物を退治し正義を回復して、領民を安堵させるのだ!!(意訳)」と記している。
翌年1月2日、赤禰が長州を出奔。3月10日付の養母宛の手紙で「高杉が蜂起して、椋梨がキレて八重臣を皆殺しにした。全て水の泡だ。薩摩の西郷隆盛に助力を頼む(意訳)」と記し、大坂に向かうも不調に終わる。この後、内戦回避を諦めきれない赤禰は幕府の密偵として新選組の近藤勇と共に長州に潜入しようとする。
高杉と椋梨の戦いは翌年1月6日、太田・絵堂の戦いで転換点を迎える。この戦いで勝利をおさめた高杉は同月16日までに椋梨派を萩に追いやり、長州各地を占拠し、萩を包囲する形になった。高杉も椋梨も自身を「正義派」と自称し、相手を「俗論派」と酷評し、民衆に「正義は我にあり」と訴えていた。高杉たちに勢いがあるとみると、民衆は高杉たちを支持する様になる。
更に椋梨派が八重臣を処刑した事で高杉たちは椋梨派と妥協出来ないと背水の陣で臨む覚悟を決めた。加えて椋梨派はイザとなれば殿様親子を前面に出せば、高杉や井上馨あたりは世子の贔屓で出世した人物である為、矛先が鈍ると読んで、軍事面での動きが芳しくなかった。
実際、世子が椋梨派と共に出陣するという話を聞いた井上馨は世子をお諌めする為に割腹自殺をすると豪語。赤禰が脱走した後、奇兵隊を率いて高杉に味方した山縣有朋は「井上さんは大げさだ。こんなの、ご先祖様の名前が書かれた札を世子に見せて、これに弓引くのか?と問いただせば良い。オレにはタダの紙切れだが、世子には霊験あらたかなご先祖様の魂が見えて攻撃出来ない(意訳)」と儒学的な価値観に絡めて、親不孝者と罵られたくないなら、オレたちに味方しろ、と解決案を提示。
高杉か井上馨に宛てた書簡で「力こそ正義。忠義の理由など後付けでいくらでも作れる(意訳)」と井上馨を元気づけた。
1月11日付で毛利家より高杉は廃嫡されて再び「育み」扱いとされる。
1月15日には萩城下にいる中立を標榜する家臣200人が鎮静会を名乗り、高杉と椋梨の内ゲバを仲裁しようと殿様親子と対談。その間、高杉、椋梨共に活動は控えた。28日に高杉らの要望が通り、殿様の命令で椋梨派が失脚していくのだが、椋梨派は2月11日に鎮静会を襲撃し、壊滅させた。生き残りの鎮静会メンバーが高杉に助けを求め、14、15両日に高杉らは萩城下を占領し、殿様親子の身柄を確保し、権力を奪取、殿様名義で秩序の回復を訴えた。椋梨派は海路、萩城下から脱出した。
生き残りの鎮静会は3月15日に干城隊と名前を改め、今や長州暫定政権の主・高杉を支える与党になった。高杉を支えていた奇兵隊ら諸隊は政権交代に功績ありと自己主張が強く、高杉の話を全く聞かなかった。高杉は諸隊をクーデターで使ったのは苦し紛れの一手で、役目が終われば大人しくしろ!!と権力から遠ざけたのだが、それが諸隊には不満だった。高杉は諸隊に対して「外敵の侵略に備えて訓練してろ(意訳)」と命令した。
更に高杉はこの後、回復私議と題する檄文を記し、「内政を整え、長州を富まし、軍備を刷新すれば天下に怖いモノなし(意訳)」と高杉政権の方針を伝える。加えてイギリスに行きたいとか、馬関は開港して外人を招いて貿易を盛んにしようなどと口にしていたら、政治に参加出来ず不満を抱く諸隊、毛利家内部の攘夷派、清末、長府など毛利家の分家筋と大喧嘩、高杉包囲網を敷かれ刺客を差し向けられるハメになる。毛利本家も馬関開港を中止。居場所がなくなった高杉は政権の座を捨てて四国に出奔した。井上馨にも刺客が差し向けられ、九州別府に潜伏。伊藤博文も朝鮮に亡命しようとしたが、タイミングが合わず、馬関に潜伏していた。高杉はこの逃避行でおうのという女性を共にして旅をしていたとある。
馬関裏町堺屋の芸妓で源氏名は此の糸。明治になってから作られた戸籍には天保14年(1843)2月2日生まれとある。
大半の高杉伝記ではこの四国逃避行が初登場となるが、どこで出会ったのかはよく分からない。高杉は萩に戻ると両親や妻におうのを紹介し、「敵の目をくらます為に必要不可欠なんだ(意訳)」と説明していた。
先の話をすると、高杉家との関係は良好で、妻・マサとも仲良しで交流があり、高杉の死後、仏門に入り、墓守をしていた事、山縣有朋などが中心になり生活費を援助していた事、自身も三味線や踊りの指導をして生計をたてていたといわれて、生活費に苦労したという話はない。仏門に入ってからは梅処と名乗っている。
明治42年(1909)8月7日死去。
薩長同盟と長州征伐
さて、高杉や井上馨がトンズラしていた頃、長州では内政の刷新が行われていた。それまでの行相府や国相府を改めて最高意思決定機関として政事堂を定めた。毛利家の方針は家老全員の合議を経て、殿様が認可して決定。首席家老は山田宇右衛門。
これまで政務座が行なっていた仕事は家老の下に一般政務を担当する用所役、情報収集および旅費管理を司る遠近方と改められ、民政・財政担当の蔵元役はそのままとなった。
用所役、蔵元役は大組から各10人程が選ばれた。各筆頭は手元役と呼ばれた。用所役、蔵元役に、殿様側近の目付衆が加わった30人弱の集団が毛利家の実務を行う。彼ら実務官僚の意見をまとめるのが用談役である。用談役が家老に伝えて同意を得て、毛利家は動いた。更に本拠地を山口においた。
5月になり、広沢真臣が用所役に就任、同月13日には桂小五郎が逃亡先の但馬から山口入りし、翌日殿様と謁見。そこで桂は「死んだふりをしてやり過ごします。その間に人心を一新し、民政・軍制をフルモデルチェンジして、時間を稼ぎます(意訳)」と述べた。同月27日、桂は用談役心得として実務官僚の頂点に立つ。
桂は薩長同盟を志向し、薩摩側も同盟を志向するなど両想いなのだが、タイミングが合わないのか、すれ違いなやり取りが続く。
長州は軍備刷新の為、新型兵器を欲しがったが、徳川幕府に明確に敵対したので、安政の五か国条約で定められた正規の政府(=徳川幕府)以外への販売禁止に抵触し、直接長崎や横浜で武器の購入が禁止されていた。
薩摩は明確に徳川幕府と敵対する関係をこの段階では見せなかったので、長崎や横浜で堂々と武器を購入していた。
長州からしたら薩摩の要領の良さに腹を立てながらも、薩摩が買った分を横流ししろ!という感じかもしれない。桂は当時、長州に来ていた坂本竜馬や中岡慎太郎に接触して薩摩の名義を借りる事は出来ないか?と依頼し、閏5月25日に2人は京都に向かう。
それと入れ違いに高杉が四国逃避行の旅から戻って来た。高杉はこの旅の感想として「人間、強い奴を見たら怯えたり裏切るのが当たり前なんだ(意訳)」と記している。また、6月16日太田市之進宛、7月30日山縣有朋宛の手紙で体調不良をしばしば訴えるようになったと記した。
7月半ばに三条実美の護衛を務めている楠本誠一郎が京都からの情報収集の帰りに馬関に寄り、高杉と面会し、情報交換をしている。高杉は面会の内容を桂に手紙で送り、桂は7月13日に逃避行から戻って来た井上馨、伊藤博文を楠本に同行させ、長崎に出張させた。
途中、太宰府で三条実美らに挨拶した後、7月21日長崎に赴き、薩摩島津家の重臣・
小松帯刀と面会。長崎でイギリス商人のトーマス・グラバーから小松名義でミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結ぶ。井上は小松と一緒に鹿児島まで行き、家老・
桂久武や
大久保利通らと薩長同盟の推進、国内統一、万国対峙などについて話し合った。
長州の長崎における活動は全て幕府に網羅されていた。江戸にいる老中・阿部正外(陸奥白河10万石)と本庄宗秀(丹後宮津7万石)が元治2年(1865)から京都に成立した孝明天皇と一会桑権力を解体しようと政治工作を試みるが挫折。
京都から戻った阿部正外が同僚の松前崇広・水野忠精(出羽山形5万石)らとともに4月に上洛反対派の老中を失脚させ、将軍・家茂を担いで5月16日に3度目の上洛を実施した。
現地の征伐軍総督・徳川慶勝や薩摩から派遣された征伐軍参謀・西郷隆盛らが椋梨政権と交渉して昨年12月27日に解兵された長州征伐の結果に不満なのである。その後の高杉による武装蜂起と高杉政権に納得出来ない江戸の幕閣は長州再征伐を実施。慶応元年(1865)閏5月22日、将軍・家茂は二条城に入る。
幕府は長州と交渉のテーブルにつくように命令するが、長州は無視。
9月16日、これを踏まえて幕府は家茂自ら京都に赴き、同21日に長州征伐の勅命を拝領。どんな形で終戦するのか考えてから戦争してね、という条件付きだった。
家茂が京都に赴いた同じ日、欧米列強の外交団と艦隊が大坂に現れ、兵庫開港・大坂開市を要求した。本来なら横浜と同じ頃に開港するのが、未だに行われていないのは条約違反だ!!として圧力をかけた。同23日、家茂が京都から戻り、先に外交団と交渉している老中の阿部正外・松前崇弘から「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られねば、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と最後通牒を突き付けられたと報告を受け、25日無勅許で開港を許すことに決めた。
翌日、一橋慶喜が京都から下坂し、家茂ら幕閣に無勅許はヤバいってと忠告して、再度、外交団との交渉を勧めたが、阿部・松前は「外国嫌いの天皇に交渉出来るんか?開港を世界に約束したんだから、やるしかないの。(意訳)」と自説を譲らなかった。家茂が場の緊張感に呑まれ泣きだしたという。
勅許を得るため外国との交渉延期を主張した慶喜の意見が通り、孝明天皇は阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、9月29日、両老中は解任された。
家茂は10月1日に両名を老中職から外し、官位召し上げ、国元で謹慎処分にした。家茂はこの露骨な天皇の幕政干渉に異議を唱え、孝明天皇や一会桑に将軍辞意を伝えた。10月4日、一会桑は家茂を説得して辞表を撤回させたが、義弟の怒りに驚いた孝明天皇は以後の幕政干渉はしないと誓ったという。
10月7日、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した。開港日は当初の通り慶応3年(1867)12月7日であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利といえたが、後日、国内問題の火種となる。外交団はこの結果に満足して大坂を去っていった。
この事件、長州征伐をゴリ押しした老中2人が辞職し、誰が長州征伐を推進するのかが、不透明になった。元治元年(1864)6月18日に老中を罷免された板倉勝静(備中松山5万石)と上記のクーデターに失敗して老中を辞めていた小笠原長行が老中に返り咲き、彼らが長州征伐を進めていく。
先に幕府側の動きを記すと長州に無視されている間に幕府内部では長州処分が話し合われ、最終的に松平容保が「天皇の住まいに直接砲弾ぶち込んだ奴は死罪、領地召し上げ」を実施したら落とし所が無くなるので、殿様親子の命を助ける代わりに、謹慎させ、周防一国を没収する線で事態を収めるのが一番であると主張し、幕府の方針をまとめた。
まず大目付・永井尚志が広島に赴き、長州側の代表と対談する事になった。対談の結果、長州が条件を受け入れれば終戦。そうでなければ戦争である。戦争準備に時間が欲しい長州は理由を付けて時間を引き延ばす。幕府も手の内を理解しているが、条件を伝えない事には話し合いにならないので、来るのをひたすら待つのみである。
そこで長州に潜入して内情を知る必要がある、という理由で新選組の近藤や赤禰らが永井の従者名義で広島に行くのである。
しかし、広島で永井とともに交渉のテーブルに付いた際、近藤は近藤内蔵之助の変名を用いたが即バレし、入国を拒否された。手を変え品を変えてもダメで、更に岩国まで出かけても入国拒否され、京都へ12月22日に戻り、松平容保に「高杉晋作と申す者、谷潜蔵と名前を変えており、この者が長防二州の権力を握り、二州の国民を死に物狂いに奮い立たせて、必死の勢いを作っている(意訳)」と報告している。永井も同日、容保に報告している。
赤禰は近藤達と同行するも、途中で分かれて長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認定された赤禰の言は全く受け入れられなかった。12月27日に捕縛され、翌年1月25日処刑された。
少し戻すと長州側は閏5月25日の会議でと幕府の提案は
「会津の罠だ」と断定、妥協はしないと決した。
高杉との権力闘争に敗れて捕まり、身柄を確保していた椋梨藤太を閏5月28日に処刑。同日、軍備の西洋化を宣言。内容は
大村益次郎の項目を参照。殿様から権限を託された桂小五郎が「椋梨に味方したモノ、味方しようとしたモノ、椋梨と仲が良かったモノ、二股をかけたモノ、殿様を誹謗中傷したモノ」を片っぱしから処罰し、内部を引き締めた。
高杉は9月13日、世子に招かれて山口で意見を述べ「長州征伐は厳島の戦いに匹敵する。弱気を見せたらすぐさま味方は臆病風に吹かれる。そうしない為に、上層部が戦う顔を見せろ!!(意訳)」と励ました、とある。ここから9月26日、高杉は用所役に起用され、育の扱いを外された。同日、毛利家はさらに高杉と桂小五郎に改名を命じ、高杉は「谷潜蔵」、桂は「木戸貫治」としている。高杉は朝陽丸事件で使節団一行へ殺傷指示(これは濡れ衣なのだが…)、桂は禁門の変に至るまでの尊攘派としての活動が幕府から睨まれており、それをごまかすためだった。
10月12日、高杉と伊藤博文は馬関に立ち寄ったイギリス公使ハリー・パークスを訪ね、イギリス公使館の協力で薩摩名義で武器を購入出来るのはありがたいと礼を述べた。
高杉はこの頃、2つの案件に携わっている。
1つ目は馬関で商売を営む白石正一郎の救済。
2つ目はユニオン号と呼ばれる蒸気船の処遇。
白石は文化9年(1812)に馬関の商人・
白石卯平衛・艶子夫婦の長男に生まれた。
先祖代々の屋号は「
小倉屋」としていたが、白石家は17世紀後半に豊前小倉から馬関に移り住み、「荷受問屋」として清末毛利家の御用を務めていた。後発の商人である「小倉屋」は独自のビジネスチャンスを求めてアンテナを張り巡らし、遂に安政4年(1857)11月、薩摩の西郷隆盛に接触して、薩摩から藍玉を仕入れ、長州に売り込む薩長交易の斡旋を依頼し、西郷から信頼を得て準備を進めた。しかしこの事業はライバルの
中野半左衛門に横取りされ、穴埋めで行った薩摩・備中交易が失敗し、損害を出した。文久元年(1861)9月、薩摩御用達にしてもらい、翌年4月の島津久光の率兵上京の際には兵粮米買い入れに奔走した。
国学を好む文化人だった白石は薩摩をはじめとする各地の志士たちに情報通の文化人として重宝がられ、
大久保利通、
森山新蔵、
平野国臣、
吉村虎太郎らの来訪を受けた。しかし、事業家としての手腕はイマイチで、薩摩とのコメ取引でも赤字を出して窮地に陥り、ツテを頼りに長州毛利家から1500両を借りて何とか凌いだ。
慶応元年(1865)8月7日宛の桂への手紙で、馬関に赴き、白石と面会したが、1500両の借り入れ金は返せない、と泣きつかれた。高杉も奇兵隊創設時に金を借りた事があり、馬関を根拠地とする際、白石が積極的な協力者として手を差し伸べ、奇兵隊を支えてくれた手前、救済案として毛利家が白石の屋敷を買い上げ、事業の元手を与えて欲しいと提案した。更に白石の「小倉屋」には一説には400人が宿代わりに利用したり、白石から金を無心したと言われている。自身も次弟の廉作とともに奇兵隊に入隊し、高杉から奇兵隊の会計方を任されたり、文久3年(1863)7月5日に毛利家の士分に取り立てられた。
先に結論を言うと救済案は軌道に乗らず、高杉が死去し、後ろ盾を失った白石は没落に歯止めがかからず、維新後、商売を畳み、赤間神宮の2代目宮司となり、明治13年(1880)に死去。
明治24年(1891)、正五位を追贈された。
長州が薩摩名義を使い長崎でグラバーからイギリス製のユニオン号(木製蒸気船・排水量300トン)を5万両で購入した。薩摩側の代理人集団・「
社中」の
近藤長次郎がグラバーとの取り引きをまとめたとある。
11月8日、ユニオン号に乗り馬関に来た近藤長次郎に面会したのは高杉と伊藤博文である。
「毛利家の船として使わせろ!!(意訳)」と主張する高杉に対して、近藤が「契約に基づき運用代金をお支払いいただけないのでしたら、この船をお渡しすることはできません(意訳)」と突っぱねた。
高杉は知らされてなかったが、ユニオン号は井上馨と近藤が薩摩側と活用を決めており、ざっくり言えば、日常は薩摩や社中が使い、有事になったら長州に渡す、船の維持費用は長州持ちというシェアリングなのだ。高杉は長州がずっと使えると思い込んでいたので、両者が対立することとなった。12月3日に坂本龍馬が薩摩の五代友厚と共に馬関に行き、広沢真臣と薩長による協調営業に関する協約を結んだ。合わせてユニオン号問題も坂本が仲裁にあたるのだが、高杉は首を横に振るばかりで事態は難航した。
その間、高杉と坂本は酒を酌み交わして仲良しになり、一緒に年を越したり友情の印にと高杉から坂本にピストルと弾丸が手渡された。どこで購入したピストルかはハッキリしないが…
慶応2年(1866)1月23日、坂本が伏見の寺田屋で幕府の捕り方と格闘した際、高杉のピストルが役に立ったと2月6日宛の木戸への手紙に記している。
ユニオン号は最終的に慶応元年(1865)12月25日に所有者は長州、日常は社中が使う、船の維持費用は薩摩持ちという形に収まった。船名も
乙丑丸となり、長崎に回航された。
この問題の中心人物である近藤は慶応2年(1866)1月14日、長崎で自刃している。薩摩の資金援助でイギリスに留学しようとしているのを社中の仲間うちから批判されたから、だと言われている。
慶応2年(1866)1月21日、京都において薩長同盟が締結。
高杉は白石とユニオン号問題に目処がつくと、毛利家から馬関を中心に勤務したいと申し出て許可を貰い、家族に萩から馬関に移るように沙汰した。萩より馬関の方が情報が集めやすいからである。白石の件もあったかも知れない…
長州征伐では幕府の老中・小笠原長行が慶応2年(1866)2月7日、配下を引き連れ広島で長州処分を作成し、それを長州に伝えて、長州が認めたら終戦なのだが、当然、長州は受け入れない。交渉するする詐欺で時間を引き延ばす。
この間、高杉は妻と愛人の板挟みになるのがイヤで薩摩に出張したいと木戸に申し出て、木戸も「尻ぬぐいはオレに任せろ!お前は仕事しろ!!(意訳)」と高杉に返している。結局、薩摩出張はキャンセルになり、白石や友人たちの気遣いで妻・マサと愛人・おうの同席の酒宴が開かれ、困惑する高杉の表情を酒の肴にしながら、友人たちは酒宴を楽しんだ。
高杉は板挟みを嫌い、仕事に没頭すると称して海外渡航を目論み、伊藤博文に同行を求めると話にノッてくれたので、伊藤は井上馨に話を打ち明けた。
高杉は3月13日に木戸に宛てた書簡で「海外に行きます。探さないで下さい。詳細は井上馨に聞いて(意訳)」と記し、21日には高杉と伊藤はグラバーの手引きで馬関から長崎に移動。
木戸は阻止しようと馬関に駆けつけたが、間に合わなかった。長州を出立する際、井上馨が上手く金を工面して高杉に千両、伊藤に500両を用立てたが、28日付けで木戸、井上に宛てた書簡では「金くれ!!おうのの面倒もヨロシク!!(意訳)」と記している。
井上には別件で手紙を記し、海外に行ったフリをして長崎のイギリス公使館員・ラウダのもとに潜伏して情報収集をする、細かい話もあるから、長崎に来て欲しい、おうのの面倒を頼むとある。
4月8日、伊藤が長州に戻り、毛利家に対してイギリスにいる留学生へ資金援助と自身と高杉の渡航費を求め、2人に1500両の支給が認められた。この時、高杉は4月5日付でおうの宛の手紙を伊藤に託している。内容としては「色々言われると思うが大っぴらに出来ない関係なので辛抱が肝要。生活費は定期的に10両送る。身体はいたわってね(意訳)」とある。
同じ頃マサにも手紙を記し、こちらは直接高杉から送っている。内容としては「おうのと同席の酒宴を催してゴメンナサイ。アナタの面子を潰している事は百も承知です。息子や両親の面倒を観てくれているアナタは私にもったいない妻です。アナタの好きな着物を何着でも買ってきます。これで赦して下さい。私を見捨てないで(意訳)」とある。
共通しているのは長崎の写真家・上野彦馬に撮影させた写真を同封していること。高杉的に遺影写真のつもりで送ったのではないか?と後世、言われている。
長州では4月10日に第二奇兵隊の指揮官・
立石孫一郎が幕府の倉敷代官所、同月13日には
京都見廻組・京都見廻役で備中浅尾を治める
蒔田広孝(禄高1万石)の陣屋を襲撃。「
倉敷浅尾騒動」と後世呼ばれた。すぐ
長州が自ら脱走者の長を討伐するというハプニングである。
長崎で情報収集をする高杉は長州征伐が近くなって来たと考えて、長州に戻る事にした。
この時、グラバーから小さい蒸気船あるけど、買わない?と持ちかけられると、高杉は独断で購入契約を結んだ。イギリス製のテントウ号(鉄製蒸気船・排水量94トン、30馬力)で武装も後装式アームストロング砲が3門備えられており、これが高杉の心を鷲掴みにした。
4月29日夜、馬関にグラバーやテントウ号と来航した高杉は翌日、使者を派遣して購入を知らせる手紙を山口の政事堂に送る。続いて5月2日に山田宇右衛門、木戸孝允、広沢真臣ら政事堂の要人宛に手紙を記し「もう幕府と開戦だと思って蒸気船買った。グラバーに支払いお願い(意訳)」とある。
前日、広島にいる小笠原長行から長州処分として松平容保案とも言うべき10万石削封、殿様親子隠居などが伝えられ、5月20日までに請書を提出するように命じた。この処分を聞いた長州側では受け入れる訳には行かない、徹底抗戦だ!!と5月3日付で高杉に宛てた山田宇右衛門、木戸孝允、広沢真臣の3者による手紙に記されており、更に蒸気船の購入は認める。船の責任者に高杉を充てるとある。
5月4日にはグラバーに船の代金36205両2分が支払われ、長崎に戻って行った。最終的に船の名前は丙寅丸と命名。
長州側では陸軍は大村益次郎によりフルモデルチェンジされたが、海軍は丙辰丸(木製帆船)、庚申丸(木製帆船)、癸亥丸(木製帆船)、乙丑丸(木製蒸気船)の4隻と前回の攘夷戦争より海軍力は落ちており、高杉がどさくさ紛れに購入した丙寅丸は貴重な戦力となった。
この頃、高杉は情報収集で金を使い過ぎたのか、毛利家の蔵元役から公金使い込み疑惑を持たれてしまい、まずは1500両を返金して欲しいと催促された。高杉は井上馨にとりなしを頼み、井上が高杉に返金の意思はあるとしても、今はその時ではない、と蔵元役を説得したのだが、最終的に高杉が死去し、この1500両は返金されなかった。後世から高杉が1500両着服した、とか井上が高杉名義で丙寅丸の購入代金と合わせて会計処理をしたとか言われている。
他にも、周りがフグ鍋を食べている時でも、高杉と山縣有朋は鯛鍋を食べてフグの毒で食中毒になりたくないと公言するなど、一定の用心深さを兼ね備えた逸話をこの頃、残している。
長州の交渉するする詐欺にしびれを切らした幕府は5月9日、広島に出頭している殿様親子名代の宍戸備後助、楫取素彦を不審の廉ありとして安芸広島浅野家(禄高42万6千石)の手で逮捕、拘禁した。また、最後通牒として5月29日までに長州が処分を受け入れない場合、6月5日を期して一斉に進軍を開始する旨を通達した。加えて世子、高杉、木戸、広沢、前原、御堀ら12名に出頭を命じたが、毛利家は脱走、行方不明、既に死去など適当な報告をしている。高杉は「妻子を捨てて脱走中(意訳)」とある。長州側は幕府に陳述書を提出してはいるが、幕府は交渉するする詐欺と見なして5月29日長州に返却、互いに平和的解決を放棄した。
5月24日、イギリス公使パークスが横浜から鹿児島に赴く途中で馬関に立ち寄り、高杉と伊藤がパークスを訪問。高杉は公使との会見を殿様は望んでいるが、戦争準備で忙しいのでかなわないことを伝え、公使が鹿児島から戻る途中で馬関に立ち寄るなら、こちらは必ず公使を歓迎すると述べた。その後、パークスは鹿児島に5日滞在し、島津久光や西郷隆盛らと会談している。
高杉は5月27日、山口の政事堂から呼び出されて海軍御用掛、6月6日には海軍総督に任命された。これは長州の実権を握っていた木戸が政治主導で軍に介入する事に対して海軍が反発するので、木戸と仲良しで殿様のお気に入りである高杉をパイプ役にして反発を緩和させる役割が期待された。高杉も意図を理解しているので、6月7日前原一誠宛の手紙に「海軍を陸軍の上において、陸軍の暴走を抑え、秩序を再構築する(意訳)」とある。
孝明天皇や徳川幕府は謝罪と反省が足りないと、同年6月7日、第二次長州征伐を敢行した。
大島口、芸州口、石州口、小倉口の4方面で徳川幕府の征討軍と対峙。
大島口は最初、幕府海軍と伊予松山松平家(禄高15万石)や幕府陸軍が大島を上陸、占領した。報告を受けた毛利家は大村益次郎が当初、戦力不足から大島を放棄する提案をしたが、これを認めると民衆が毛利家に失望すると判断した山田宇右衛門や木戸孝允が高杉が率いる長州海軍と
世良修蔵率いる長州陸軍に奪還を指示。高杉が7月14日夜、丙寅丸単独で幕府海軍3隻に奇襲を仕掛けて混乱させ、その間に別ルートから小舟で世良たちが翌日夜明け前に上陸、激戦の末、7月18日、島を奪還した。
芸州口は安芸広島浅野家が不参加を決めたので、先鋒の近江彦根井伊家(25万石)と越後高田榊原家(15万石)の
徳川四天王の二家が6月13日に攻め込んだが、
勝海舟が言う
「紙くず拾いみたいな恰好でサルみたいにすばしっこく動く」
長州軍の動きに対応不能、大惨敗を喫した。
この後、幕府は洋式歩兵を投入し、戦線は膠着した。
石州口は石見津和野亀井家(禄高4万3千石)と交渉がまとまり、無傷で通過、長州軍が石見浜田松平家(禄高5万1千石)に侵攻、7月18日に浜田城を攻め落とした。当時、勃発した世直し一気を鎮圧して石見銀山を占領し、代官所を本拠に軍政を布く。
小倉口は関門海峡の制海権を幕府海軍が掌握していたが、信号艦(旗艦)の富士山が応戦中、主砲が暴発して、他の大砲にも不具合がないか調べる為に応戦不能、ただの輸送艦に成り下がり後退、制海権を取った長州軍が赤坂海岸に上陸、激戦の末、小倉小笠原家の小倉城を8月2日に攻め落とした。高杉は大島口から7月29日付で馬関口海陸軍参謀に任ぜられ、奇兵隊惣督の山内梅三郎が馬関口海陸軍総指揮に任ぜられた。山内は家柄で選ばれた17歳の好青年でお飾りのため、実質的に高杉が仕切っていた。
8月2日に小倉城を占領した長州軍。敵対した小倉小笠原家の軍備は攘夷戦争当時の長州軍そのものである。いわば、新旧長州軍対決である。文久3年(1863)に、海防強化のため関門海峡沿岸に葛葉台場・東浜台場・西浜台場などの砲台を建設し、農兵の募集・訓練も開始し、慶応元年(1865)には蒸気船・飛龍丸を購入する。
山口の政事堂にいる木戸孝允や前原一誠らは
「小倉はフルボッコにしろ。しかし、他の大名は手加減しろ。やり過ぎると長州が支持されなくなる。小倉城下は焼いても民衆の家は焼くな(意訳)」
と高杉に指示を出したが、高杉が無視。多くの民家を灰にした。当時、戦況視察で馬関を訪問したフランス駐日公使のレオン・ロッシュが高杉らの行為を船の上から見た後に木戸と会見し、「また、懲らしめて欲しいのですか?(意訳)」と発言。木戸はひたすら陳謝したと言われている。
小倉城下を占領した高杉は「領地が広がったぞ、ヤったネ(意訳)」と公言していた。
長州軍は欧米列強や幕府との取り決めを破り彦島に砲台を構築し、そこから関門海峡を航行するイギリス軍艦を攻撃した。8月13日、イギリス軍艦が馬関に停泊、艦長自ら「お仕置きがたりないようですね?(意訳)」と抗議してきたので、小倉から高杉が戻り、山口から来た前原一誠と一緒に部下の不手際を謝罪し、再発防止を約束した。
小倉小笠原家は城を放棄した後、20kmくらい南に位置する香春(今の福岡県田川郡香春町
に本拠地を構築、ゲリラ戦で長州軍に対抗した。
これに対して山口の政事堂から総督の山内に「諸大名から小倉での長州はやり過ぎと批判された、深追い禁止(意訳)」と指示を出した。8月21日には14代将軍・
徳川家茂が亡くなったのを理由に休戦、占領地からの撤退を命じる勅令が発布され、9月に入ると長州側の広沢真臣と幕府側の勝海舟による停戦交渉が安芸宮島で行われた。
しかし、現地の長州軍は天皇も殿様も眼中にないかの様に、小倉軍と激戦を繰り広げていた。
激務が祟ったのか、このあたりから高杉の体調不良が明らかになる。7月22日に白石正一郎が日記に高杉発病と記し、翌日に奇兵隊から見舞いの鯉が届けられたとあり、少し持ち直した。この後、9月29日付けで高杉が井上馨に宛てた手紙では「戦争で忙しくて、肺を病んでしまい、40日くらい苦しんでる(意訳)」と肺結核を打ち明けている。10月2日、23日付けで木戸孝允に宛てた手紙にも肺結核を打ち明けている。
高杉は体調不良をおして軍の指揮を採り続けたが、長州軍、特に奇兵隊は高杉の言う事を聞き流していた。小倉城下で奪った略奪品が神社に奉納されたり、懐にいれたヤツや懐に入れて骨董品屋で換金したヤツもいた。山縣有朋が見せしめに戦利品を提出させて焼却したが、指揮官の1人・三浦梧楼がいうには、話半分で聞き流していたとある。奇兵隊創設時から今まで、毛利家から奇兵隊ら諸隊に充分な恩賞が与えられず、諸隊の面々は自分へのご褒美と称して略奪を正当化していた。
10月12日、長州軍と小倉軍は講和談判を行う。
当初、長州側が小倉小笠原家当主・小笠原忠忱の身柄を人質として要求。ブチ切れた小倉側が土地は全てくれてやる。その代わり、当主と家臣団は熊本細川家に亡命する、と返答した。これでは長州が領土拡張戦争をしたと非難されるため、10月27日に長州側は人質の件を取り下げた。その後も中々決まらなかったが、慶応3年(1867)1月22日、止戦講和が成立。高杉は体調不良もあり、上記の井上馨宛書簡によれば、前原一誠が馬関口海陸軍参謀の職を高杉から引き継ぎ、彼から講和談判の報告を受けた。
小倉小笠原家は講和こそ成立したが、小倉城は返還されず、香春に本拠地を設けたが手狭であるため、明治元年(1868)11月に移転先を京都郡豊津に決定し、新庁舎の建設に着手した。
明治2年(1869)12月24日に香春から豊津に移転し豊津藩と名前を改め、廃藩置県を迎える。
長州征伐で徳川に義理は果たしたと言わんばかりに戊辰戦争では太政官側に参戦。6月に佐賀鍋島家の軍とともに陸奥仙台伊達家(禄高62万石)に捕らわれていた奥羽鎮撫総督・
九条道孝らの奪還に活躍。戦場では
酒井玄蕃指揮の庄内軍に敵わなかったが、庄内軍撤退後は、仙台伊達家や分家筋の陸奥一関田村家(禄高3万石)を相手に戦力を巧みに削り、したたかに損害を与えた。その戦いぶりは太政官に高く評価されて、華族制度と爵位が創設された際、伯爵に叙爵された。