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高杉晋作

登録日:2026/09/22 Tue 21:40:34
更新日:2026/10/15 Thu 15:02:36
所要時間:約 60 分で読めます




高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)(1839〜1867年)

通称は晋作、他には東一(とういち)、和助(わすけ)がある。
諱は春風(はるかぜ)。
字は暢夫(ちょうふ)。
号は東行(とうぎょう)、東行狂生(とうぎょうきょうせい)、西海一狂生(さいかいのいっきょうせい)、東洋一狂生(とうよういちきょうせい)、些々生(ささせい)、黙生(もくせい)、市隠生(しいんせい)、研海(けんかい)、楠樹小史(なんじゅしょうし)、赤間隠人(あかまかくしうど)がある。
別名は谷(たに)潜蔵(せんぞう)が一般的だが、他には谷梅之助(たにうめのすけ)、谷梅之進(たにうめのしん)、備後屋助一郎(びんごやすけいちろう)、備後屋三郎(びんごやさぶろう)、三谷和助(みたにわすけ)、祝部太郎(はふりべたろう)、宍戸刑馬(ししどぎょうま)、西浦松助(にしうらまつすけ)というのがある。



画像出典∶wikipedia「高杉晋作」より抜粋



概説

長州系維新志士を代表する人物。
行動力と決断力に定評がある反面、思い通りにならないと投げ出しがちな一面がある。
奇兵隊創設者として後世に名前が残る。
当時の長州毛利家を仕切る椋梨藤太(むくなしとうた)との権力闘争に勝ち、後世、この勝利から維新回天の始まりと呼ばれる様になる。


生涯

誕生

天保10年(1839)8月10日、長門国萩城下・長州毛利家(禄高36万9千石)家臣の高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)(禄高200石)、その妻・ミチとの間に長男として生まれる。

1男3女(タケ・ハエ・ミツ)の唯一の男子として期待された。

高杉家の出自は一説に戦国時代の備後高杉城主・祝部氏からくる説と安芸国高田郡西浦の高杉山からくる説と2つある。これは、高杉姓が城名ないし地名から、上記の高杉の変名で祝部が前者に由来し、西浦が後者に由来するからだが、高杉家ではどちらもありという形を採用。

高杉家は長州毛利家の中で大組(おおぐみ)と呼ばれる上級武士に所属する。父・小忠太の通称は嘉永3年(1850)12月29日に毛利家当主から授かったモノで近侍*1、小納戸役*2、奥番頭(おくばんとう)*3を務めた優秀な官僚である。父は文政11年(1828)7月に元服して晋作の通称を用い、天保5年(1834)頃に通称を小左衛門(しょうざえもん)に改め、更に小忠太と通称が変化している。
母・ミチは同じ家臣団の大西家(禄高380石)から嫁いでいるが、大西家の当主・将曹(しょうそう)は高杉家の上役である奥番頭筆頭を務めるエリート官僚である。高杉はその意味で生まれた時のガチャに恵まれていた。

子供の頃の逸話として親類の葬儀に父の名代で出席、葬式で出された御膳を平らげ、おかわりを要求し、持ち帰りの葬式饅頭もその場で平らげたり、城下で重罪人の斬首が行われた際、弁当を食べながら悠然と眺めていたとか、正月に家の正門で凧を挙げて遊んでいたら、来客者とぶつかり凧が壊れた。来客者の方が家柄が下なので土下座して凧を弁償しろ、と家柄をかさに着た傍若無人な振る舞いが見られた。

10歳の頃、天然痘に掛かり死にかけた。祖父・又兵衛(またべえ)が大坂の長州屋敷勤務でしばしば病気がちな事から大坂の蘭方医で私塾・適々斎塾を主宰する緒方洪庵(おがたこうあん)に診察を受けていた。高杉の天然痘を手紙で知ると緒方に相談し、緒方は長州に友人で蘭方医の青木周弼(あおきしゅうひつ)がいるから、彼に面倒を見てもらおうと、案内状を書いて長州に送った。書簡を貰った青木も既に父親の依頼で高杉の診察を行い、高杉家総出で看病の結果、一命は取り留めたが、顔に痘痕が残り「小豆餅」とあだ名された。祖父、父と蘭方医にコネがあることが幸いしたのだった。

話は前後するが高杉は7歳頃から毛利家の学問所である明倫館(めいりんかん)の小学に通学するようになる。15歳まで朝から晩まで儒学を勉強していた。15歳を超えると、大学と呼ばれる課程に進学した。
同時に明倫館で弓馬剣槍を学んだが一番出来が良かったのは12歳頃から始めた剣術で先の話になるが、万延元年(1860)4月、柳生新陰流の剣術師範・内藤作兵衛(ないとうさくべえ)から免許皆伝を授かった。

安政元年(1854)16歳の時、分家筋の徳山毛利家(禄高5万石)から長州毛利家当主・毛利敬親(もうりたかちか)の嗣養子に入った広封(ひろあつ)が江戸に出府し、そのお供に従った。広封の目的は十三代将軍・徳川家定に拝謁、毛利家嫡男と公認してもらう事だった。高杉がお供に入れたのは父のコネである。父は当時、広封の警護役を務めていた。次代の毛利家嫡男である広封に高杉をご学友として売り込みたい、あわよくば自分みたいなエリート官僚になって欲しいとする高杉家の事情と、家柄をかさに着て横柄な振る舞いが散見されるので、江戸で修行させて天狗の鼻を折らせて謙虚にさせたい、という2つの意図があった。
旅自体は1月15日に萩を出立、2月16日に江戸に到着。2月18日に広封は家定に謁見した。

この間に一大イベントが発生している。黒船来航である。

吉田松陰との出会いと別れ。

黒船来航は嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ合衆国・東インド艦隊司令長官のペリー率いる黒船4隻*4が江戸湾浦賀沖に来航。久里浜に上陸して日本との間に通商条約を締結したいという大統領の親書を手渡し、「来年返事を聞くよ、バイバイ!!(意訳)」と言って6月12日に浦賀沖から去った。
「聞きたいみたいだから、来たよ!!(意訳)」と安政元年(1854)1月17日、ペリー率いる黒船7隻からなる艦隊が浦賀沖に来航。
高杉はこの最中に江戸に来ていた。
3月3日にアメリカ合衆国と徳川幕府と間で日米和親条約が締結された。条約としては薪水給与令の延長線上にあたり、対外貿易は先の話にされている。
徳川幕府は対外政策に関して270の大名家からアンケートを取り、232の大名家から返信があった。9割が鎖国体制護持なのだが、黒船を目の当たりにして勝てないのは理解したので、先ず、海防強化を第一にし、黒船を動かせる人材の育成や海外事情の解析を優先させるため、長崎でオランダ海軍による海軍伝習と海外事情を分析する為に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)*5を開設。

こうした幕府の動きを遅いと判断して、アメリカ艦隊に潜入してアメリカに渡ろうと実行した奴がいた。その名は吉田松陰。安政元年(1854)3月27日、門人・金子重之助(かねこしげのすけ)と共に下田でアメリカ艦隊に潜入したが見つかり、追い出された。その後、自首、幕府により9月18日、国許蟄居の判決を受けて萩城下の野山獄に収監される。師匠の佐久間象山(さくまぞうざん)も連座して国許蟄居を言い渡される。吉田のアメリカ密航は佐久間の入れ知恵なのだが、吉田に佐久間への入門を勧め、紹介状を書いたのが高杉の叔父・田上宇兵太(たがみうへいた)である。祖父・又兵衛の弟で明倫館を優秀な成績で卒業し、江戸に出て伊東玄朴(いとうげんぼく)から蘭学を学び、毛利家で西洋書翻訳掛を務める傍ら、佐賀鍋島家(禄高35万7千石)当主・鍋島直正(なべしまなおまさ)に西洋砲術の翻訳書を提出している、現役バリバリの兵学者である。
吉田は当初、田上に弟子入りしようと江戸に来たのだが、田上は家庭の事情*6で萩に帰っていた。田上は学者仲間の佐久間に吉田の話をして、佐久間は吉田の世話を引き受けた。田上の置き手紙と佐久間から一連の流れを聞かされた吉田は嘉永4年(1851)5月27日付で叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)に宛てた手紙に事情を記している。

この頃、高杉は祖父の命令により帰郷を言い渡され、萩に戻っている。高杉家の当主は祖父の又兵衛で父・小忠太は後継ぎで殿様お気に入りのエリート官僚という立ち位置である。
又兵衛から小忠太に安政2年(1855)2月5日、家督が相続され、又兵衛は隠居となった。高杉は嫡男となった。
高杉は同年2月14日、明倫館の大学課程に復学し、儒学を勉強していくのだが、明倫館の雰囲気に馴染めないと不満を口にしていた。

上記の吉田松陰が野山獄から生家の杉家で謹慎となり、そこの一室を借りて講義をしていたのが松蔭の松下村塾の始まりである。
明倫館の授業に不満を抱いていた高杉が松蔭を訪ねたのは安政4年(1857)夏頃とある。

初めて松下村塾に入った際、高杉が畏敬の念を抱いたのは吉田稔麿(よしだとしまろ)である。高杉から見た吉田稔麿は「目が据わっている。やべぇオーラ出まくり!!(意訳)」な見た目だったが、稔麿から見た高杉は「目がイッちゃってる。やべぇよ、アイツ(意訳)」な奴だったと評している。
この後に久坂玄瑞(くさかげんずい)が入門し、入江九一(いりえくいち)と4人合わせて、「松下村塾の四天王」と呼ばれた。
周りの評判は、「久坂は周りの人間が近寄って久坂の為に働くよ、と自然と人が集まるが、高杉は乱暴で傲慢で尊大だった(意訳)」というのだった。その評判に心を痛めたのが松陰で、高杉を呼び出しては勉強しなさい、心を鍛えなさい、自分を偉く魅せても、人は付いて来ませんよ、と諭して、高杉の覚醒を促した。その甲斐あってか、久坂と高杉は松蔭門下の双璧、松蔭門下の龍虎と呼ばれるまでの逸材に成長した。
このやり取りは明治36年(1903)、小学校で使われる国定教科書の修身の教材に採用され、全国に広まった。内容は以下の通り。
『高杉はべんきょうしませんから、松蔭はつねに久坂をほめて高杉をいましめました。高杉はそれから、よくべんきょうして、がくもんがすすみました。松蔭は高杉をほめて、なにごとも高杉とそうだんするようになりました(意訳)』と高杉、久坂ともに切磋琢磨して互いに高め合う良き関係であった、と教科書は締めている。

もっとも、松下村塾が長州系維新志士の聖地として認定されたのは維新後の事。維新前は毛利家家臣団からDQNの巣窟、不良の溜まり場と後ろ指を指され、高杉も祖父が「エリートのお前があんな場所に通うな!!高杉家の恥だ。(意訳)」と邪魔をされて白昼堂々と松下村塾に通えなかったと松蔭に手紙で記している。*7
その後、久坂が引き継いだが塾生の多くが尊王攘夷運動に身を投じたため一旦途絶。
慶応2年(1866)に再開され、明治4年(1871)に玉木文之進が責任者となったが、明治9年(1876)の萩の乱で塾生の多数が首謀書・前原一誠(まえはらいっせい)*8に呼応して参加した為に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。
松蔭の兄・杉民治(すぎみんじ)が明治13年(1880)再興するも、年齢からくる健康状態の不安により、明治25年(1892)に閉鎖となる。
その後、生き残りの松下村塾門下生による思い出話により、松下村塾は長州系維新志士の聖地として美化されていく。

松下村塾に通ったのは1年程度で、その後、高杉に変化が起きる。
第一は毛利家内部で頭角を現したことである。
明倫館に在籍中の安政5年(1858)2月28日、高杉は成績優秀者28名に選ばれており、国許の重臣筆頭・益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)より成績優秀者に時勢への「対策」を述べよと諮問があり、そこで爪痕を残した。益田は明倫館時代に松蔭に学んだ事がある門下生で、高杉にとって兄弟子にあたる。
時勢というのは黒船2度目の来航後、安政3年(1856)7月に来日したアメリカ合衆国総領事・ハリスが翌年10月、通商条約の締結を求めて来たので、幕府は同年12月29日と安政5年(1858)4月25日に諸大名に諮問した。毛利家は12月の諮問に対して若い人の意見を参考にしようと国許が働きかけた。
高杉は諮問に対して
  • アメリカとの通商条約締結に反対。貿易を許せばルソン*9・ジャワ*10の二の舞*11になると説明し、士気を高め、軍備を増強して条約締結反対の覚悟で必死に戦えば、敵は遠方から来航し補給が苦しく、長く戦えないから撤退する、と述べている。重臣たちは殿様に「日本は神の国(意訳)」を説き、殿様は幕府を説得してアメリカを撃滅するべきと説く。

  • 具体策として、まず長州自ら富国強兵策を行う。質素倹約で無駄な出費を控え、特産品を作り、領外に売り込みをかけて金を稼ぐ、兵隊は戦う理由を作り、それを領内に広めて士気を高める、軍備は大軍艦を造り、巨砲を鋳造し、砲台を築いてアメリカを撃滅するため、優秀な若手を選んで長崎に送り込んで洋学を学ばせよ、との提案である。

興味を持った益田は松蔭に高杉の企画書を見せ、松蔭による朱筆の評価が残されており、絶賛していた。これ以降、高杉は毛利家内部の若手有望株として頭角を現した。

第二は祖父の死去である。安政5年(1858)4月7日に自宅で死去した祖父は高杉にとって天敵だった。松下村塾行きを邪魔し、高杉の領外への遊学にも懐疑的で、存命中は好き勝手にさせないと公言していた。祖父の葬儀は父が江戸詰の為、高杉が喪主として取り仕切ったが、松下村塾の仲間は誰も来ず、唯一、お悔みの手紙を出した松蔭に返信で「仲間うちで誰も来ないとは、絶望した。アナタ=松蔭だけが唯一の希望です(意訳)」と仲間はアテにならないと教えられた、と記している。

第三は遊学の実施である。父は高杉の希望である遊学に対して根回しを行い、毛利家が学費を全額負担する特待生扱いで1年間の江戸遊学を高杉に命じた。高杉は父に高杉家負担で構わないからと申請していたのが予想を上回る結果だった。高杉の遊学を一番喜んだのは松蔭で4月11日付の桂小五郎宛書簡で江戸で高杉の面倒を頼むと依頼している。

同年7月20日に萩を出立、8月15日に江戸に到着。当初は昌平黌に入学予定だったが、空席がなかったので、松蔭お薦めの国学者・大橋訥庵(おおはしとつあん)が主宰する思誠塾(しせいじゅく)に入門するも、学風が合わないとして約2ヶ月後に辞めている。その間、毛利家も高杉の為に昌平黌にかけ合い、10月18日空席が出来たと知らせ高杉を昌平黌に入学させた。ここから1年間、高杉は昌平黌の書生寮に入り学ぶ。担当は安積(あさか)艮斎(こんさい)。当代第一級の儒学者である。昌平黌以外にも私塾・見山楼(けんざんろう)を主宰したり、江戸にある各大名家に出張講義などを行う引っ張りだこの儒学者でもあり、父・小忠太や師・松蔭も毛利家で行われた出張講義に出席した事がある。

主に儒学や漢文、漢詩を勉強し、成績こそイマイチだったと自他ともに認めているが、ここでの勉学は後で自分を助けた程だった。儒学を国の土台にしている清朝、李氏朝鮮、徳川幕府といずれも西洋に押されており、「儒学は腐った学問(意訳)」と周りの学友に洩らすと、学友たちも賛同していた、と記している。そのため、新しい学問を学ぼうと築地に設立された軍艦操練所に聴講生として出入りしていた。当時の教官には勝海舟が在籍していた。ここで勝と接点があったと言われている。

第四は師匠の松蔭が亡くなったこと。松蔭は尊攘派との付き合いを危惧する毛利家の手で捕縛され、幕府から身柄引き渡しを命じられて江戸に運ばれた。安政6年(1859)6月25日の出来事である。取り調べで尊攘派との付き合いは無罪認定を受けたが、自ら老中暗殺計画を暴露。結果、首を刎ねられた。安政6年(1859)10月27日の出来事である。
獄中にいた松蔭の為に松蔭の学友・白井小助(しらいこすけ)とともに生活物資を支援していたとある。
高杉は10月17日に遊学期限をむかえたので、江戸を出立し、萩に帰っていった。

自己研鑽の日々。

萩城下に戻ったのは11月16日の夜。11月20日に松蔭処刑の一報が萩城下に飛脚からの書簡で伝わる。高杉はこの頃、毛利家の実権を握る周布政之助に手紙を記して、自身を売り込む。
重臣の長井雅楽(ながいうた)は江戸に護送される松蔭に黙秘を貫けと忠告したが、松蔭が無視して上記の暗殺計画を暴露した為、周布は毛利家を守るために松蔭を切り捨てた。
それを知る高杉は周布へご機嫌を取り、不興を買わない様にした。その甲斐もあり、高杉は万延元年(1860)3月20日、明倫館舎長として復学を命じられる。

その間に高杉は井上平右衛門の娘・マサ(当時16歳)を妻に娶る。マサは世代一番の美人で求婚者応募多数により、井上家でくじ引きの結果、高杉が選ばれた。高杉とマサの結婚生活は記録上7年3ヶ月ほどだが、高杉の行動的な生活もあり、一緒に過ごした時間は通算2年ほどだった。

松蔭が居なくなった松下村塾は上記の様に久坂が主に講義を担当し、塾生の面倒を見ていた。高杉も久坂の講義に顔をだしていた、との記録がある。

世間は嘉永6年(1853)の黒船来航から始まり、江戸で発生した安政の大地震(1855)とその前後に発生した嘉永7年/安政元年(1854)の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震といった連鎖地震にコレラの蔓延、13代将軍・徳川家定の後継者問題、外国との通商条約締結問題で沸騰しており、安政6年(1859)、家定から事態の収拾を託された大老・井伊(いい)直弼(なおすけ)により、過激な尊皇攘夷論を唱える吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家(11万石)家臣・梅田(うめだ)雲浜(ひんぴん)、将軍後継争いで暗躍した越前福井松平家(32万石)家臣・橋本左内などが処刑された安政の大獄が起こる。

在野の志士が憤慨し、翌万延元年(1860)3月3日朝、水戸を出奔した浪士達によって桜田門外で井伊大老は暗殺。

これを目撃した桂小五郎は3月10日付けで国許に手紙を送り、世の中が変わるから江戸に来い、と仲間に呼びかけている。

毛利家ではこの頃、高杉と久坂を柱にして将来の人材育成を行うべく、高杉は海軍、久坂は英語を学ぶべく、幕府の教育機関に送り込む予定だった。

結局、この計画、高杉も久坂も自身の都合で挫折することになる。高杉は海路、江戸まで毛利家の洋式帆船による航海で体験学習をしながら江戸に向かったが、性に合わないと海軍修行を諦めてしまった。
久坂も幕府の蕃書調所に入門して英語を学ぶのだが、万延元年(1860)5月19日に前原一誠に宛てた手紙で「英語ムリ!!頭に入らない(意訳)」と降参している。

この頃、桂は蘭学なども勉強した上で長州攘夷派を率いる様になり、水戸徳川家の攘夷派と「丙辰丸の盟約」を同年7月12日に交わしている。内容としては水戸が攘夷実行、条約打破で行動し、長州が尻ぬぐいをするスタイルなのだが、英語に挫折した久坂がこれに参加した。ところが同年8月15日、尊攘派のカリスマ・水戸徳川家の徳川斉昭(とくがわなりあき)が亡くなる。カリスマが居なくなり、尊王攘夷運動の求心力を保つ為に久坂は松蔭を尊攘運動に殉じたカリスマに仕立て上げ、桂がこれを支える形になった。2人は松蔭を神格化する事に血道を上げる。

高杉はそんな2人と距離を置き、海軍修行を挫折した穴埋めとして、関東、北陸を遊歴して長州に帰国したいと申し出て、許されたので同年8月28日に江戸を出立した。剣術の他流試合をしたり、信州松代では佐久間象山に、越前福井では横井小楠(よこいしょうなん)に面会して、その思想から強い影響を受けた。帰国後、横井小楠を長州に招いて国力を増強するべきです、と提案している。


お役目デビューと海外派遣

帰国後の同年11月8日、明倫館舎長として復学を命じられ、文久元年(1861)3月11日、世継・毛利広封の小姓役として初のお役目デビューを果たす。
お役目の挨拶回りをしているうちに、毛利家では長井雅楽の提案による『航海遠略策*12』により京都デビューを果たす予定だった。


馬関に2月1日ロシア軍艦1隻、4月下旬から5月1日にかけてイギリス船舶5隻が来航。

少し戻ると同年2月3日、ロシア帝国海軍は軍艦ポサドニック号が対馬に来航。これは強引に対馬宗家に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。
同年8月15日、ポサドニック号は対馬から退去したが、これは「対馬はイギリスも狙っていたため、クリミア戦争の二の舞*13となる事を恐れた」ロシアが手を引いたと言われている。(対馬事件/ポサドニック号事件)

対馬・宗家とは漁民の保護などを通じて仲が良かった長州毛利家は事の一部始終を聞き、海上交通の要衝である関門海峡を有する事、自領の近くに竹島があり、そこが外国に領有化される事に危機感を抱き、対馬事件で徳川幕府が解決策に土地や要衝の直轄化を打ち出した事から、自分達も否定されるのではと危機感を抱いた。
対策会議に高杉も参加し、馬関を分家筋から本家に移し、軍備を強化する様に提案。久坂の遺構には、
「長井や幕府の開国論は戦争を避けたいの一点張りで、これではダメだ。外国に追い付き追い越すには実際に外国の実力を知らなければならない。その為には戦争で実力を知り、日本人に攘夷が厳しいという事を理解させる。そうした上で留学生を送り、西洋文明を受け入れ、外国との条約交渉をこの状況で行うべき(意訳)」
と記されており、幕府の開国論に批判的な対応をする様になる。また、馬関の移管には幕府の承認が必要なのだが、毛利家はなし崩し的に既成事実を作ろうと目論む。

そんな中、高杉は7月10日に萩を出立し、同月30日に江戸着。先に江戸に来ていた久坂から長井雅楽を潰す様に頼まれるのだが、高杉は聞き流した。久坂は松蔭を幕府に売ったのが長井だと思い込んでいるが、高杉は周布が突き放したと知っている。
しかし、久坂は周布が味方だと思い込んでおり、下手に刺激すると面倒臭いからと、久坂に合わせたフリをしてやり過ごした。

意外な角度から高杉に転機が来た。外国派遣使節団への参加である。高杉はこの頃、日記を記しており同年9月9日付の記載に「殿様から海外派遣の内定が来た(意訳)」とある。
幕府が攘夷論に対するポーズと海外事情を調べる為、欧州に使節団を派遣する情報を掴んだ周布は毛利家から優秀な若手を欧州に派遣する様に殿様に建議、若手に杉孫七郎(すぎまごしちろう)と高杉が選ばれた。

攘夷論を叫ぶ長州も海外事情を知る為に万延元年(1860)の遣米使節団には北条源蔵(ほうじょうげんぞう)、文久元年(1861)3月の幕府使節団によるロシア領内のニコラエフスク(現在のロシア・ニコライエフスク・ナ・アムーレ)へ赴き、交易や沿海の測量に松蔭門下生の山尾庸三(やまおようぞう)、桂右衛門(かつらうえもん)を送るなど、機を見て海外に人を派遣していた。内定には世継・広封が自身の代わりに海外を観る人材として高杉を推した。この使節団へ高杉の参加は最終的に見送られるのだが、直後に上海へ派遣される使節団の情報を掴んだ毛利家は高杉を使節団にねじ込んだのである。
高杉は最初、この話を嫌がっており、父親に相談した結果、ようやく決意した、と言われている。
文久2年(1862)1月3日に江戸を出立し、2月上旬に長崎にある長州屋敷に到着。幕府使節団が4月29日に出港するまで様々な人と接した。
アメリカ人宣教師のフルベッキやウィリアムズからアメリカの南北戦争や清国の太平天国の乱を聞かされたり、キリスト教の歴史を聞かされた。高杉は日記で「キリスト教を聞いて既視感があると思ったら陽明学とカブるんだ。どちらも城を傾け国を覆す程の害を与えること、大艦巨砲のみにあらず(意訳)」と記している。
他にも長崎貿易で勢いがあるのは薩摩と越前で産物を海外に輸出して外貨を稼いで富国強兵を実践している。長州も産物を海外に輸出して外貨を稼ぎ、外国から富を奪うのが誠の攘夷と日記に記している。
同年2月23日、妻マサから安否を確認する手紙が届き、同年4月17日に
「浮気絶対ダメ!!、ゼイタクは敵だ!!、キミはエリートの妻なのだから高い品格を身に付けろ!!、毛利家に忠節を尽くせ!!(意訳)」と返信している。

長崎を出港し、幕府の洋式帆船・千歳丸(せんさいまる)にて上海に着港したのが同年5月6日昼前。
薩摩島津家の五代友厚(ごだいともあつ)と船中で仲良しになり、宿泊したホテルでは4人部屋で同室の肥前佐賀鍋島家の中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)と仲良しになった。五代、中牟田ともに幕府の長崎海軍伝習を卒業した知的エリートで高杉が挫折した海軍に関してもわかり易く教えてくれた。五代は島津家から上海市場の調査と蒸気船購入を命じられた。中牟田は元々、高杉と同じく欧州に派遣される幕府使節団に参加予定が見送られたので、鍋島家が上海使節団にねじ込ませた。目的も高杉と同じく海外事情を知る為である。
五代は自身の都合で同行出来なくなり、中牟田と組んで上海を歩いて情報収集をする事にした。中牟田はオランダ語と英語に堪能なので、白人相手に情報収集を担当し、高杉は清国人と筆談をしたら上手くコミュニケーションが取れて、それっぽい会話もデキるみたいなので、清国人から情報収集をする様になった。
この幕府使節団一行は7月5日に上海を出港、13日夜に長崎に着港した。長崎に着いた高杉は翌日、オランダ人が蒸気船を売りに出されていると知ると毛利家が購入する仮契約を独断で締結した。
高杉が毛利家に提出した上海レポートには、
『清国がこのような惨状に陥るのは、軍艦、大砲、小銃を造らず、「海国図志*16」を絶版にして、情報を閉ざした事にある。今の日本は清国の前車の轍を踏む勢いにある。そうしない為に蒸気船や大砲、小銃を購入し、人材を海外に派遣して情報を集める必要がある(意訳)』
と記している。このレポート、8月24日に京都の長州屋敷にて殿様に報告されている。
高杉が日本を離れていた間に国内は情勢が変貌していた。

英国公使館焼き討ち

高杉が文久2年(1862)1月3日に江戸を出立して長崎〜上海〜長崎〜萩と移動して8月上旬には萩城下に戻り、独断で締結した軍艦購入の許可を貰おうとしたが、毛利家では既に8月1日に横浜でジャーディン・マセソン商会からランスフィールド号を購入する契約が成立。高杉は呼び出されて軍艦購入会議に参加し、更に追加で買いましょうと提案したが、人手不足で購入は見送られた。
ランスフィールド号は当時の干支にちなんで壬戌丸(じんじゅつまる)と命名されたが、井上馨らが閏8月27日に購入した後、横浜で購入立ち会いをした幕臣・勝海舟に話しかけた。
井上が言うには、長州には蒸気船に精通した人がおらず、この船も最初はイギリス人を雇って戦う予定だったが、さすがに気まずいという雰囲気になった。そこで海軍の教官歴があり、私塾を主宰する勝から人を借りて教えてもらう話になった。
話を聞いた勝は最終的に弟子の庄内人・高木三郎(たかぎさぶろう)や幕府海軍から機関士を長州に貸すことにして、彼らから教わる事でようやく蒸気船を動かすことが出来た。

6月に薩摩島津家の国父・島津久光が勅使・大原(おおはら)重徳(しげとみ)を擁して江戸に着き、幕政クーデターに成功。
安政の大獄で政治活動を止められていた前一橋家当主・一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)*17を田安(たやす)慶頼(よしより)に変えて将軍後見職に、前越前福井松平家当主・松平(まつだいら)慶永(よしなが)を政事総裁職に就任させる体制を実現した。

最初、毛利家は長井の航海遠略策を軸にした開国論で京都デビューを果たすはずだったが、久坂や桂がこれに反発。『企画が弱い』と難癖を付けて取り下げさせ、毛利家は破約攘夷論に方向変換。

同じ頃、土佐山内家(24万石)では武市半平太(たけちはんぺいた)が文久元年(1861)8月、土佐勤王党を結成。主宰する武市は久坂の破約攘夷論に共鳴し「土佐一国の攘夷」を実現する為、参政・吉田東洋(よしだとうよう)が邪魔と考え、反吉田派の政敵と手を組み、文久2年(1862)4月8日に暗殺。土佐山内家の実権を握った。

互いに殿様を上洛させ、攘夷を実現する為、久坂と武市で「京都手入れ」と呼ばれる政治工作を行った。長州が朝廷工作、土佐が安政の大獄で攘夷派を弾圧した幕府の役人や宮中の要人に「天誅」という名目で報復テロを行い、京都の幕府権力は無力化され、無政府状態となった。*18

長州と土佐の攘夷派は久光の幕政改革を酷評し、同年8月3日、世子・広封は京都から江戸に向かい、同月24日に江戸城に登城し、将軍・徳川家茂に勅書を伝達した。

勅書の内容は安政の大獄や桜田門外の変で幕府が処罰した人たちを国事殉難者として顕彰する事。これには病死した徳川斉昭へ官位の贈呈、処刑された吉田松陰の罪を取り消すなどが含まれていた。*19
同年11月28日、幕府は大赦令を出し、「安政の大獄」を誤りとし、「桜田門外の変」を正しいと認めた。これにより幕府のメンツは丸潰れ。

三条実美、姉小路(あねがこうじ)公知(きんとも)ら攘夷を催促する勅使一行は10月に京都を出立、同年11月27日、江戸城に登城し、江戸城大広間の上段に座り、中段の将軍・家茂に勅書を読み上げた。内容は攘夷を実施し、報告する事。親兵を設置する事の2つ。
12月5日に幕府は勅命を受け入れ、将軍家茂自ら上洛して報告する事を伝えた。
三条ら勅使一行は12月7日に江戸を出立し、23日に京都に到着。世子も12月9日に江戸を出立した。

この間、ここまで毛利家を牽引してきたのは久坂と桂である。特に久坂は同年8月1日に『廻瀾條議(かいらんじょうぎ)』、閏8月28日に『解腕痴言(かいわんちげん)』を記した。前者は毛利家内部宛、後者は対外的に宛てた文書である。
どちらもざっくり言えば、破約攘夷論を唱えているが、違いは前者が長井雅楽を糾弾し、吉田松陰を讃える事で毛利家を破約攘夷論へ一本化する。後者は高杉が久坂に教えた海外事情を紹介し、外人が病人の面倒を見たり、国の為に助言するのは侵略の第一歩だから、隙を見せるな、と危機感を煽っている。

毛利家から高杉に8月11日に萩を出立し、京都にいる殿様に上海レポートを提出してから江戸に行けと沙汰が下る。高杉は同月24日に京都に着き、レポートを提出。江戸にいる桂に26日付で高杉は手紙に、
「久坂はやり過ぎた。まだ、国力も情報もないのに、攘夷に先走りし過ぎ。(意訳)」
と記し長州の京都手入れに批判的だった。
この後、江戸に向け出立、先に江戸にいた世子に拝謁し、
「幕府が攘夷をするする詐欺なのはけしからん。しかし、長州単独で攘夷をするのはまた違う話。公武合体による挙国一致の攘夷を実現させるべく、根回しするのが大切。それまで長州は国力を蓄え、軍備を調えるのが一番(意訳)」
と主張したが、受け入れられなかったため、閏8月27日、世子と父親宛に「毛利家を出ます。探さないで下さい(意訳)」と手紙を記し、江戸を出奔した。常陸国笠間城下(常陸笠間牧野家8万石)に住む水戸学の学者・加藤(かとう)桜老(おうろう)に会いに足を運び、人生相談。加藤は高杉に毛利家へ戻るように諭した。更に加藤は桂に手紙を記し、高杉が罪に問われないように取り成しをお願いした。同年9月13日、高杉は毛利家に帰参。

この頃の高杉は久坂が政治に深入りしているのを苦々しく見ており、江戸留守居役・宍戸九郎兵衛(ししどくろうべい)に対し、「久坂を持ち上げ過ぎ。増長して手に負えなくなるぞ(意訳)」と警告の手紙を記している。
同年10月19日、友人の渡辺内蔵太(わたなべくらた)に宛てた手紙に「人材を集めて、久坂の暴走を止めないといけない(意訳)」と記し、後半は「情報収集でイギリスに行くんだろう?オレも入れろ!!(意訳)」と記している。
後年、井上馨や伊藤博文ら『長州ファイブ』と呼ばれるイギリスへの密航留学生が横浜から出港するのは翌年5月12日の話である。

この当時、長州自体が世間から「攘夷www(意訳)」などと陰口を叩かれていた。それが悔しいと感じた松蔭門下生は何か世間の鼻を明かす事をしてやろう、と企んでいた。この頃、世子の小姓役として江戸で勤務していた井上馨は渡辺を通じて高杉と出会い、意気投合。3人で外国公使を殺害して、幕府の尻に火をつけてやろうと企んだが、これに久坂や品川弥二郎ら松蔭門下生が参加し、騒ぎが大きくなった。土佐の武市半平太や坂本竜馬も巻き込みながら、世子がこの話を嗅ぎ付け、計画の中止を説いたので、この話はなくなった。後で長州と土佐で交流会が開かれ、参加した周布政之助が土佐の山内容堂を「てめぇも攘夷なwww(意訳)」と煽り*20、土佐と一触即発の雰囲気になりかけたのだが、世子が後日、土佐に謝罪。

松蔭門下生達は問題点として団結力が足りないと考え、盟主・高杉、副盟主・久坂による『御楯組(みたてぐみ)』という秘密結社を結成する*21。同志で集まって血判状(血盟書)を書き、攘夷を実行するため強い決意を誓い合った。

その最初の行動は建設中の品川御殿山イギリス公使館を焼き討ちしたのである。

幕末には口を閉ざしていたが、維新後、政治家になった井上馨や伊藤博文が自らの武勇伝として口外し、自伝にも記している。ざっくり言えば、13人で12月12日夜に焼き討ち。祝杯を遊郭で行なった。イギリス、徳川幕府は生麦事件の処理もあり、そこまで乗り気じゃなく、犯人不明で、捜査を打ち切り。
長州が実行犯という噂は当時から言われており、「攘夷www(意訳)」と陰口を叩かれることはなくなった。

この公使館焼き討ち事件の後、焼き討ちメンバーは続々と江戸を離れていた。
井上、渡辺らは同月14日頃に江戸を出立、25日に京都に到着。久坂は土佐の中岡慎太郎らと一緒に江戸を出立し、松代で佐久間象山と会見し、毛利家への移籍を勧誘したが、断られた。この後、京都に到着する。

毛利家では焼き討ちメンバーに対して文久3年(1863)1月6日、7日間の謹慎を申し渡したが、形だけで、20日には井上、渡辺が世子小姓役に復帰した。
高杉は当時、江戸にいた桂小五郎らとともに、吉田松陰の遺体を改葬し、荏原郡若林村(現・東京都世田谷区若林)に神式で埋葬した。最終的にここは明治15年(1882)、松蔭神社となる。

同年1月27日に京都で毛利家は諸大名の家臣と会合し、同年2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府はヤル気が無い為、久坂が朝廷に建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。

また、京都御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州毛利家が握ることとなった。

その裏で同年2月6日、長井雅楽が萩城下の自邸にて切腹した。久坂や桂の横やりで長井の案は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、殿様により帰国謹慎を命じられた。長井本人はこの措置に納得しておらず、長井を担いでクーデターを起こそうとする人たちがいたため、毛利家の分裂を抑えるためと自身を納得させた。
切腹の前日、高杉の父・小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣の かかるうき身は数ならで 唯思はるる 国の行く末」と辞世の歌を残した。

東行と奇兵隊

江戸にいた高杉は前年に発生した生麦事件の賠償問題が破談に終わり、攘夷をするなら江戸か横浜とみていた。仲間として江戸で土佐山内家を出奔した岡田以蔵を居候させていた。しかし、周りがそれを許さなかった。京都で朝廷工作を行う世子・広封や久坂、井上、渡辺らが桂小五郎や高杉の手伝いを求めるようになり、桂や高杉も京都に向かう事になる。この旅の最中に以蔵が6両の金を使い込んで高杉とケンカになり京都に到着後、高杉は土佐勤王党に連絡をとり、6両を取り戻している。以蔵は坂本竜馬の紹介で勝海舟の護衛をする事に。

3月11日頃に京都に到着した高杉。攘夷祈願の為に孝明天皇は上賀茂・下鴨神社に行幸。お供に公卿88家、将軍家茂以下21の大名が従い、公武合体、天皇と将軍の上下関係を表す一大イベントになった。これは世子・広封や久坂らが関白・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)に攘夷祈願の為に賀茂神社と泉涌寺(せんにゅうじ)への行幸を建議し、採用された為。

幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が諸侯に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。

有名な高杉の「よっ、征夷大将軍!!(意訳)」発言はこの時のネタ。最近の研究ではこの頃、志士デビューした山縣有朋(やまがたありとも)が日記の中で「高杉と一緒に将軍を観た(意訳)」という記述を元ネタに、戦前、高杉の研究者たちが「高杉が言っていないor言ったけど意味やニュアンスが違う発言を誇張・曲解することが多くそれを総じて『言っていない語録』が誕生している(意訳)」から発言が作られて独り歩きした結果、といわれている。

その頃毛利家は高杉を国許で政務座に就けるという噂があった。高杉は政治に就く事を拒み、3月15日、10年の暇*22を願い出て、頭を丸めて僧形になり「東行」と号した。
毛利家は驚き、周布が事情聴取を行い、高杉は
「今の毛利家にはついて行けない(意訳)」
と申していると報告。毛利家は高杉の振る舞いを許した。

高杉の「東行」は周布との事情聴取で「西行法師*23」にあやかったと話した。暇を認められた高杉は毛利家のツケで京都各地の料亭や遊郭に出入りして飲み歩いていた。その頃の飲み友・堀真五郎(ほりしんごろう)が「西行は西に行くから西行、高杉の東行は東に行くから東行なのか?東に何の目的があるのか?(意訳)」と質問すると、高杉は「キミの質問は正解。東に行く目的は教えてあげない(意訳)」と煙に巻いた。
この頃、江戸から尊王攘夷の為に来た幕府募集の浪士組が、内輪もめの結果、京都に残る芹沢鴨、近藤勇一派と、江戸に戻る清河八郎派に分裂した。清河は朝廷工作を行い、2月29日に東に下り攘夷をせよ、との勅命を貰い、3月13日に京都を出発した。
高杉はこの浪士組に便乗して東で攘夷をするんじゃないか?と堀や周布は勘づいたのである。

高杉が「賊」と呼ぶ西洋人は京都からみたら、東の横浜にいる。天皇は「東に行き」西洋人と
戦えと、将軍や浪士組に命じた。高杉の理論では全国の大名が東に行き、征夷大将軍のもとで一致団結し、挙国一致体制を築き、外患を除かなければならない。高杉はアメリカが南北戦争、清国が内乱で死に体と化して、清が外国からの援助に頼る有り様を「外患より内憂の方が恐ろしい(意訳)」と評している。毛利家は天皇と将軍の対立を煽り、地元を戦場にする覚悟で外国と戦う準備をしていた。毛利家が征夷大将軍ではないのにである。

この頃の高杉は討幕どころか、毛利家も公武合体体制下で東に行き、攘夷を実行するべきだと行動しようとしたが、不発に終わった。

高杉をやべぇ奴と見なした毛利家は堀をそのまま監視役にして国許へ戻す事に決めた。2人は3月26日に京都を離れ、4月9日に萩城下に戻った。高杉の帰宅を知った父は高杉を実家ではなく、萩城下近郊の松本村に小さい家を与えて、そこに妻と二人きりの生活をする様に命じた。高杉はこの家を「松下塾」と名付け、若者に学問を教えたとある。柳生新陰流免許皆伝、昌平黌出身、海外渡航歴あり、と書くと、スゴいキャリアである。

高杉は夫婦水入らずで2ヶ月程、松本村で過ごしたのだが、その間、長州や土佐の攘夷派とその取り巻きの公家らは孝明天皇が外人を先入観から毛嫌いしているのを上手く扱い、孝明天皇から毛利家へ陣羽織を下賜、対外戦争は長州にお任せ!という雰囲気を作った。

長州は自国の海域を通行するアメリカの民間船・ペンブローク号に同年5月10日、砲撃を行う。ペンブローク号は豊後水道経由で上海に逃れた。同月23日にフランス軍艦・キャンシャン号、同月26日オランダ軍艦・メデューサ号を砲撃。キャンシャン号は長崎に逃れ、メデューサ号は乗組員4人が戦死した。

久坂らは攘夷を実施したと朝廷に報告するため、同月27日に馬関を出立、6月1日に上洛すると朝廷よりお褒めの勅諚を賜る。
5月29日、世子による巡察が行われ、その席で毛利家に招かれた軍事顧問の中島名左衛門(なかじまなざえもん)が「ラッキーパンチが当たっただけ。これから外国による倍返しが来ますよ。覚悟してください(意訳)」と発言。この日の夜、中島は毛利家の攘夷派により斬殺された。
中島の言う倍返しは6月1日、アメリカ軍艦・ワイオミング号による報復攻撃を皮切りに行われた。長州海軍は壬戌丸、庚申丸が撃沈、癸亥丸(きがいまる)は大破し、4隻の長州艦隊は3隻が戦闘不能となり*24潰滅した。アメリカ側の死者6人、負傷者4人、長州は死者8人・負傷者7人であった。陸上の砲台は艦砲射撃で甚大な被害を受けた。

同年6月5日、フランス東洋艦隊・セミラミス号とタンクレード号が報復攻撃を開始、前田、壇ノ浦の両砲台を完璧に粉砕した。砲台の支援に出陣した既存の武士階級は艦隊からの艦砲射撃で鎧袖一触、相手にならなかった。

高杉は仲間うちから「お~い高杉、攘夷やろうぜ!!(意訳)」と誘われたが、「あっ、ごめん、オレ行かない…(意訳)」と返答。
6月3日、出奔した高杉に対する処分が下り、今回は不問にするが、身分は父の育みとされ、家督相続権を失った。高杉も本来は重罪になる話が大甘処分で済ませたあたり、長州は人がいないんだな、と友人の中村九郎(なかむらくろう)に手紙を記している。

長州艦隊は壊滅、既存の武士階級が役立たずなのを聞いた殿様はぶち切れて同年6月5日、高杉を呼び出して対策を求めた。高杉は士分以外から広く募兵し、一団を奇兵隊とすることを提案。殿様の鶴の一声で決まり、高杉は世子相談役として出仕。高杉に馬関防御を命じ、翌7日、光明寺党*25を叩き台に高杉が武士、農民、町人からなる奇兵隊を結成した。高杉は最初、庶民が軍事に参加する事に消極的だった。しかし、既存の武士階級が口だけ番長なのにあきれ果て、次善の策として志願兵による奇兵隊を設立した。奇兵隊の「奇兵」の由来は高杉によると、『「正兵」が「正面から敵を引き受ける」のに対し、「奇兵」は「少ない兵や奇策で敵をかき回し、神出鬼没の動きで敵を悩ます」のを目的にする』、とあり、ゲリラ戦力なのである。

毛利家と高杉の間で馬関防備に対する意見のすり合わせが行われ、同年6月27日、正式に奇兵隊惣督に任命され、合わせて政務座に加えた。
馬関防衛に関しても、総責任者・国司(くにし)信濃(しなの)を補佐する相談人に任命された。同格の用談人に任命された波多野金吾(はたのきんご)(後の広沢真臣(ひろさわまおみ))や高杉が両親に宛てた手紙では、高杉は育みで家督相続権を持たない為、既存の武士団へ命令権を持たない奇兵隊限定の指揮官であると説明があり、波多野は武士団への指揮官で任命され有事の指揮権は高杉が格上とある。更に壊滅した砲台や艦隊の再編が高杉や波多野の主な目的だった。
筑後久留米有馬家(禄高21万石)の攘夷派や佐賀鍋島家に連絡を取り、高い火力を持つ大砲を購入しようとしたり、武家の婦女子を動員するなどして崩壊した砲台を再建した。

現実に攘夷をすると長州毛利家の大砲の飛距離は不十分だった。対岸の豊前小倉小笠原家(禄高15万石)*26からも砲撃し、はさみ撃ちにして、戦果を挙げることが可能だった。毛利家とその一門では小倉小笠原家に対して文久3年(1863)4月27日と同月29日に共同作戦で攘夷をしようと申し入れをしているが、小笠原家は朝廷から政務を委任されている幕府の命令を順守すべきという方針を採った。

これに毛利家は、朝廷の命令を蔑(ないがし)ろにし、攘夷を行わない小笠原家は厳罰に処せられるべきだと主張した。

文久3年(1863)6月14日、長州毛利家の朝廷工作により*27、監察使・正親町(おおぎまち)公董(きんただ)が御親兵60人を引き連れ、毛利家へ派遣する事を決め、同月16日に出立。同年7月16日に下関入りした。

毛利家は大砲持参で田野浦に上陸、砲台を築き、陣地や宿舎を設置し、小笠原家の領地を侵食した。高杉は正親町に小笠原家への弾劾状を提出し、京都では小笠原家の官位剥奪・所領没収という勅命まで作られて、実施されようとしていた。

幕府は毛利家の行為に危機感を抱き、詰問使・中根(なかね)一之丞(いちのじょう)を軍艦・朝陽丸(ちょうようまる)に乗せて派遣したが、逆に毛利家は朝陽丸を砲撃、停泊した朝陽丸を奇兵隊が拿捕、中根らを殺害した。(朝陽丸事件)

小笠原家は朝陽丸に事情を説明するべく家臣を乗せていたが、切腹に追い込まれた。

同年8月13日、大和行幸の詔*28が出され、同時に毛利家当主・毛利(もうり)敬親(たかちか)らに上京が命じられた。

諸大名へも行幸供奉(ぐぶ)、軍用金献納が命じられた。

同年8月17日に大和国五条で天誅組の変*29が勃発した。

他の諸大名や公卿たちは
「駄目だこいつ……早くなんとかしないと……」と結束

これにより、毛利家とその取り巻きの公卿達は京都を追われ、長州に亡命した。(七卿落ち)
中川宮「おめぇーの席ねぇーから!」
会津武士、新選組「カエレ!」

これを打破する為、奇兵隊を率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が高杉を筆頭に毛利家内部から出てきたが、世子からやめてとお願いされ、中止に至る。七卿落ちの護衛で京都にいた長州軍が地元に戻ると、京都の攘夷路線に反対してクーデターを起こそうとしていた椋梨藤太らと衝突。高杉が京都から戻る長州軍と呼応して椋梨らを抑えて権力を握る。

上記の権力闘争と別に、創設された奇兵隊はさっそく既存の武士階級と衝突し、争いが絶えなかった。互いに歩み寄る気は無い。
高杉は奇兵隊初代惣督だったが8月16日に発生した教法寺事件(きょうほうじじけん)*30の件、権力闘争の後始末から高杉を政務座に就ける話を実現する為に、高杉は同年9月10日政務座役に就任、同月12日に奇兵隊惣督を辞職して、河上(かわかみ)弥市(やいち)と滝(たき)弥太郎(やたろう)の二人が奇兵隊惣督に就任した。

政変を受けて長州に落ち延びてきた尊攘派公卿・三条実美ら七卿は三田尻の招賢閣(しょうけんかく)に滞在する事になり、同年9月25日、その護衛は奇兵隊が行う事になった。
高杉の下に、京都から締め出されて亡命した諸国の浪士たちが集まり、七卿を擁して奇兵隊を率いて失地回復を謀りたいと申し出てきた。高杉が実現に向けて動いた形跡はない。

10月1日、高杉は椋梨らのクーデターを止めた事を世子から高く評価され、父の育みから新知160石を与えられ、父とは別に高杉家を創設。その当主となった。父も高杉の振る舞いと自身の体調不良から世子や奥方のスケジュール管理を行う秘書室長的な役職を辞職したがっており、高杉に引き継ぐ形で辞職が許された。高杉が独立したので父に嫡男がいなくなり、妹の子供・百合三郎を養子に迎えた。
同月30日、高杉は父に改名を相談している。上記の朝陽丸事件で幕府の使節団一行に危害を加えた長州の元凶が高杉だと幕府が認識している、と内外から知らせがあり、高杉がごまかすために通称を「東一」にしたいとあり、高杉は通称を東一にしている。本人は関与してないのに、指名手配犯にされていたのである。

この頃の高杉は京都の政局に関与しない考えだったが、文久政変からの劣勢を打破する為、毛利家内部で軍勢を率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が出てきた。

首謀者は出奔浪士などを集めて作られた遊撃隊の総管・来島(きじま)又兵衛(またべえ)、久坂玄瑞、浪人の真木(まき)和泉(いずみ)など。

周布や高杉は外国艦隊の襲来も予想されるから、今は内側を固めるのが先決と反対すると、来島が
「やーい、権力の犬www。犬らしく尻尾でも振ってキャンキャン鳴いてろwww(意訳)」
と高杉を嘲笑うと、高杉はブチギレてしまい、文久4年(1864)1月28日、山田顕義とともに出奔。元治元年(1864)2月2日大坂に到着し、薩摩島津家の実力者・島津久光(しまづひさみつ)を暗殺しようとするも、当時一緒にいた中岡慎太郎らに反対されて不発に終わる。毛利家から久坂玄瑞が来て呼び戻され、同年3月29日、牢屋に入った。新知160石や「東一」の名を取り上げられ、通称が「和助」となる。

牢屋の外から周布が
「ここで3年我慢して勉強するんだなwww
これくらい我慢できなきゃ、将来、大望を成す事など出来んぞ!」
と馬に乗り、酒を飲み、刀を抜いて大声で叫んだら周布は失脚した。高杉は6月21日に出所して謹慎処分となる。

その間、同年6月5日夜に新選組の池田家事件で松蔭門下生の吉田稔麿や杉山松助が討死、この事件の後、同年7月11日、三条大橋の辺りで禁裏御守衛総督・摂海防御指揮を務める一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)の相談役・佐久間象山が河上彦斎らに暗殺された。暗殺の理由は佐久間と京都守護職を務める会津の公用局が孝明天皇を彦根経由で江戸に移し、和宮、婿の家茂と兄妹、夫婦仲良く過ごしてもらい、幕府が帝を独占する為である。これが成立すると長州は孝明天皇存命中、逆賊確定なので阻止したのである。

象山暗殺から8日後の7月19日、長州は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。
禁門の変である。

国司(くにし)信濃(しなの)、福原(ふくはら)越後(えちご)、益田(ますだ)右衛門介(うえもんのすけ)の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、桑名などの兵と激戦。

幕末武士団番付けの東西両横綱、西の薩摩と東の会津に、加えて新選組を敵に回して勝てる術は無かった。

指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、寺島忠三郎、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。桂小五郎は会津の敗残兵狩りから命からから逃れ、但馬に潜伏する事になる。

上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。

国内では孝明天皇が長州の攘夷論が実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると懲罰目的の勅命を降し、西国21の大名家に出兵が発令されたのが、同月24日。

元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。

後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。

狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。

この計画を徳川幕府は知らされていたが、それはみっともないとの感覚が幕府にもあり、日本内部の問題として処理しようと言う空気が強かった。

連合艦隊が集結した日に、将軍は在京の諸大名に総登城を命じ、長州征伐を布告した。

イギリス留学中の伊藤博文、井上馨らが慌てて帰国して、同月3日に伊藤と松島剛蔵が、翌日には前田孫右衛門と井上が四ヶ国連合艦隊に
「お情けで関門海峡を通航するのを認めてやるよw。感謝しな!!(意訳)」
と説明したが、四ヶ国連合艦隊はこれを認めず、下関に陣取る奇兵隊らに攘夷の行なうべきでない事を説いたが、皆、頑なに攘夷を貫いた。

説得が失敗に終わった井上は8月3日、毛利家に対し、高杉の謹慎を解除して国難にあたらせて欲しいと提案。毛利家が提案を受け入れ高杉は自由の身になる。井上は高杉に「外国と戦争を避けようとしたが、長州は誰も話を聞いてくれない。逆転の発想でとことん外国と戦争して、骨の髄まで外国に勝てないと分かるまで戦争させる事にした(意訳)」と提案。高杉はこれを受け入れて、同月5日の御前会議で井上、伊藤と徹底抗戦を主張して受け入れられ、翌日、高杉が政務座に就任し、井上は小郡代官に就任し、指揮命令系統の再編を行なった。

連合艦隊を迎え撃つ長州の布陣は2000名の人員と70門の大砲を前田、壇ノ浦、洲崎、弟子待の四か所の砲台に配置したが、大砲は規格、射程、性能がバラバラ、人員もヤル気のある奇兵隊や膺懲隊とヤル気の無い正規の武士団などバラバラで、前回の戦いで受けた損害から回復しきれてなかった。

元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。

翌日も連合艦隊は砲撃と上陸を行い、連合艦隊側が2600名の陸戦隊を上陸、武器もエンフィールド銃で武装され、ゲベール銃や火縄銃、槍や弓矢で武装された長州側と交戦。

損害はイギリス側が本国に送った報告でイギリス軍が戦死8、負傷51、フランス軍が戦死4、負傷5となっている。

長州軍は戦死13(奇兵隊6、膺懲隊7)、負傷27(奇兵隊16、膺懲隊11)。

長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだ。

フランス海軍士官アルフレッド・ヴィクトル・ルサンの『フランス士官の下関海戦記』(樋口裕一氏訳)によると、
「大砲を船に積み込むのに日本人等は我々の手伝いをしてくれた。彼らは軍人が見てない処では戦争の中止を満面の笑みで受け入れた。我々の砲弾の爆発する音を声で真似しながら、彼らは戦争なんか大嫌いだ!と大声で話していた。」
と長州の民衆が武士に愛想を尽かしていた事が理解出来る。

四ヶ国連合艦隊と長州の交渉は元治元年(1864)8月8日から高杉が表舞台に立ち、行われた。

当時、山口滞在の五卿や、長州に亡命していた攘夷派浪士たちは、高杉のやる事に反対し、刺客まで差し向けて来たので、高杉が逃げる羽目になった。それでも高杉はなんとか同年8月14日に内容として関門海峡の通航を妨害しない、砲台は再建しない、新築しない、石炭、食糧、薪水などの必要品は売り渡す、という講和を纏めた。

賠償金は一応支払うと約束するが、実は暗黙の了解があり、幕府が金を出せば毛利家に支払い義務はない。

毛利家は「我々に責任はない。天皇と将軍に責任がある(意訳)」と押し通した。
四ヶ国は毛利家の言い分は筋が通っていると判断した。天皇、将軍、毛利家と同じ穴の狢と断定している。嫁の父親である天皇に頭が上がらない将軍は横浜鎖港をガチでヤル気になり、生糸の輸出を全面的に禁止すると公言した。
嫁の父親である天皇が攘夷派の日本代表で、四ヶ国からすれば毛利家の親分と見ている。池田屋事件も禁門の変も攘夷派の内ゲバなので、未来は少しも明るくない。
この時の日本の大口取引先はイギリスである。
駐日公使・オールコックは攘夷を実施する長州を見せしめに叩いて、天皇や将軍に警告を与えるためといわれている。
オールコックは攘夷の停止は幕府の義務である。それをヤラないなら四ヶ国連合艦隊が
「幕府に変わってお仕置きよ」
になり、請負代金を幕府に支払わせる、という理屈だった。幕府が支払いを認めれば、長州は賠償金を免除される。

幕府はオールコックの理屈を受け入れ、全面的に認め、以後は安政の五カ国条約を忠実に守ると約束した。

幕府の勘定奉行・小栗忠順は長州の賠償金300万ドルの支払いを分割払いしたのだが、150万ドルまで支払いを終えたトコロで幕府は倒壊。残額は「日本代表が賠償金を払う」という契約ゆえに、太政官に引き継がれた。高杉もその展開が待ってるとは思わなかっただろう。



高杉はこの時、「これでダメなら朝鮮で長州亡命政権だな(意訳)」と国外逃亡を覚悟していたと伊藤博文は伝える。

当時からよく言われた長州領内から島の一つを占領する計画は当時の記録(外国側、長州側)に無く、元ネタは明治42年(1909)7月4日、伊藤博文が軍艦で関門海峡を通過した際に「あのとき外国側が彦島寄こせとアピったけど、オレらがゴネたから話が有耶無耶になった。ゴネてなけりゃ、彦島は香港、馬関は九龍半島になっていたねw(意訳)」と秘書官の古谷久綱(ふるやひさつな)に雑談として話したのを古谷が翌年、伊藤の伝記を記した際、この話も載せて出版した。この話の裏付けを取らずに研究者が採用した結果、談話だけが独り歩きした。

決起


攘夷戦争をしている最中の同年7月27日、毛利家は当主親子と分家筋の当主が三田尻で集まり、緊急対策会議を行い、禁門の変は殿様の指示ではなく、一部の跳ねっ返りによる暴発と話を結論づける。しかし、幕府は毛利家が国司信濃に宛てた進発状を押収していた。このため、会議の決定で幕府との対話が通じない事が分かった。
9月2日、高杉は山口に入り、11日に萩に帰るのだが、毛利家の会議に参加した形跡はない。
毛利家では9月1日、山口に在住する家臣団に長州征伐に対して武備恭順を貫くと布告。
椋梨藤太らが萩から山口に押しかけ、「帝の住まいに砲弾をぶち込んだのだから、謝罪恭順が当たり前だろう!!(意訳)」と殿様に強く迫り、殿様は「その通りだ(意訳)」と前言を翻す。奇兵隊の山縣有朋らはこれに反旗を翻し、徹底抗戦を主張するなど、大混乱だった。

9月25日、山口の政事堂内で長州征伐の対応を巡る御前会議が行われた。
椋梨が「帝による長州征伐など御家の恥。この恥をそそぐには、攘夷を行い、御所に砲弾をぶち込んだ連中を自らの手で処断して帝に謝罪して赦しをもらうのが一番(意訳)」と主張。
これに対して井上馨が「武備恭順一択。たとえ帝相手でも謝罪恭順などあり得ない。ましてや幕府風情に頭など下げられるか!!(意訳)」と強硬論を主張する。
会議は武備恭順を採択して閉幕したが、その夜、井上は刺客に襲われ、50針を縫う重傷を負い、九死に一生を得る。
刺客の1人・児玉愛次郎(こだまあいじろう)は襲撃の理由を「井上が諸隊を率いて反対派を襲撃しようとしたから、先手を打った(意訳)」と維新後の聞き取り調査に答えていた。
同じ頃、周布政之助が前途に絶望して自刃していた。

それまで攘夷を指導していた前田孫右衛門らは10月6日に失脚、武備恭順から天皇に対して謝罪恭順へ舵を切り、椋梨らが10月24日までに毛利家の実権を握る。

その頃、高杉は妻が妊娠中で10月5日に待望の長男を出産し、それに立ち合っていた。今でいう産休のハシリである。

産後の経過を見た後、産休を切り上げて10月24日深夜に出奔。翌日、湯田町高田村にある井上馨の自宅を見舞い、27日に奇兵隊の屯所を訪問。惣督・赤禰武人が体調不良で療養中のため。山縣有朋と相談するも不調に終わる。高杉は谷梅之助と名前を改め、馬関経由で博多を訪ね、筑前福岡黒田家(禄高52万石)の尊攘派と連絡を取り、九州各地の尊攘派を糾合して長州の実権を取り戻そうと試みたが、不調に終わる。

高杉は山荘を管理する野村(のむら)望東尼(もとに)のところに潜伏したが、11月14日宛で甥の百合三郎に「脱走したのは身の危険を感じたからだ。オレを捕まえるのは殿様を騙る悪者の命令だ。勅命も偽物。具体的な場所は教えられないが、両親の事は忘れてないし、妻には息子を立派な武士に育てて欲しい(意訳)」と手紙を記している。

高杉が身の危険を感じたのは正解だった。
椋梨派が作成した「切腹者リスト」の中に高杉の名前が記されており、罪状は「奇兵隊を煽り、幕府の使節団を殺害するなど、不義不忠の輩である(意訳)」とあり、要は朝陽丸事件の首謀者にされたのである。高杉にとっては不本意であるが…

長州征伐は征討軍15万を揃えた幕府が11月18日総攻撃予定とした。毛利家では三家老*31を11月11、12日に切腹、四参謀*32は12日に打ち首、椋梨派による謝罪を確認した幕府の征討軍は12月27日に解兵し、第一次長州征伐は終了。この後、八重臣*33が12月19日に清水以外を打ち首に、25日に清水を切腹させるという一幕がある。

高杉は博多から11月25日馬関に現れ、三家老、四参謀の死を聞いて愕然とし、分家筋の長府毛利家の菩提寺・功山寺に潜伏している三条実美らを連れてアメリカに亡命しようと誘ったのだが、三条に断られ、逆に失地回復せんかいと発破をかけられた。この時、御盾隊の指揮官で松蔭門下生の天野御民(あまのみたみ)が高杉と接触。長州内部の実情を知る事が出来た。

天野は赤禰武人、山縣有朋、時山直八ら奇兵隊の幹部連中が萩の椋梨派と会合を重ねて、獄中にいる上記の八重臣を助ける代わりに椋梨派から提案を受け、それを受け入れるのではないか?と危惧している。他の諸隊はそれを聞いて動揺しており、指揮官の中には武装蜂起して椋梨派を打倒し権力を握るべきだ!と騒ぐ人たちがいると高杉に伝えた。

高杉は天野の話を聞いて12月12日、長府にある御盾隊の駐屯地を訪れる。御盾隊惣督・太田市之進(おおたいちのしん)(後に御堀耕助(みほりこうすけ)と改名)や遊撃隊軍監・高橋熊太郎(たかはしくまたろう)らとクーデターの相談を行う。そこに赤禰武人が訪れて、高杉らにクーデター反対を訴え、幕府との妥協を提案。高杉が「無礼な事をいうな!!分をわきまえないといかんよ。赤禰はたかが百姓だ!!百姓が毛利家譜代の家臣であるオレと対等に話す根拠などない!!(意訳)」と罵り、更に「これから萩を奪いとるぞ、者どもオレに続け!!(意訳)」と吠えるように叫んだと天野は記すが、誰も賛同しなかったので、高杉は失望し、その場を去る。
赤禰はなおも高杉を説得しようと奇兵隊名義で三条実美にお願いして高杉を呼び、三条に高杉を説得させた。高杉は話を聞いたフリをしてその場を去り、馬関の伊藤博文を頼る。

馬関に来た高杉は伊藤、前原一誠ら50人を引き連れて12月15日の深夜、長府の功山寺にいる三条実美らを訪ね、高杉が「我々は馬関を取って根拠地とし、椋梨派と戦う。今は力こそ正義だ!!(意訳)」と伝え、馬関へ向かったと護衛の土方久元は記している。三条らは失地回復しろと発破をかけたが、まさか本当に武装蜂起するとは思ってなかったらしく、三条と一緒にいた三条西季知、東久世通禧が15日付の日記に「オイオイオイ、高杉死ぬわ(意訳)と記載している。

高杉は12月16日、馬関の新地会所で武装蜂起。大義名分を記した檄文を各地の高札場に貼り付ける。それによれば「殿様はご先祖様の遺志を継ぎ、正義を貫こうとしているが、俗物どもがその場しのぎで帝に頭を下げ、幕府に媚び、正義の武士を虐殺、敵を領内に迎え入れ、長州を売り渡そうとしている。我々が俗物を退治し正義を回復して、領民を安堵させるのだ!!(意訳)」と記している。

翌年1月2日、赤禰が長州を出奔。3月10日付の養母宛の手紙で「高杉が蜂起して、椋梨がキレて八重臣を皆殺しにした。全て水の泡だ。薩摩の西郷隆盛*34に助力を頼む(意訳)」と記し、大坂に向かうも不調に終わる。この後、内戦回避を諦めきれない赤禰は幕府の密偵として新選組の近藤勇と共に長州に潜入しようとする。

高杉と椋梨の戦いは翌年1月6日、太田・絵堂の戦いで転換点を迎える。この戦いで勝利をおさめた高杉は同月16日までに椋梨派を萩に追いやり、長州各地を占拠し、萩を包囲する形になった。高杉も椋梨も自身を「正義派」と自称し、相手を「俗論派」と酷評し、民衆に「正義は我にあり」と訴えていた。高杉たちに勢いがあるとみると、民衆は高杉たちを支持する様になる。
更に椋梨派が八重臣を処刑した事で高杉たちは椋梨派と妥協出来ないと背水の陣で臨む覚悟を決めた。加えて椋梨派はイザとなれば殿様親子を前面に出せば、高杉や井上馨あたりは世子の贔屓で出世した人物である為、矛先が鈍ると読んで、軍事面での動きが芳しくなかった。
実際、世子が椋梨派と共に出陣するという話を聞いた井上馨は世子をお諌めする為に割腹自殺をすると豪語。赤禰が脱走した後、奇兵隊を率いて高杉に味方した山縣有朋は「井上さんは大げさだ。こんなの、ご先祖様の名前が書かれた札を世子に見せて、これに弓引くのか?と問いただせば良い。オレにはタダの紙切れだが、世子には霊験あらたかなご先祖様の魂が見えて攻撃出来ない(意訳)」と儒学的な価値観に絡めて、親不孝者と罵られたくないなら、オレたちに味方しろ、と解決案を提示。
高杉か井上に宛てた書簡で「力こそ正義。忠義の理由など後付けでいくらでも作れる(意訳)」と井上を元気づけた。

1月11日付で毛利家より高杉は廃嫡されて再び「育み」扱いとされる。

1月15日には萩城下にいる中立を標榜する家臣200人が鎮静会を名乗り、高杉と椋梨の内ゲバを仲裁しようと殿様親子と対談。その間、高杉、椋梨共に活動は控えた。28日に高杉らの要望が通り、殿様の命令で椋梨派が失脚していくのだが、椋梨派は2月11日に鎮静会を襲撃し、壊滅させた。生き残りの鎮静会メンバーが高杉に助けを求め、14、15両日に高杉らは萩城下を占領し、殿様親子の身柄を確保し、権力を奪取、殿様名義で秩序の回復を訴えた。椋梨派は海路、萩城下から脱出した。

生き残りの鎮静会は3月15日に干城隊(かんじょうたい)と名前を改め、今や長州暫定政権の主・高杉を支える与党になった。高杉を支えていた奇兵隊ら諸隊は政権交代に功績ありと自己主張が強く、高杉の話を全く聞かなかった。高杉は諸隊をクーデターで使ったのは苦し紛れの一手で、役目が終われば大人しくしろ!!と権力から遠ざけたのだが、それが諸隊には不満だった。高杉は諸隊に対して「外敵の侵略に備えて訓練してろ(意訳)」と命令した。

更に高杉はこの後、回復私議(かいふくしぎ)と題する檄文を記し、「内政を整え、長州を富まし、軍備を刷新すれば天下に怖いモノなし(意訳)」と高杉政権の方針を伝える。加えてイギリスに行きたいとか、馬関は開港して外人を招いて貿易を盛んにしようなどと口にしていたら、政治に参加出来ず不満を抱く諸隊、毛利家内部の攘夷派、清末、長府など毛利家の分家筋と大喧嘩、高杉包囲網を敷かれ刺客を差し向けられるハメになる。毛利本家も馬関開港を中止。居場所がなくなった高杉は政権の座を捨てて四国に出奔した。井上馨にも刺客が差し向けられ、九州別府に潜伏。伊藤博文も朝鮮に亡命しようとしたが、タイミングが合わず、馬関に潜伏していた。高杉はこの逃避行でおうのという女性を共にして旅をしていたとある。


薩長同盟と長州征伐

さて、高杉や井上馨がトンズラしていた頃、長州では内政の刷新が行われていた。それまでの行相府や国相府を改めて最高意思決定機関として政事堂を定めた。毛利家の方針は家老全員の合議を経て、殿様が認可して決定。首席家老は山田宇右衛門(やまだうえもん)*35。
これまで政務座が行なっていた仕事は家老の下に一般政務を担当する用所役、情報収集および旅費管理を司る遠近方と改められ、民政・財政担当の蔵元役はそのままとなった。
用所役、蔵元役は大組から各10人程が選ばれた。各筆頭は手元役と呼ばれた。用所役、蔵元役に、殿様側近の目付衆が加わった30人弱の集団が毛利家の実務を行う。彼ら実務官僚の意見をまとめるのが用談役である。用談役が家老に伝えて同意を得て、毛利家は動いた。更に本拠地を山口においた。

5月になり、広沢真臣が用所役に就任、同月13日には桂小五郎が逃亡先の但馬から山口入りし、翌日殿様と謁見。そこで桂は「死んだふりをしてやり過ごします。その間に人心を一新し、民政・軍制をフルモデルチェンジして、時間を稼ぎます(意訳)」と述べた。同月27日、桂は用談役心得として実務官僚の頂点に立つ。

桂は薩長同盟を志向し、薩摩側も同盟を志向するなど両想いなのだが、タイミングが合わないのか、すれ違いなやり取りが続く。
長州は軍備刷新の為、新型兵器を欲しがったが、徳川幕府に明確に敵対したので、安政の五か国条約で定められた正規の政府(=徳川幕府)以外への販売禁止に抵触し、直接長崎や横浜で武器の購入が禁止されていた*36。
薩摩は明確に徳川幕府と敵対する関係をこの段階では見せなかったので、長崎や横浜で堂々と武器を購入していた。
長州からしたら薩摩の要領の良さに腹を立てながらも、薩摩が買った分を横流ししろ!という感じかもしれない。桂は当時、長州に来ていた坂本竜馬や中岡慎太郎に接触して薩摩の名義を借りる事は出来ないか?と依頼し、閏5月25日に2人は京都に向かう。

それと入れ違いに高杉が四国逃避行の旅から戻って来た。高杉はこの旅の感想として「人間、強い奴を見たら怯えたり裏切るのが当たり前なんだ(意訳)」と記している。また、6月16日太田市之進宛、7月30日山縣有朋宛の手紙で体調不良をしばしば訴えるようになったと記した。

7月半ばに三条実美の護衛を務めている楠本誠一郎(くすもとせいいちろう)が京都からの情報収集の帰りに馬関に寄り、高杉と面会し、情報交換をしている。高杉は面会の内容を桂に手紙で送り、桂は7月13日に逃避行から戻って来た井上馨、伊藤博文を楠本に同行させ、長崎に出張させた。

途中、太宰府*37で三条実美らに挨拶した後、7月21日長崎に赴き、薩摩島津家の重臣・小松帯刀(こまつたつわき)と面会。長崎でイギリス商人のトーマス・グラバーから小松名義でミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結ぶ。井上は小松と一緒に鹿児島まで行き、家老・桂久武(かつらひさたけ)や大久保利通らと薩長同盟の推進、国内統一、万国対峙などについて話し合った。

長州の長崎における活動は全て幕府に網羅されていた。江戸にいる老中・阿部正外(あべまさと)(陸奥白河10万石)と本庄宗秀(ほんじょうむねひで)(丹後宮津7万石)が元治2年(1865)から京都に成立した孝明天皇と一会桑権力を解体しようと政治工作を試みるが挫折。
京都から戻った阿部正外が同僚の松前崇広・水野忠精(出羽山形5万石)らとともに4月に上洛反対派の老中*38を失脚させ、将軍・家茂を担いで5月16日に3度目の上洛を実施した。
現地の征伐軍総督・徳川慶勝*39や薩摩から派遣された征伐軍参謀・西郷隆盛*40らが椋梨政権と交渉して昨年12月27日に解兵された長州征伐の結果に不満なのである。その後の高杉による武装蜂起と高杉政権に納得出来ない江戸の幕閣は長州再征伐を実施。慶応元年(1865)*41閏5月22日、将軍・家茂は二条城に入る。

幕府は長州と交渉のテーブルにつくように命令するが、長州は無視。
9月16日、これを踏まえて幕府は家茂自ら京都に赴き、同21日に長州征伐の勅命を拝領。どんな形で終戦するのか考えてから戦争してね、という条件付きだった。


先に幕府側の動きを記すと長州に無視されている間に幕府内部では長州処分が話し合われ、最終的に松平容保が「天皇の住まいに直接砲弾ぶち込んだ奴は死罪、領地召し上げ」を実施したら落とし所が無くなるので、殿様親子の命を助ける代わりに、謹慎させ、周防一国を没収する線で事態を収めるのが一番であると主張し、幕府の方針をまとめた。

まず大目付・永井尚志が広島に赴き、長州側の代表と対談する事になった。対談の結果、長州が条件を受け入れれば終戦。そうでなければ戦争である。戦争準備に時間が欲しい長州は理由を付けて時間を引き延ばす。幕府も手の内を理解しているが、条件を伝えない事には話し合いにならないので、来るのをひたすら待つのみである。

そこで長州に潜入して内情を知る必要がある、という理由で新選組の近藤や赤禰らが永井の従者名義で広島に行くのである。

しかし、広島で永井とともに交渉のテーブルに付いた際、近藤は近藤内蔵之助の変名を用いたが即バレし、入国を拒否された。手を変え品を変えてもダメで、更に岩国まで出かけても入国拒否され、京都へ12月22日に戻り、松平容保に「高杉晋作と申す者、谷潜蔵と名前を変えており、この者が長防二州の権力を握り、二州の国民を死に物狂いに奮い立たせて、必死の勢いを作っている(意訳)」と報告している。永井も同日、容保に報告している。

赤禰は近藤達と同行するも、途中で分かれて長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認定された赤禰の言は全く受け入れられなかった。12月27日に捕縛され、翌年1月25日処刑された。

少し戻すと長州側は閏5月25日の会議で幕府の提案は「会津の罠だ」と断定、妥協はしないと決した。
高杉との権力闘争に敗れて捕まり、身柄を確保していた椋梨藤太を閏5月28日に処刑。同日、軍備の西洋化を宣言。内容は大村益次郎の項目を参照。殿様から権限を託された桂小五郎が「椋梨に味方したモノ、味方しようとしたモノ、椋梨と仲が良かったモノ、二股をかけたモノ、殿様を誹謗中傷したモノ」を片っぱしから処罰し、内部を引き締めた。

高杉は9月13日、世子に招かれて山口で意見を述べ「長州征伐は厳島の戦いに匹敵する。弱気を見せたらすぐさま味方は臆病風に吹かれる。そうしない為に、上層部が戦う顔を見せろ!!(意訳)」と励ました、とある。ここから9月26日、高杉は用所役に起用され、育の扱いを外された。同日、毛利家はさらに高杉と桂小五郎に改名を命じ、高杉は「谷潜蔵」、桂は「木戸貫治」としている。高杉は朝陽丸事件で使節団一行へ殺傷指示(これは濡れ衣なのだが…)、桂は禁門の変に至るまでの尊攘派としての活動が幕府から睨まれており、それをごまかすためだった。

10月12日、高杉と伊藤博文は馬関に立ち寄ったイギリス公使ハリー・パークスを訪ね、イギリス公使館の協力で薩摩名義で武器を購入出来るのはありがたいと礼を述べた。

高杉はこの頃、2つの案件に携わっている。
1つ目は馬関で商売を営む白石正一郎(しらいししょういちろう)の救済。
2つ目はユニオン号と呼ばれる蒸気船の処遇。


慶応2年(1866)1月21日、京都において薩長同盟*45が締結。

高杉は白石とユニオン号問題に目処がつくと、毛利家から馬関を中心に勤務したいと申し出て許可を貰い、家族に萩から馬関に移るように沙汰した。萩より馬関の方が情報が集めやすいからである。白石の件もあったかも知れない…

長州征伐では幕府の老中・小笠原長行が慶応2年(1866)2月7日、配下を引き連れ広島で長州処分を作成し、それを長州に伝えて、長州が認めたら終戦なのだが、当然、長州は受け入れない。交渉するする詐欺で時間を引き延ばす。

この間、高杉は妻と愛人の板挟みになるのがイヤで薩摩に出張したいと木戸に申し出て、木戸も「尻ぬぐいはオレに任せろ!お前は仕事しろ!!(意訳)」と高杉に返している。結局、薩摩出張はキャンセルになり、白石や友人たちの気遣いで妻・マサと愛人・おうの同席の酒宴が開かれ、困惑する高杉の表情を酒の肴にしながら、友人たちは酒宴を楽しんだ。

高杉は板挟みを嫌い、仕事に没頭すると称して海外渡航を目論み、伊藤博文に同行を求めると話にノッてくれたので、伊藤は井上馨に話を打ち明けた。
高杉は3月13日に木戸に宛てた書簡で「海外に行きます。探さないで下さい。詳細は井上馨に聞いて(意訳)」と記し、21日には高杉と伊藤はグラバーの手引きで馬関から長崎に移動。
木戸は阻止しようと馬関に駆けつけたが、間に合わなかった。長州を出立する際、井上馨が上手く金を工面して高杉に千両、伊藤に500両を用立てたが、28日付けで木戸、井上に宛てた書簡では「金くれ!!おうのの面倒もヨロシク!!(意訳)」と記している。
井上には別件で手紙を記し、海外に行ったフリをして長崎のイギリス公使館員・ラウダのもとに潜伏して情報収集をする*46、細かい話もあるから、長崎に来て欲しい、おうのの面倒を頼むとある。
4月8日、伊藤が長州に戻り、毛利家に対してイギリスにいる留学生へ資金援助と自身と高杉の渡航費を求め、2人に1500両の支給が認められた。この時、高杉は4月5日付でおうの宛の手紙を伊藤に託している。内容としては「色々言われると思うが大っぴらに出来ない関係なので辛抱が肝要。生活費は定期的に10両送る。身体はいたわってね(意訳)」とある。
同じ頃マサにも手紙を記し、こちらは直接高杉から送っている。内容としては「おうのと同席の酒宴を催してゴメンナサイ。アナタの面子を潰している事は百も承知です。息子や両親の面倒を観てくれているアナタは私にもったいない妻です。アナタの好きな着物を何着でも買ってきます。これで赦して下さい。私を見捨てないで(意訳)」とある。
共通しているのは長崎の写真家・上野彦馬(うえのひこま)に撮影させた写真を同封していること。高杉的に遺影写真のつもりで送ったのではないか?と後世、言われている。

長州では4月10日に第二奇兵隊の指揮官・立石孫一郎(たていしまごいちろう)が幕府の倉敷代官所、同月13日には京都見廻組・京都見廻役で備中浅尾を治める蒔田広孝(まいたひろたか)(禄高1万石)の陣屋を襲撃。「倉敷浅尾騒動」と後世呼ばれた。すぐ長州が自ら脱走者の長を討伐するというハプニングである*47。

長崎で情報収集をする高杉は長州征伐が近くなって来たと考えて、長州に戻る事にした。

この時、グラバーから小さい蒸気船あるけど、買わない?と持ちかけられると、高杉は独断で購入契約を結んだ。イギリス製のテントウ号(鉄製蒸気船・排水量94トン、30馬力)で武装も後装式アームストロング砲が3門備えられており、これが高杉の心を鷲掴みにした。
4月29日夜、馬関にグラバーやテントウ号と来航した高杉は翌日、使者を派遣して購入を知らせる手紙を山口の政事堂に送る。続いて5月2日に山田宇右衛門、木戸孝允、広沢真臣ら政事堂の要人宛に手紙を記し「もう幕府と開戦だと思って蒸気船買った。グラバーに支払いお願い(意訳)」とある。
前日、広島にいる小笠原長行から長州処分として松平容保案とも言うべき10万石削封、殿様親子隠居などが伝えられ、5月20日までに請書を提出するように命じた。この処分を聞いた長州側では受け入れる訳には行かない、徹底抗戦だ!!と5月3日付で高杉に宛てた山田宇右衛門、木戸孝允、広沢真臣の3者による手紙に記されており、更に蒸気船の購入は認める。船の責任者に高杉を充てるとある。
5月4日にはグラバーに船の代金36205両2分が支払われ、長崎に戻って行った。最終的に船の名前は丙寅丸(へいいんまる)と命名。
長州側では陸軍は大村益次郎によりフルモデルチェンジされたが、海軍は丙辰丸(木製帆船)、庚申丸(木製帆船)、癸亥丸(木製帆船)、乙丑丸(木製蒸気船)の4隻と前回の攘夷戦争より海軍力は落ちており、高杉がどさくさ紛れに購入した丙寅丸は貴重な戦力となった。
この頃、高杉は情報収集で金を使い過ぎたのか、毛利家の蔵元役から公金使い込み疑惑を持たれてしまい、まずは1500両を返金して欲しいと催促された。高杉は井上馨にとりなしを頼み、井上が高杉に返金の意思はあるとしても、今はその時ではない、と蔵元役を説得したのだが、最終的に高杉が死去し、この1500両は返金されなかった。後世から高杉が1500両着服した、とか井上が高杉名義で丙寅丸の購入代金と合わせて会計処理をしたとか言われている。

他にも、周りがフグ鍋を食べている時でも、高杉と山縣有朋は鯛鍋を食べてフグの毒で食中毒になりたくないと公言するなど、一定の用心深さを兼ね備えた逸話をこの頃、残している。

長州の交渉するする詐欺にしびれを切らした幕府は5月9日、広島に出頭している殿様親子名代の宍戸備後助(ししどびんごのすけ)、楫取素彦(かとりもとひこ)を不審の廉ありとして安芸広島浅野家(禄高42万6千石)の手で逮捕、拘禁した。また、最後通牒として5月29日までに長州が処分を受け入れない場合、6月5日を期して一斉に進軍を開始する旨を通達した。加えて世子、高杉、木戸、広沢、前原、御堀ら12名に出頭を命じたが、毛利家は脱走、行方不明、既に死去など適当な報告をしている。高杉は「妻子を捨てて脱走中(意訳)」とある。長州側は幕府に陳述書を提出してはいるが、幕府は交渉するする詐欺と見なして5月29日長州に返却、互いに平和的解決を放棄した。

5月24日、イギリス公使パークスが横浜から鹿児島に赴く途中で馬関に立ち寄り、高杉と伊藤がパークスを訪問。高杉は公使との会見を殿様は望んでいるが、戦争準備で忙しいのでかなわないことを伝え、公使が鹿児島から戻る途中で馬関に立ち寄るなら、こちらは必ず公使を歓迎すると述べた。その後、パークスは鹿児島に5日滞在し、島津久光や西郷隆盛らと会談している。

高杉は5月27日、山口の政事堂から呼び出されて海軍御用掛、6月6日には海軍総督に任命された。これは長州の実権を握っていた木戸が政治主導で軍に介入する事に対して海軍が反発するので、木戸と仲良しで殿様のお気に入りである高杉をパイプ役にして反発を緩和させる役割が期待された。高杉も意図を理解しているので、6月7日前原一誠宛の手紙に「海軍を陸軍の上において、陸軍の暴走を抑え、秩序を再構築する(意訳)」とある。

孝明天皇や徳川幕府は謝罪と反省が足りないと、同年6月7日、第二次長州征伐を敢行した。

大島口、芸州口、石州口、小倉口の4方面で徳川幕府の征討軍と対峙。

大島口は最初、幕府海軍と伊予松山松平家(禄高15万石)や幕府陸軍が大島を上陸、占領した。報告を受けた毛利家は大村益次郎が当初、戦力不足から大島を放棄する提案をしたが、これを認めると民衆が毛利家に失望すると判断した山田宇右衛門や木戸孝允が高杉が率いる長州海軍と世良修蔵率いる長州陸軍に奪還を指示。高杉が7月14日夜、丙寅丸単独で幕府海軍3隻に奇襲を仕掛けて混乱させ、その間に別ルートから小舟で世良たちが翌日夜明け前に上陸、激戦の末、7月18日、島を奪還した。

芸州口は安芸広島浅野家が不参加を決めたので、先鋒の近江彦根井伊家(25万石)と越後高田榊原家(15万石)の徳川四天王の二家が6月13日に攻め込んだが、勝海舟が言う
「紙くず拾いみたいな恰好でサルみたいにすばしっこく動く」
長州軍の動きに対応不能、大惨敗を喫した。

この後、幕府は洋式歩兵を投入し、戦線は膠着した。

石州口は石見津和野亀井家(禄高4万3千石)と交渉がまとまり、無傷で通過、長州軍が石見浜田松平家(禄高5万1千石)に侵攻、7月18日に浜田城を攻め落とした。当時、勃発した世直し一揆を鎮圧して石見銀山を占領し、代官所を本拠に軍政を布く。

小倉口は関門海峡の制海権を幕府海軍が掌握していたが、信号艦(旗艦)の富士山*48が応戦中、主砲が暴発して、他の大砲にも不具合がないか調べる為に応戦不能、ただの輸送艦に成り下がり後退、制海権を取った長州軍が赤坂海岸に上陸、激戦の末、小倉小笠原家の小倉城を8月2日に攻め落とした。高杉は大島口から7月29日付で馬関口海陸軍参謀に任ぜられ、奇兵隊惣督の山内梅三郎(やまうちうめさぶろう)が馬関口海陸軍総指揮に任ぜられた。山内は家柄で選ばれた17歳の好青年でお飾りのため、実質的に高杉が仕切っていた。


長州征伐は長州の勝利に終わり、天皇と将軍の面子丸つぶれ。

しかし、高杉はこの頃、戦争から経済へ軸足を向けていた。上記の前原一誠に後を託すと、10月10日に馬関を訪れた薩摩の五代友厚と12日に会見。上記の広沢と五代の協調営業を発展させた馬関商社を設立し、関門海峡を封鎖して薩長で産物を買い上げて大坂に持ち込む計画だった。高杉は白石を馬関商社の長州側代表に起用する考えを示した。薩摩側の代表は山中成太郎(やまなかせいたろう)という大坂の豪商・鴻池の分家筋の人間で高杉とは長崎で面会したことがあるから、知らない仲ではない。
10月15日、高杉は体調不良で出席しなかったが、五代と木戸、広沢で馬関商社設立の話し合いが行われ、莫大な費用が必要な事から長州は話から手を引き、馬関商社は消失した。これにより、白石は没落へ坂道を転がり落ちる。

五代の高杉に対する感想は10月17日付、薩摩島津家家老・桂久武宛書簡によると、「高杉の先は長くない。高杉がいなくなると長州は寂しくなるな(意訳)」と記している。

この後、高杉は馬関の外れに新居を構え、「東行庵」と名付けた。11月1日のことらしい。世話はおうのが主に見てくれた。諸隊の幹部も高杉を見舞い、表情をみて先が長くないと悟り、諸隊を導くリーダーは誰ですか?と尋ねると、
「一番は大村益次郎、二番は山田顕義だね(意訳)」と答えている。さらに次を尋ねると、「知らんがな(意訳)」と答えた説と答えなかった説の逸話が存在する。
諸隊幹部達は、病床の高杉に木戸や広沢など山口の政事堂幹部、海軍や他の諸隊への調整役を頼む。必ずしも良好と言えない政府、陸軍、海軍の間で高杉の影響力が窺えるし、そこに高杉の存在意義があるのかも知れない。

新居で療養生活を過ごす様になり、外国人医師による診察も受け入れたり、父親から萩で療養したらと提案をされたが、近いうちに帰省するよ、と返信した。11月24日付に記した父親宛の手紙には「今は殿様親子も山口で生活しています。我が高杉家も山口に屋敷を構えましょう。土地と建物はオレが工面したので、父親や母上、マサは大船に乗るつもりで来てください(意訳)」と屋敷をプレゼントしたとある。完成したのは高杉死後の話で、高杉家は明治10年(1877)までこの屋敷に住んでいた。12月24日付に記した父親宛の手紙には「周りの友人たちは死期が近いのを悟ったのか、徐々に去っていくのを感じます。淋しいです。自分はもう過去の人になったんだな、と。残された我が子の成長をみるのが今は唯一の楽しみです。高杉家の子孫を残せたので最低限の役割は果たしました(意訳)」としている。

12月5日、正二位・権大納言・征夷大将軍に徳川慶喜は任ぜられた一方で12月25日、孝明天皇が崩御し、朝廷は睦仁(むつひと)親王(しんのう)(明治(めいじ)天皇(てんのう))が践祚、即位。今までの公武合体が崩壊した。日本中が混沌としていた…

最期

高杉は慶応3年(1867)1月17日付で父親に宛てた手紙に「帝が亡くなりました。正義の長州を苦しめた天罰デス。帝が代替わりしたので、長州の復権もそう遠くないでしょう(意訳)」と記している。
高杉の世話はおうのが観ているが、衰弱が目に見える程にハッキリしていると後年、回顧録に記している。
世子も心配したのか、2月15日付の手紙で高杉に元気になったら顔を見せてくれ、と記し、腕利きの医師3人を派遣して高杉の回復に全力を尽くせ、と檄を飛ばしている。
坂本竜馬が妻と一緒に2月10日、馬関に来訪していたが重病の高杉に気を遣うのか、高杉に面会していない。3月21日には中岡慎太郎が馬関に来訪し、高杉に面会しようとしたが、面会謝絶と言われて諦めたとある。
同月24日には小忠太夫妻と妻・マサが高杉と対面、「お粥しか食せないくらい衰弱している(意訳)」とマサが述懐している。

同月29日には新規で家禄100石を与えられ、正式に高杉を当主とする谷家が誕生した。

運よく高杉と面会出来た長州海軍の河野又十郎(こうのまたじゅうろう)や高杉の治療に携わる毛利家の典医・長野昌英(ながのしょうえい)らは政事堂の幹部・松原音蔵(まつばらおとぞう)から高杉の事を聞かれると「高杉さんは奇兵隊や農民は必ずオレたちに牙を剥く。今のうちに対策を講じておくんだ(意訳)」と伝え、松原は4月16日付の楫取素彦宛の手紙に「徳川や会津を潰すのが先か、長州がコケるのが先か、笑えない話ですね(意訳)」と記し、高杉が後に勃発する世直し一揆と脱隊騒動を予想していた、と先読みの鋭さを感心している。

高杉は慶応3年(1867)4月13日、東行庵を離れて療養の為に借りていた馬関の庄屋・林八郎右衛門(はやしはちろうえもん)の屋敷の中にある別室にて病死した。
病床で介護していた妻・マサは回顧録の中で「来客者が時勢の話をすると高杉は感情が昂り、イライラを募らせていました。特に井上さん(馨)や福田さん(侠平)に対して『ここまでヤッたんだ、負けてもイイなんて死んでも思うな、絶対勝て!!』と言って亡くなりました。家族には『しっかりな』とそれだけでした(意訳)」と記している。

もう1人の介護者・おうのは回顧録の中で
「亡くなった時、間近にいたのは私と野村望東尼*51、桧了厳(ひのきりょうげん)*52の3人。寝返りが打てないほど衰弱してました。高杉が『山縣(有朋)のバカはドコだ!』と尋ねると、了厳が『結婚式の主役だからと、今日は来ないと言ってます』と返し、高杉が『かわいい妻を泣かすなよ、オレみたいにw』とつぶやき、そのまま亡くなった(意訳)」とある。

奇兵隊日記には4月14日午前9時に高杉死去の一報が入ったとある。

高杉は長男に家督相続の手続きをしないまま病死したため、父が高杉の代わりに家督相続の手続きを全て済ませ、長男・梅之進に谷家の家督相続を許され、高杉の命日は4月14日に変更された。

奇兵隊が主催となって高杉の葬儀は4月14日〜16日にかけて神式で行われた。小忠太夫妻や妻・マサなどが出席した。

高杉家としては4月19日に仏式葬を行い、24日には初度の法事が行われ、こちらには奇兵隊主催の葬儀に参加出来なかった木戸孝允が参加している。

墓は当時奇兵隊が駐屯していた厚狭郡吉田村の清水山中腹に作られた。

明治21年(1888)4月、高杉は靖国神社に合祀され、栄典は明治24年(1891)4月8日に正四位が授けられた。

明治43年(1910)5月20日、上記高杉の墓の隣に高さ360cm、幅150cm、厚さ40cmという巨大な高杉晋作顕彰碑が建立され、除幕式が行われた。数百人が参列する中、来賓で来た井上馨が炎天下で長時間にわたる大演説をしたため、参列者から熱中症で倒れる人が続出した。


作られる高杉

今風にいえば、高杉は『言ってない名言録』の持ち主といえる。上記の「よっ、征夷大将軍!!(意訳)」や彦島を巡るやり取りが該当する。武装蜂起した場所も最初は違った。
高杉が元治元年(1864)12月16日、馬関の新地会所で武装蜂起したのだが、現在では「功山寺挙兵」と呼ばれている。伊藤博文は娘婿の末松謙澄(すえまつけんちょう)に「高杉は馬関で挙兵したよ(意訳)」と話し、戦前は馬関挙兵が定説であった。現在、長府は下関市に含まれているが、江戸時代、長府と馬関=下関は別々の街であり、昭和12年(1937)3月に長府が下関市に編入された。明治になってから編纂された長府毛利家の歴史書には高杉が功山寺にいたことすら記載されていない。天誅組に担がれた中山忠光を殺害するほどだから、朝陽丸事件の主犯扱いになる高杉は存在が迷惑だった。
流れが変わるのは大正9年(1920)。功山寺の門前に「高杉晋作回天義挙碑」が建立され、高杉を持ち上げる様になる。戦後、山口県選出の国会議員や下関市が長府を観光事業に使うため高杉を持ち上げ、功山寺を宣伝し、功山寺挙兵を定着させた。山岡荘八や司馬遼太郎の作品で高杉を扱った作品が売れたのも拍車をかけた。

晩年の高杉を象徴する句に「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」があり、上の句の「おもしろき こともなき世に おもしろく」は高杉が作り、下の句の「すみなすものは 心なりけり」は看病していた野村望東尼が付け加えたとされる。

これも最初に田中光顕らが高杉の詩文集として明治20年(1887)に発表した「東行遺稿」には上の句の「おもしろき」が記されていない。明治38年(1905)4月12日、伊藤博文が箱根の環翠楼(かんすいろう)で官僚の林田林太郎(はやしだりんたろう)に高杉や野村の人となりやこの歌について話をすると、林田から経緯を書いてくれないか?と頼まれ、伊藤が書き記した際、「おもしろき」の言葉が付け加えられた。総理大臣まで務め、高杉と生死をともに過ごした伊藤がいうなら問題なかろう、と高杉の句は言葉が上書きされ、臨終直前に辞世の句扱いされ、高杉が上の句を書いた時点で力尽きて筆を落とし、野村が下の句を続けたという逸話まで作られて、世間に流布される。

高杉の200以上ある漢詩なども友人たちが8割以上を添削して、遺稿には原本と違う形で掲載された。これにはこのままでは下手すぎて載せられないレベルでアカンと言う説がある。

赤禰武人の家を継いだ養子の篤太郎は大正元年(1912)1月20日、史談会の講演にて「高杉さんが死の間際、赤禰に詫びたいと。赤禰は同志を助けるために交渉していたのに、オレが挙兵して全てをブチ壊し、同志を見殺しにした。オレは赤禰を罵ったが、本当に罵られるのはオレだよ(意訳)」と漏らしたと述べる。篤太郎は赤禰の復権を目指し、史談会に掛け合ったが、最終的に山縣有朋や三浦梧楼ら長州閥の政治家に遮られた。

他には江戸の街中で高杉が馬に跨り暴れた*58とか、箱根の関所を籠で強行突破したとあるが、どちらも元ネタがなく、話に尾びれがついて膨らんだ結果と言われている。

明治に入ると高杉の交友関係にも手が加えられる。高杉の相談相手は金策をする時は井上馨、悪いことをする時は伊藤博文、悩みごとは前原一誠がそれぞれ窓口だった。しかし、前原一誠が萩の乱で処刑されると、高杉の相談相手リストから前原の名前が消えていく。主に手を下したのは山縣有朋だと言われている。

評価


吉田松陰「物事の道理をよくわきまえた人物である。しかし、学問に励もうとしない。また、かなり自分の思い通りに物事を進め、独断専行の癖がある。私はかつて、久坂玄瑞を褒め称えることで、晋作の鼻をへし折って抑えつけようとした。晋作の心は、激しく反発して納得しなかった。それから間もないころ、晋作の学問の業績は急激に伸び、その議論はますます高まっていった。同志の者たちはみな、彼の凄さに襟を正して敬意を払うようになった。それからというもの、私が物事を議論する時は、いつも晋作を引き合いに出して決断するようになった。彼の言葉は、軽んじることができないものである。(意訳)」

木戸孝允「非常に優れた、才能にあふれた人物です。ただ、惜しいことに少し頑固な性質があります。将来、他人の忠告や意見を受け入れなくなるでしょう(意訳)」

久坂玄瑞「高杉、お前がNo.1だ!!(意訳)」

入江九一「久坂は隊長としては陣中に起臥し、兵士と起居飲食を共にしており、謹厳にして質素である。高杉は兵営外に泊まり、時には相合傘で、馴染の美人を引張って、陣中に入ったこともあった。しかしながら、この二人に対する兵士の人望は、全然同一であった(意訳)」

伊藤博文「一度行動を起こせばまるで激しい雷電のようであり、言葉を発すれば激しい風雨のようである。周囲の人々はただただ驚き圧倒され、誰もまともにその姿を直視することすらできない。これこそが、我らが高杉晋作君その人ではないか(意訳)」

山縣有朋「高杉、アンタがNo.1だ!!(意訳)」

山田顕義「高潔な人柄、風流な生き様、そして維新後も活躍の機会があれば偉大な功績を残したであろう(意訳)」

中岡慎太郎「物事を思い切って決断する強さがあり、いざ戦場に臨んでも決して迷うことがない。好機を捉えて機敏に動き、奇策を用いて敵に打ち勝つ者、それこそが高杉晋作である。彼もまた、西国が生んだ傑出した人物の一人だ(意訳)」

坂本竜馬「戦いの天才(意訳)」

勝海舟「年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ(意訳)」

田中光顕「兵を率いれば奇策縦横、事に臨んで神出鬼没、天衣無縫の天才児(意訳)」

三浦梧楼「高杉晋作と云う人は全く偉人であった。我輩が偉い人だと思ったのは、高杉一人だ。実に目先の早い、機敏な人で、臨機応変、奇智沸くが如くであった。その鬼謀神算、到底常人の遠く及ぶべき所でない。如何なる困難に遭遇しても、常に綽々として余裕ある態度を以て切り抜けられた事は、何人といえども、人間の浅知恵や計画、あるいはどんなに努力を重ねたとしても、絶対に人間の力が敵わない対象や領域が存在するのだ(意訳)」

堀真五郎「乱世の英雄、治世の奸雄(意訳)」

甦る高杉


  • 明治8年(1875)12月、評論新聞によると、高杉は死んだように見せかけて中国大陸に渡り、世界を巡ってこの度、山口県下関に姿を現し、「この御一新は出来損ないだ。オレが本当の御一新を見せてやる(意訳)」といって去ったとある。話を聞かされた伊藤や井上は「今、高杉がいても使いものにならんよ、あの骨董品(意訳)」とバッサリ切り捨てた。

  • 昭和8年(1933)2月、首席全権としてジュネーブに赴いた松岡洋右(まつおかようすけ)*59は、「高杉先生の気持ちを偲び(意訳)」として日本を国際連盟から脱退させた。

  • 2010年6月8日に第94代内閣総理大臣に就任した菅直人氏は自らの内閣を「奇兵隊内閣」と評した。8日の記者会見で「勇猛果敢に戦ってもらいたいという期待を込めて、奇兵隊内閣とでも名付けてもらえればありがたい」「高杉は逃げるときも攻めるときも速い。果断な行動をとって、明治維新を成し遂げる大きな力を発揮した」と称賛し「今の日本は停滞を打ち破るために果断な行動が必要だ」と訴えた。

高杉晋作が登場する作品

  • 昭和16年(1941)日活「決戦奇兵隊」では嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)が高杉晋作を演じ、キャッチフレーズは「国民皆兵。黎明日本の決戦譜!」である。

  • 昭和19年(1944)大映「狼煙は上海に揚(あが)る」では阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)が高杉晋作を演じ、上海で現地人にアジア団結と英米排撃を説く。

  • 日本テレビ系列の年末時代劇スペシャルに於いて、「奇兵隊」が1989年12月30日・12月31日に放送され、松平健が高杉晋作を演じた。 

  • NHK大河ドラマ「新選組!」ではまさかの声のみの出演*60。セリフは上記の「よっ、征夷大将軍!!」の一言のみでさらに作中では「キツネ目の侍」としか呼ばれないという、完全に歴オタ向けのマニアックな扱いとなっている。ちなみに久坂玄瑞はガッツリ登場する。

  • 鯨統一郎の幕末時そば伝では高杉の暗殺事件が扱われている。ちなみに本作で高杉の好物がサンマとされているのはあくまでストーリー上の都合ではあるが、魚料理が好物だったのは確からしい。


  • サッカー漫画「俺たちのフィールド」の主人公・高杉和也の由来は作者の村枝賢一氏によると姓は高杉晋作からとったとある。

  • スーパードクターKでは幕末時代に活躍した「Kの一族」一舎と無二の親友である。上記の「処刑の際に弁当を食べながら悠然と眺めていた」エピソードや最新の武具を揃えていた話の他、死因となった病気によって一舎がレントゲン検査の協力をする動機となったエピソードが描かれている。

  • Rise of the Roninでは、三味線を得意とする伊達男として登場(CV:小西克幸)。斜に構えている用に見えるが実際は情に厚く熱血漢。主人公のことを「運がある」とし、最初は面白がってつるみだす。しかし恩人の松陰が処刑され心が荒れた際に止められて以降は認める。攘夷派ではあるがどちらかというと幕府への反発が主であり、外国人排除に関しては横浜中華街の人達と仲が良いため否定的である。




追記、修正は奇兵隊を創設してからお願いします。

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最終更新:2026年10月15日 15:02
添付ファイル

*1 主君の衣服や調度品の管理、理髪、食事の給仕、身の回りの雑務を担当。

*2 近侍の上に立つ役職。

*3 身の回りの世話をする側近たちの統括。

*4 蒸気船2隻、帆船2隻。

*5 安政3年(1856)11月16開設。責任者は古賀謹一郎。蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は大流行、翻訳書は次第に充実して自然科学部門が置かれた。

*6 義実家の看病とある。

*7 夜に変装して松蔭に面会するなどしている。

*8 松蔭時代の松下村塾門下生。

*9 現在のフィリピン・ルソン島。当時スペインが支配していた。

*10 現在のインドネシア・ジャワ島。当時オランダが支配していた。

*11 どちらも貿易で豊かになると巧みに誘導して現地勢力から実権を奪い、支配下に置いた。

*12 幕府の通商条約を認め、積極的に海外貿易で金を稼ぎ、富国強兵を行い、日本をアピールするモノ。攘夷派の鎖国論も初代・家康は開国論であり、3代目・家光がキリスト教を遮る為の方便として一時的に用いたモノで祖法ではない、オランダや清国とは長崎で交易をしていると事実を挙げて論破している。

*13 ロシアの南下に反発したフランスとイギリスがオスマン帝国を支援して戦争となった

*14 広州で清がアロー号の水夫を海賊だとして逮捕、臨検し、アロー号が掲げていたイギリス国旗を引きずり降ろした。アロー号がイギリス国旗を掲げる期限は切れていたが、清側がそれをイギリスに説明出来なかった為、イギリス公使のパークスがぶち切れて、外交問題に発展した。

*15 長江、黄河に次ぐ中国第三の大河。淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい事に定評がある。

*16 1852年完成の全百巻からなる世界地誌。地図75枚、軍事情勢の解説付き。

*17 後の15代将軍・徳川慶喜

*18 そのテロの実行に大きく関与したのが土佐系攘夷志士の岡田以蔵と薩摩系攘夷志士の田中新兵衛である。

*19 幕府の捕り方を斬殺して指名手配されていた清河八郎も、同志の幕臣・山岡鉄舟と一緒に文久2年(1862)11月12日「急務三策」(攘夷の断行、大赦の発令、英材の教育)を政事総裁職・松平慶永に提出している。

*20 自身は開国論なのに、世論に迎合して武市ら土佐勤王党を用いて攘夷論を装っているから。

*21 構成員は高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、渡辺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰武人、山尾庸三、品川弥二郎

*22 要するに無職ニート宣言である。

*23 平安時代後期の歌人・西行

*24 丙辰丸は不参加

*25 文久3年初頭から毛利家は久坂らが士分以外の農民、町人から広く募兵することを決め、光明寺党の結成を認めた。この党は、他家の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は大名家の単位を超脱していた。

*26 信濃の小笠原家から分かれた分家筋の末裔。

*27 三条実美にお願いした。

*28 尊攘派が政権奪取を企図した攘夷親征の行幸計画。具体的には孝明天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し、親征の軍議を行い、伊勢神宮に参宮するというもの。真木和泉らは毛利家を動かして天皇の攘夷親征・王政維新を企て、討幕の機運を作ろうとした

*29 攘夷派公卿の前侍従・中山忠光を主将に迎えて発生した武装蜂起。土佐出奔の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)、三河出奔の松本奎堂(まつもとけいどう)、備前出奔の藤本鉄石(ふじもとてっせき)らが主導。8月18日の政変で攘夷派の公卿は失脚。大和行幸は偽勅とされ、天誅組は逆賊として孤立し、幕府の追討を受けて壊滅した

*30 奇兵隊士が武士階級からなる撰鋒隊士を斬殺した事件。首謀者の奇兵隊士・宮城彦介が8月27日に切腹して事件が収まった。

*31 国司信濃、福原越後、益田右衛門介

*32 宍戸九郎兵衛,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎

*33 前田孫右衛門、毛利登人、山田亦介、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島剛蔵、清水清太郎

*34 第一次長州征伐で征討軍の参謀を務めていた。

*35 慶応3年(1867)11月11日病死。54歳

*36 長州も幕府と明確に敵対する前は堂々と長崎や横浜で武器や船舶を買い付けて軍備の増強をしていた。要するに幕府に敵対しない限り、国防の為に武器を購入する事自体は問題無かった。西日本の大名家が嫌ったのは武器や船舶の購入が幕府直轄領の長崎、横浜、箱館でしか認められていない、購入履歴を公表する、取引は幕府の役人が立ち合うという手続きがイヤで、自分達の領地で直接購入出来ないのが不満の種だった。慶応3年以降はイタリア、ベルギー、デンマークとの通商条約で正規の政府以外の地方政府=諸大名へ武器や船舶の販売が許可され、最恵国待遇によりイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアにも認められた。実際、長崎、横浜の貿易統計を見ても慶応3年以降は貿易品の中で武器や蒸気船の取扱額が3倍以上に増えている。

*37 元治元年(1864)12月、椋梨派が権力を握り三条らの身の危険を感じた中岡慎太郎らが征討軍参謀で薩摩の西郷隆盛と対談し、五卿の身柄は福岡黒田家が預かり、薩摩島津家・久留米有馬家・熊本細川家・佐賀鍋島家から人を派遣・費用を提供するという形になっていた。五卿の滞在先は、太宰府天満宮の別当延寿王院である。

*38 稲葉正邦・諏訪忠誠・牧野忠恭ら

*39 尾張徳川家元当主。尊攘派の家臣に担がれている為、長州に同情的である。

*40 長州征伐派だったが、元治元年(1864)9月、大坂で勝海舟と対談し、幕府はオワコン、大名連合の方がマシと告げられ、長州征伐を最小限の被害者で留める事にした。

*41 4月7日、慶応元年に改元

*42 一会桑の取り成しで改易から謹慎に変更

*43 土佐山内家の町人。安積艮斎、高島秋帆、勝海舟らに師事。文久3年(1863)には名字帯刀を許された。

*44 上海で2挺、長崎で1挺、馬関で1挺の購入履歴があり、高杉はピストルを4挺所持している。その内の1挺を坂本に譲ったとされている。

*45 朝廷や幕府に対して長州の正義を遮る一会桑政権が敵と明記されている。薩摩も長州も会津のせいで不利益を被った被害者同士、会津が強硬論を吐いていると世論を誘導。薩摩と長州で連携しましょう、と木戸孝允が坂本龍馬に宛てた薩長同盟を記した手紙の裏書きに記されている。

*46 慶応元年(1865)3月21日、伊藤博文からイギリス公使館員・ハリソンの紹介でラウダと面会しており、その時に意気投合したとある。この時は休暇で帰国中の公使・オールコックの代わりに代理公使をしていた。

*47 長州としては過去の失敗による教訓から「君側の奸による武力制裁への正当防衛に応戦する被害者長州」を第二次長州征伐で取る事を選んでおり、これ以上「先制攻撃による評判の低下」を防ぎたいという意向があり、木戸は、この時点で幕府とは交戦したく無い為、全て立石の責任と断罪し近隣諸侯に謝罪(主犯の立石は長州側で始末)した。

*48 1865年2月、軍艦と運送船を区別する為に軍艦の名称には丸を付けない事を布告している。咸臨丸はこの段階では軍艦ではなく運送船。

*49 長州の主観では小倉は攘夷に非協力で報復に領地を占領したら会津に告げ口して文久政変を勃発させ、七卿落ちを発生させた原因だから。

*50 先代当主が39歳で急死。家督を継いだ忠忱は当時まだ4歳である。

*51 高杉と関わったことで福岡黒田家に捕らわれていたが、長州側が彼女の身柄を奪取、高杉の下で暮らしていた。

*52 慶応元年頃から高杉と付き合いだした僧侶。高杉に水墨画を教え、看病もしていたが、高杉の死後、忽然と歴史から消える。

*53 百合三郎は後に南貞助と名前を改め、イギリスに密出国留学。イギリス人女性と結婚し、日本人国際結婚第一号になる。役人や事業家を務めた。

*54 初代大阪駅長を務めた。

*55 明治元年(1868) 10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主、執政、参政、公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*56 明治3年(1870)1月、山口藩で発生した事件。奇兵隊や遊撃隊の兵隊や下士官たちが山口藩に諸隊の幹部連中が隊の公金で贅沢に遊んでも処罰されないのに、戊辰戦争を命がけで戦った自分たちは藩政改革の名の下にリストラして無一文で路頭に迷わせるのか、と反発して武装蜂起。木戸孝允が軍隊を率いて鎮圧した。

*57 後の一橋大学。

*58 徳川時代は原則的に市街地での乗馬は禁止、公務や公務に準じる領内視察を兼ねた寺社参拝などで将軍や大名が市街地で乗馬する事は許されていたが、彼等も市街地での駆け足は禁止されていたし、乗馬が可能な郊外でも乗馬中に人を傷付けたら処罰と多額の賠償を支払う規則だった。

*59 山口県出身

*60 キャストは不明