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高杉晋作

登録日:2026/09/22 Tue 21:40:34
更新日:2026/09/23 Wed 01:11:34NEW!
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高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)(1839〜1867年)

通称は晋作、他には東一(とういち)和助(わすけ)がある。
諱は春風(はるかぜ)
字は暢夫(ちょうふ)
号は東行(とうぎょう)東行狂生(とうぎょうきょうせい)西海一狂生(さいかいのいっきょうせい)東洋一狂生(とうよういちきょうせい)些々生(ささせい)黙生(もくせい)市隠生(しいんせい)研海(けんかい)楠樹小史(なんじゅしょうし)赤間隠人(あかまかくしうど)がある。
別名は(たに)潜蔵(せんぞう)が一般的だが、他には谷梅之助(たにうめのすけ)谷梅之進(たにうめのしん)備後屋助一郎(びんごやすけいちろう)備後屋三郎(びんごやさぶろう)三谷和助(みたにわすけ)祝部太郎(はふりべたろう)宍戸刑馬(ししどぎょうま)西浦松助(にしうらまつすけ)というのがある。


概説

長州系維新志士を代表する人物。
行動力と決断力に定評がある反面、思い通りにならないと投げ出しがちな一面がある。
奇兵隊創設者として後世に名前が残る。
当時の長州毛利家を仕切る椋梨藤太(むくなしとうた)との権力闘争に勝ち、後世、この勝利から維新回天の始まりと呼ばれる様になる。


生涯

誕生

天保10年(1839)8月10日、長門国萩城下・長州毛利家(禄高36万9千石)家臣の高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)(禄高200石)、その妻・ミチとの間に長男として生まれる。

1男3女(タケ・ハエ・ミツ)の唯一の男子として期待された。

高杉家の出自は一説に戦国時代の備後高杉城主・祝部氏からくる説と安芸国高田郡西浦の高杉山からくる説と2つある。これは、高杉姓が城名ないし地名から、上記の高杉の変名で祝部が前者に由来し、西浦が後者に由来するからだが、高杉家ではどちらもありという形を採用。

高杉家は長州毛利家の中で大組(おおぐみ)と呼ばれる上級武士に所属する。父・小忠太の通称は嘉永3年(1850)12月29日に毛利家当主から授かったモノで近侍*1、小納戸役*2奥番頭(おくばんとう)*3を務めた優秀な官僚である。父は文政11年(1828)7月に元服して晋作の通称を用い、天保5年(1834)頃に通称を小左衛門(しょうざえもん)に改め、更に小忠太と通称が変化している。
母・ミチは同じ家臣団の大西家(禄高380石)から嫁いでいるが、大西家の当主・将曹(しょうそう)は高杉家の上役である奥番頭筆頭を務めるエリート官僚である。高杉はその意味で生まれた時のガチャに恵まれていた。

子供の頃の逸話として親類の葬儀に父の名代で出席、葬式で出された御膳を平らげ、おかわりを要求し、持ち帰りの葬式饅頭もその場で平らげたり、城下で重罪人の斬首が行われた際、弁当を食べながら悠然と眺めていたとか、正月に家の正門で凧を挙げて遊んでいたら、来客者とぶつかり凧が壊れた。来客者の方が家柄が下なので土下座して凧を弁償しろ、と家柄をかさに着た傍若無人な振る舞いが見られた。

10歳の頃、天然痘に掛かり死にかけた。祖父・又兵衛(またべえ)が大坂の長州屋敷勤務でしばしば病気がちな事から大坂の蘭方医で私塾・適々斎塾を主宰する緒方洪庵(おがたこうあん)に診察を受けていた。高杉の天然痘を手紙で知ると緒方に相談し、緒方は長州に友人で蘭方医の青木周弼(あおきしゅうひつ)がいるから、彼に面倒を見てもらおうと、案内状を書いて長州に送った。書簡を貰った青木も既に父親の依頼で高杉の診察を行い、高杉家総出で看病の結果、一命は取り留めたが、顔に痘痕が残り「小豆餅」とあだ名された。祖父、父と蘭方医にコネがあることが幸いしたのだった。

話は前後するが高杉は7歳頃から毛利家の学問所である明倫館(めいりんかん)の小学に通学するようになる。15歳まで朝から晩まで儒学を勉強していた。15歳を超えると、大学と呼ばれる課程に進学した。
同時に明倫館で弓馬剣槍を学んだが一番出来が良かったのは12歳頃から始めた剣術で先の話になるが、万延元年(1860)4月、柳生新陰流の剣術師範・内藤作兵衛(ないとうさくべえ)から免許皆伝を授かった。

安政元年(1854)16歳の時、分家筋の徳山毛利家(禄高5万石)から長州毛利家当主・毛利敬親(もうりたかちか)の嗣養子に入った広封(ひろあつ)が江戸に出府し、そのお供に従った。広封の目的は十三代将軍・徳川家定に拝謁、毛利家嫡男と公認してもらう事だった。高杉がお供に入れたのは父のコネである。父は当時、広封の警護役を務めていた。次代の毛利家嫡男である広封に高杉をご学友として売り込みたい、あわよくば自分みたいなエリート官僚になって欲しいとする高杉家の事情と、家柄をかさに着て横柄な振る舞いが散見されるので、江戸で修行させて天狗の鼻を折らせて謙虚にさせたい、という2つの意図があった。
旅自体は1月15日に萩を出立、2月16日に江戸に到着。2月18日に広封は家定に謁見した。

この間に一大イベントが発生している。黒船来航である。

吉田松陰との出会いと別れ。

黒船来航は嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ合衆国・東インド艦隊司令長官のペリー率いる黒船4隻*4が江戸湾浦賀沖に来航。久里浜に上陸して日本との間に通商条約を締結したいという大統領の親書を手渡し、「来年返事を聞くよ、バイバイ!!(意訳)」と言って6月12日に浦賀沖から去った。
「聞きたいみたいだから、来たよ!!(意訳)」と安政元年(1854)1月17日、ペリー率いる黒船7隻からなる艦隊が浦賀沖に来航。
高杉はこの最中に江戸に来ていた。
3月3日にアメリカ合衆国と徳川幕府と間で日米和親条約が締結された。条約としては薪水給与令の延長線上にあたり、対外貿易は先の話にされている。
徳川幕府は対外政策に関して270の大名家からアンケートを取り、232の大名家から返信があった。9割が鎖国体制護持なのだが、黒船を目の当たりにして勝てないのは理解したので、先ず、海防強化を第一にし、黒船を動かせる人材の育成や海外事情の解析を優先させるため、長崎でオランダ海軍による海軍伝習と海外事情を分析する為に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)*5を開設。

こうした幕府の動きを遅いと判断して、アメリカ艦隊に潜入してアメリカに渡ろうと実行した奴がいた。その名は吉田松陰。安政元年(1854)3月27日、門人・金子重之助(かねこしげのすけ)と共に下田でアメリカ艦隊に潜入したが見つかり、追い出された。その後、自首、幕府により9月18日、国許蟄居の判決を受けて萩城下の野山獄に収監される。師匠の佐久間象山(さくまぞうざん)も連座して国許蟄居を言い渡される。吉田のアメリカ密航は佐久間の入れ知恵なのだが、吉田に佐久間への入門を勧め、紹介状を書いたのが高杉の叔父・田上宇兵太(たがみうへいた)である。祖父・又兵衛の弟で明倫館を優秀な成績で卒業し、江戸に出て伊東玄朴(いとうげんぼく)から蘭学を学び、毛利家で西洋書翻訳掛を務める傍ら、佐賀鍋島家(禄高35万7千石)当主・鍋島直正(なべしまなおまさ)に西洋砲術の翻訳書を提出している、現役バリバリの兵学者である。
吉田は当初、田上に弟子入りしようと江戸に来たのだが、田上は家庭の事情*6で萩に帰っていた。田上は学者仲間の佐久間に吉田の話をして、佐久間は吉田の世話を引き受けた。田上の置き手紙と佐久間から一連の流れを聞かされた吉田は嘉永4年(1851)5月27日付で叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)に宛てた手紙に事情を記している。

この頃、高杉は祖父の命令により帰郷を言い渡され、萩に戻っている。高杉家の当主は祖父の又兵衛で父・小忠太は後継ぎで殿様お気に入りのエリート官僚という立ち位置である。
又兵衛から小忠太に安政2年(1855)2月5日、家督が相続され、又兵衛は隠居となった。高杉は嫡男となった。
高杉は同年2月14日、明倫館の大学課程に復学し、儒学を勉強していくのだが、明倫館の雰囲気に馴染めないと不満を口にしていた。

上記の吉田松陰が野山獄から生家の杉家で謹慎となり、そこの一室を借りて講義をしていたのが松蔭の松下村塾の始まりである。
明倫館の授業に不満を抱いていた高杉が松蔭を訪ねたのは安政4年(1857)夏頃とある。

初めて松下村塾に入った際、高杉が畏敬の念を抱いたのは吉田稔麿(よしだとしまろ)である。高杉から見た吉田稔麿は「目が据わっている。やべぇオーラ出まくり!!(意訳)」な見た目だったが、稔麿から見た高杉は「目がイッちゃってる。やべぇよ、アイツ(意訳)」な奴だったと評している。
この後に久坂玄瑞(くさかげんずい)が入門し、入江九一(いりえくいち)と4人合わせて、「松下村塾の四天王」と呼ばれた。
周りの評判は、「久坂は周りの人間が近寄って久坂の為に働くよ、と自然と人が集まるが、高杉は乱暴で傲慢で尊大だった(意訳)」というのだった。その評判に心を痛めたのが松陰で、高杉を呼び出しては勉強しなさい、心を鍛えなさい、自分を偉く魅せても、人は付いて来ませんよ、と諭して、高杉の覚醒を促した。その甲斐あってか、久坂と高杉は松蔭門下の双璧、松蔭門下の龍虎と呼ばれるまでの逸材に成長した。
このやり取りは明治36年(1903)、小学校で使われる国定教科書の修身の教材に採用され、全国に広まった。内容は以下の通り。
高杉はべんきょうしませんから、松蔭はつねに久坂をほめて高杉をいましめました。高杉はそれから、よくべんきょうして、がくもんがすすみました。松蔭は高杉をほめて、なにごとも高杉とそうだんするようになりました(意訳)』と高杉、久坂ともに切磋琢磨して互いに高め合う良き関係であった、と教科書は締めている。

もっとも、松下村塾が長州系維新志士の聖地として認定されたのは維新後の事。維新前は毛利家家臣団からDQNの巣窟、不良の溜まり場と後ろ指を指され、高杉も祖父が「エリートのお前があんな場所に通うな!!高杉家の恥だ。(意訳)」と邪魔をされて白昼堂々と松下村塾に通えなかったと松蔭に手紙で記している。*7
その後、久坂が引き継いだが塾生の多くが尊王攘夷運動に身を投じたため一旦途絶。
慶応2年(1866)に再開され、明治4年(1871)に玉木文之進が責任者となったが、明治9年(1876)の萩の乱で塾生の多数が首謀書・前原一誠(まえはらいっせい)*8に呼応して参加した為に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。
松蔭の兄・杉民治(すぎみんじ)が明治13年(1880)再興するも、年齢からくる健康状態の不安により、明治25年(1892)に閉鎖となる。
その後、生き残りの松下村塾門下生による思い出話により、松下村塾は長州系維新志士の聖地として美化されていく。

松下村塾に通ったのは1年程度で、その後、高杉に変化が起きる。
第一は毛利家内部で頭角を現したことである。
明倫館に在籍中の安政5年(1858)2月28日、高杉は成績優秀者28名に選ばれており、国許の重臣筆頭・益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)より成績優秀者に時勢への「対策」を述べよと諮問があり、そこで爪痕を残した。益田は明倫館時代に松蔭に学んだ事がある門下生で、高杉にとって兄弟子にあたる。
時勢というのは黒船2度目の来航後、安政3年(1856)7月に来日したアメリカ合衆国総領事・ハリスが翌年10月、通商条約の締結を求めて来たので、幕府は同年12月29日と安政5年(1858)4月25日に諸大名に諮問した。毛利家は12月の諮問に対して若い人の意見を参考にしようと国許が働きかけた。
高杉は諮問に対して
  • アメリカとの通商条約締結に反対。貿易を許せばルソン*9・ジャワ*10の二の舞*11になると説明し、士気を高め、軍備を増強して条約締結反対の覚悟で必死に戦えば、敵は遠方から来航し補給が苦しく、長く戦えないから撤退する、と述べている。重臣たちは殿様に「日本は神の国(意訳)」を説き、殿様は幕府を説得してアメリカを撃滅するべきと説く。

  • 具体策として、まず長州自ら富国強兵策を行う。質素倹約で無駄な出費を控え、特産品を作り、領外に売り込みをかけて金を稼ぐ、兵隊は戦う理由を作り、それを領内に広めて士気を高める、軍備は大軍艦を造り、巨砲を鋳造し、砲台を築いてアメリカを撃滅するため、優秀な若手を選んで長崎に送り込んで洋学を学ばせよ、との提案である。

興味を持った益田は松蔭に高杉の企画書を見せ、松蔭による朱筆の評価が残されており、絶賛していた。これ以降、高杉は毛利家内部の若手有望株として頭角を現した。

第二は祖父の死去である。安政5年(1858)4月7日に自宅で死去した祖父は高杉にとって天敵だった。松下村塾行きを邪魔し、高杉の領外への遊学にも懐疑的で、存命中は好き勝手にさせないと公言していた。祖父の葬儀は父が江戸詰の為、高杉が喪主として取り仕切ったが、松下村塾の仲間は誰も来ず、唯一、お悔みの手紙を出した松蔭に返信で「仲間うちで誰も来ないとは、絶望した。アナタ=松蔭だけが唯一の希望です(意訳)」と仲間はアテにならないと教えられた、と記している。

第三は遊学の実施である。父は高杉の希望である遊学に対して根回しを行い、毛利家が学費を全額負担する特待生扱いで1年間の江戸遊学を高杉に命じた。高杉は父に高杉家負担で構わないからと申請していたのが予想を上回る結果だった。高杉の遊学を一番喜んだのは松蔭で4月11日付の桂小五郎宛書簡で江戸で高杉の面倒を頼むと依頼している。

同年7月20日に萩を出立、8月15日に江戸に到着。当初は昌平黌に入学予定だったが、空席がなかったので、松蔭お薦めの国学者・大橋訥庵(おおはしとつあん)が主宰する思誠塾(しせいじゅく)に入門するも、学風が合わないとして約2ヶ月後に辞めている。その間、毛利家も高杉の為に昌平黌にかけ合い、10月18日空席が出来たと知らせ高杉を昌平黌に入学させた。ここから1年間、高杉は昌平黌の書生寮に入り学ぶ。担当は安積(あさか)艮斎(こんさい)。当代第一級の儒学者である。昌平黌以外にも私塾・見山楼(けんざんろう)を主宰したり、江戸にある各大名家に出張講義などを行う引っ張りだこの儒学者でもあり、父・小忠太や師・松蔭も毛利家で行われた出張講義に出席した事がある。

主に儒学や漢文、漢詩を勉強し、成績こそイマイチだったと自他ともに認めているが、ここでの勉学は後で自分を助けた程だった。儒学を国の土台にしている清朝、李氏朝鮮、徳川幕府といずれも西洋に押されており、「儒学は腐った学問(意訳)」と周りの学友に洩らすと、学友たちも賛同していた、と記している。そのため、新しい学問を学ぼうと築地に設立された軍艦操練所に聴講生として出入りしていた。当時の教官には勝海舟が在籍していた。ここで勝と接点があったと言われている。

第四は師匠の松蔭が亡くなったこと。松蔭は尊攘派との付き合いを危惧する毛利家の手で捕縛され、幕府から身柄引き渡しを命じられて江戸に運ばれた。安政6年(1859)6月25日の出来事である。取り調べで尊攘派との付き合いは無罪認定を受けたが、自ら老中暗殺計画を暴露。結果、首を刎ねられた。安政6年(1859)10月27日の出来事である。
獄中にいた松蔭の為に松蔭の学友・白井小助(しらいこすけ)とともに生活物資を支援していたとある。
高杉は10月17日に遊学期限をむかえたので、江戸を出立し、萩に帰っていった。

自己研鑽の日々。

萩城下に戻ったのは11月16日の夜。11月20日に松蔭処刑の一報が萩城下に飛脚からの書簡で伝わる。高杉はこの頃、毛利家の実権を握る周布政之助に手紙を記して、自身を売り込む。
重臣の長井雅楽(ながいうた)は江戸に護送される松蔭に黙秘を貫けと忠告したが、松蔭が無視して上記の暗殺計画を暴露した為、周布は毛利家を守るために松蔭を切り捨てた。
それを知る高杉は周布へご機嫌を取り、不興を買わない様にした。その甲斐もあり、高杉は万延元年(1860)3月20日、明倫館舎長として復学を命じられる。

その間に高杉は井上平右衛門の娘・マサ(当時16歳)を妻に娶る。マサは世代一番の美人で求婚者応募多数により、井上家でくじ引きの結果、高杉が選ばれた。高杉とマサの結婚生活は記録上7年3ヶ月ほどだが、高杉の行動的な生活もあり、一緒に過ごした時間は通算2年ほどだった。

松蔭が居なくなった松下村塾は上記の様に久坂が主に講義を担当し、塾生の面倒を見ていた。高杉も久坂の講義に顔をだしていた、との記録がある。

世間は嘉永6年(1853)の黒船来航から始まり、江戸で発生した安政の大地震(1855)とその前後に発生した嘉永7年/安政元年(1854)の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震といった連鎖地震にコレラの蔓延、13代将軍・徳川家定の後継者問題、外国との通商条約締結問題で沸騰しており、安政6年(1859)、家定から事態の収拾を託された大老・井伊(いい)直弼(なおすけ)により、過激な尊皇攘夷論を唱える吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家(11万石)家臣・梅田(うめだ)雲浜(ひんぴん)、将軍後継争いで暗躍した越前福井松平家(32万石)家臣・橋本左内などが処刑された安政の大獄が起こる。

在野の志士が憤慨し、翌万延元年(1860)3月3日朝、水戸を出奔した浪士達によって桜田門外で井伊大老は暗殺。

これを目撃した桂小五郎は3月10日付けで国許に手紙を送り、世の中が変わるから江戸に来い、と仲間に呼びかけている。

毛利家ではこの頃、高杉と久坂を柱にして将来の人材育成を行うべく、高杉は海軍、久坂は英語を学ぶべく、幕府の教育機関に送り込む予定だった。

結局、この計画、高杉も久坂も自身の都合で挫折することになる。高杉は海路、江戸まで毛利家の洋式帆船による航海で体験学習をしながら江戸に向かったが、性に合わないと海軍修行を諦めてしまった。
久坂も幕府の蕃書調所に入門して英語を学ぶのだが、万延元年(1860)5月19日に前原一誠に宛てた手紙で「英語ムリ!!頭に入らない(意訳)」と降参している。

この頃、桂は蘭学なども勉強した上で長州攘夷派を率いる様になり、水戸徳川家の攘夷派と「丙辰丸の盟約」を同年7月12日に交わしている。内容としては水戸が攘夷実行、条約打破で行動し、長州が尻ぬぐいをするスタイルなのだが、英語に挫折した久坂がこれに参加した。ところが同年8月15日、尊攘派のカリスマ・水戸徳川家の徳川斉昭(とくがわなりあき)が亡くなる。カリスマが居なくなり、尊王攘夷運動の求心力を保つ為に久坂は松蔭を尊攘運動に殉じたカリスマに仕立て上げ、桂がこれを支える形になった。2人は松蔭を神格化する事に血道を上げる。

高杉はそんな2人と距離を置き、海軍修行を挫折した穴埋めとして、関東、北陸を遊歴して長州に帰国したいと申し出て、許されたので同年8月28日に江戸を出立した。剣術の他流試合をしたり、信州松代では佐久間象山に、越前福井では横井小楠(よこいしょうなん)に面会して、その思想から強い影響を受けた。帰国後、横井小楠を長州に招いて国力を増強するべきです、と提案している。


お役目デビューと海外派遣

帰国後の同年11月8日、明倫館舎長として復学を命じられ、文久元年(1861)3月11日、世継・毛利広封の小姓役として初のお役目デビューを果たす。
お役目の挨拶回りをしているうちに、毛利家では長井雅楽の提案による『航海遠略策*12』により京都デビューを果たす予定だった。


馬関に2月1日ロシア軍艦1隻、4月下旬から5月1日にかけてイギリス船舶5隻が来航。

少し戻ると同年2月3日、ロシア帝国海軍は軍艦ポサドニック号が対馬に来航。これは強引に対馬宗家に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。
同年8月15日、ポサドニック号は対馬から退去したが、これは「対馬はイギリスも狙っていたため、クリミア戦争の二の舞*13となる事を恐れた」ロシアが手を引いたと言われている。(対馬事件/ポサドニック号事件)

対馬・宗家とは漁民の保護などを通じて仲が良かった長州毛利家は事の一部始終を聞き、海上交通の要衝である関門海峡を有する事、自領の近くに竹島があり、そこが外国に領有化される事に危機感を抱き、対馬事件で徳川幕府が解決策に土地や要衝の直轄化を打ち出した事から、自分達も否定されるのではと危機感を抱いた。
対策会議に高杉も参加し、馬関を分家筋から本家に移し、軍備を強化する様に提案。久坂の遺構には、
長井や幕府の開国論は戦争を避けたいの一点張りで、これではダメだ。外国に追い付き追い越すには実際に外国の実力を知らなければならない。その為には戦争で実力を知り、日本人に攘夷が厳しいという事を理解させる。そうした上で留学生を送り、西洋文明を受け入れ、外国との条約交渉をこの状況で行うべき(意訳)」
と記されており、幕府の開国論に批判的な対応をする様になる。また、馬関の移管には幕府の承認が必要なのだが、毛利家はなし崩し的に既成事実を作ろうと目論む。

そんな中、高杉は7月10日に萩を出立し、同月30日に江戸着。先に江戸に来ていた久坂から長井雅楽を潰す様に頼まれるのだが、高杉は聞き流した。久坂は松蔭を幕府に売ったのが長井だと思い込んでいるが、高杉は周布が突き放したと知っている。
しかし、久坂は周布が味方だと思い込んでおり、下手に刺激すると面倒臭いからと、久坂に合わせたフリをしてやり過ごした。

意外な角度から高杉に転機が来た。外国派遣使節団への参加である。高杉はこの頃、日記を記しており同年9月9日付の記載に「殿様から海外派遣の内定が来た(意訳)」とある。
幕府が攘夷論に対するポーズと海外事情を調べる為、欧州に使節団を派遣する情報を掴んだ周布は毛利家から優秀な若手を欧州に派遣する様に殿様に建議、若手に杉孫七郎(すぎまごしちろう)と高杉が選ばれた。

攘夷論を叫ぶ長州も海外事情を知る為に万延元年(1860)の遣米使節団には北条源蔵(ほうじょうげんぞう)、文久元年(1861)3月の幕府使節団によるロシア領内のニコラエフスク(現在のロシア・ニコライエフスク・ナ・アムーレ)へ赴き、交易や沿海の測量に松蔭門下生の山尾庸三(やまおようぞう)桂右衛門(かつらうえもん)を送るなど、機を見て海外に人を派遣していた。内定には世継・広封が自身の代わりに海外を観る人材として高杉を推した。この使節団へ高杉の参加は最終的に見送られるのだが、直後に上海へ派遣される使節団の情報を掴んだ毛利家は高杉を使節団にねじ込んだのである。
高杉は最初、この話を嫌がっており、父親に相談した結果、ようやく決意した、と言われている。
文久2年(1862)1月3日に江戸を出立し、2月上旬に長崎にある長州屋敷に到着。幕府使節団が4月29日に出港するまで様々な人と接した。
アメリカ人宣教師のフルベッキやウィリアムズからアメリカの南北戦争や清国の太平天国の乱を聞かされたり、キリスト教の歴史を聞かされた。高杉は日記で「キリスト教を聞いて既視感があると思ったら陽明学とカブるんだ。どちらも城を傾け国を覆す程の害を与えること、大艦巨砲のみにあらず(意訳)」と記している。
他にも長崎貿易で勢いがあるのは薩摩と越前で産物を海外に輸出して外貨を稼いで富国強兵を実践している。長州も産物を海外に輸出して外貨を稼ぎ、外国から富を奪うのが誠の攘夷と日記に記している。
同年2月23日、妻マサから安否を確認する手紙が届き、同年4月17日に
「浮気絶対ダメ!!、ゼイタクは敵だ!!、キミはエリートの妻なのだから高い品格を身に付けろ!!、毛利家に忠節を尽くせ!!(意訳)」と返信している。

長崎を出港し、幕府の洋式帆船・千歳丸(せんさいまる)にて上海に着港したのが同年5月6日昼前。
薩摩島津家の五代友厚(ごだいともあつ)と船中で仲良しになり、宿泊したホテルでは4人部屋で同室の肥前佐賀鍋島家の中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)と仲良しになった。五代、中牟田ともに幕府の長崎海軍伝習を卒業した知的エリートで高杉が挫折した海軍に関してもわかり易く教えてくれた。五代は島津家から上海市場の調査と蒸気船購入を命じられた。中牟田は元々、高杉と同じく欧州に派遣される幕府使節団に参加予定が見送られたので、鍋島家が上海使節団にねじ込ませた。目的も高杉と同じく海外事情を知る為である。
五代は自身の都合で同行出来なくなり、中牟田と組んで上海を歩いて情報収集をする事にした。中牟田はオランダ語と英語に堪能なので、白人相手に情報収集を担当し、高杉は清国人と筆談をしたら上手くコミュニケーションが取れて、それっぽい会話もデキるみたいなので、清国人から情報収集をする様になった。

長州征伐は長州の勝利に終わり、天皇と将軍の面子丸つぶれ。

しかし、高杉はこの頃、戦争から経済へ軸足を向けていた。上記の前原一誠に後を託すと、10月10日に馬関を訪れた薩摩の五代友厚と12日に会見。上記の広沢と五代の協調営業を発展させた馬関商社を設立し、関門海峡を封鎖して薩長で産物を買い上げて大坂に持ち込む計画だった。高杉は白石を馬関商社の長州側代表に起用する考えを示した。薩摩側の代表は山中成太郎(やまなかせいたろう)という大坂の豪商・鴻池の分家筋の人間で高杉とは長崎で面会したことがあるから、知らない仲ではない。
10月15日、高杉は体調不良で出席しなかったが、五代と木戸、広沢で馬関商社設立の話し合いが行われ、莫大な費用が必要な事から長州は話から手を引き、馬関商社は消失した。これにより、白石は没落へ坂道を転がり落ちる。

五代の高杉に対する感想は10月17日付、薩摩島津家家老・桂久武宛書簡によると、「高杉の先は長くない。高杉がいなくなると長州は寂しくなるな(意訳)」と記している。

この後、高杉は馬関の外れに新居を構え、「東行庵」と名付けた。11月1日のことらしい。世話はおうのが主に見てくれた。諸隊の幹部も高杉を見舞い、表情をみて先が長くないと悟り、諸隊を導くリーダーは誰ですか?と尋ねると、
「一番は大村益次郎、二番は山田顕義だね(意訳)」と答えている。さらに次を尋ねると、「知らんがな(意訳)」と答えた説と答えなかった説の逸話が存在する。
諸隊幹部達は、病床の高杉に木戸や広沢など山口の政事堂幹部、海軍や他の諸隊への調整役を頼む。必ずしも良好と言えない政府、陸軍、海軍の間で高杉の影響力が窺えるし、そこに高杉の存在意義があるのかも知れない。

新居で療養生活を過ごす様になり、外国人医師による診察も受け入れたり、父親から萩で療養したらと提案をされたが、近いうちに帰省するよ、と返信した。11月24日付に記した父親宛の手紙には「今は殿様親子も山口で生活しています。我が高杉家も山口に屋敷を構えましょう。土地と建物はオレが工面したので、父親や母上、マサは大船に乗るつもりで来てください(意訳)」と屋敷をプレゼントしたとある。完成したのは高杉死後の話で、高杉家は明治10年(1877)までこの屋敷に住んでいた。12月24日付に記した父親宛の手紙には「周りの友人たちは死期が近いのを悟ったのか、徐々に去っていくのを感じます。淋しいです。自分はもう過去の人になったんだな、と。残された我が子の成長をみるのが今は唯一の楽しみです。高杉家の子孫を残せたので最低限の役割は果たしました(意訳)」としている。

12月5日、正二位・権大納言・征夷大将軍に徳川慶喜は任ぜられた一方で12月25日、孝明天皇が崩御し、朝廷は睦仁(むつひと)親王(しんのう)(明治(めいじ)天皇(てんのう))が践祚、即位。今までの公武合体が崩壊した。日本中が混沌としていた…

最期

高杉は慶応3年(1867)1月17日付で父親に宛てた手紙に「帝が亡くなりました。正義の長州を苦しめた天罰デス。帝が代替わりしたので、長州の復権もそう遠くないでしょう(意訳)」と記している。
高杉の世話はおうのが観ているが、衰弱が目に見える程にハッキリしていると後年、回顧録に記している。
世子も心配したのか、2月15日付の手紙で高杉に元気になったら顔を見せてくれ、と記し、腕利きの医師3人を派遣して高杉の回復に全力を尽くせ、と檄を飛ばしている。
坂本竜馬が妻と一緒に2月10日、馬関に来訪していたが重病の高杉に気を遣うのか、高杉に面会していない。3月21日には中岡慎太郎が馬関に来訪し、高杉に面会しようとしたが、面会謝絶と言われて諦めたとある。
同月24日には小忠太夫妻と妻・マサが高杉と対面、「お粥しか食せないくらい衰弱している(意訳)」とマサが述懐している。

同月29日には新規で家禄100石を与えられ、正式に高杉を当主とする谷家が誕生した。

運よく高杉と面会出来た長州海軍の河野又十郎(こうのまたじゅうろう)や高杉の治療に携わる毛利家の典医・長野昌英(ながのしょうえい)らは政事堂の幹部・松原音蔵(まつばらおとぞう)から高杉の事を聞かれると「高杉さんは奇兵隊や農民は必ずオレたちに牙を剥く。今のうちに対策を講じておくんだ(意訳)」と伝え、松原は4月16日付の楫取素彦宛の手紙に「徳川や会津を潰すのが先か、長州がコケるのが先か、笑えない話ですね(意訳)」と記し、高杉が後に勃発する世直し一揆と脱隊騒動を予想していた、と先読みの鋭さを感心している。

高杉は慶応3年(1867)4月13日、東行庵を離れて療養の為に借りていた馬関の庄屋・林八郎右衛門(はやしはちろうえもん)の屋敷の中にある別室にて病死した。
病床で介護していた妻・マサは回顧録の中で「来客者が時勢の話をすると高杉は感情が昂り、イライラを募らせていました。特に井上さん(馨)や福田さん(侠平)に対して『ここまでヤッたんだ、負けてもイイなんて死んでも思うな、絶対勝て!!』と言って亡くなりました。家族には『しっかりな』とそれだけでした(意訳)」と記している。

もう1人の介護者・おうのは回顧録の中で
「亡くなった時、間近にいたのは私と野村望東尼*51桧了厳(ひのきりょうげん)*52の3人。寝返りが打てないほど衰弱してました。高杉が『山縣(有朋)のバカはドコだ!』と尋ねると、了厳が『結婚式の主役だからと、今日は来ないと言ってます』と返し、高杉が『かわいい妻を泣かすなよ、オレみたいにw』とつぶやき、そのまま亡くなった(意訳)」とある。

奇兵隊日記には4月14日午前9時に高杉死去の一報が入ったとある。

高杉は長男に家督相続の手続きをしないまま病死したため、父が高杉の代わりに家督相続の手続きを全て済ませ、長男・梅之進に谷家の家督相続を許され、高杉の命日は4月14日に変更された。

奇兵隊が主催となって高杉の葬儀は4月14日〜16日にかけて神式で行われた。小忠太夫妻や妻・マサなどが出席した。

高杉家としては4月19日に仏式葬を行い、24日には初度の法事が行われ、こちらには奇兵隊主催の葬儀に参加出来なかった木戸孝允が参加している。

墓は当時奇兵隊が駐屯していた厚狭郡吉田村の清水山中腹に作られた。

明治21年(1888)4月、高杉は靖国神社に合祀され、栄典は明治24年(1891)4月8日に正四位が授けられた。

明治43年(1910)5月20日、上記高杉の墓の隣に高さ360cm、幅150cm、厚さ40cmという巨大な高杉晋作顕彰碑が建立され、除幕式が行われた。数百人が参列する中、来賓で来た井上馨が炎天下で長時間にわたる大演説をしたため、参列者から熱中症で倒れる人が続出した。


作られる高杉

今風にいえば、高杉は『言ってない名言録』の持ち主といえる。上記の「よっ、征夷大将軍!!(意訳)」や彦島を巡るやり取りが該当する。武装蜂起した場所も最初は違った。
高杉が元治元年(1864)12月16日、馬関の新地会所で武装蜂起したのだが、現在では「功山寺挙兵」と呼ばれている。伊藤博文は娘婿の末松謙澄(すえまつけんちょう)に「高杉は馬関で挙兵したよ(意訳)」と話し、戦前は馬関挙兵が定説であった。現在、長府は下関市に含まれているが、江戸時代、長府と馬関=下関は別々の街であり、昭和12年(1937)3月に長府が下関市に編入された。明治になってから編纂された長府毛利家の歴史書には高杉が功山寺にいたことすら記載されていない。天誅組に担がれた中山忠光を殺害するほどだから、朝陽丸事件の主犯扱いになる高杉は存在が迷惑だった。
流れが変わるのは大正9年(1920)。功山寺の門前に「高杉晋作回天義挙碑」が建立され、高杉を持ち上げる様になる。戦後、山口県選出の国会議員や下関市が長府を観光事業に使うため高杉を持ち上げ、功山寺を宣伝し、功山寺挙兵を定着させた。山岡荘八や司馬遼太郎の作品で高杉を扱った作品が売れたのも拍車をかけた。

晩年の高杉を象徴する句に「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」があり、上の句の「おもしろき こともなき世に おもしろく」は高杉が作り、下の句の「すみなすものは 心なりけり」は看病していた野村望東尼が付け加えたとされる。

これも最初に田中光顕らが高杉の詩文集として明治20年(1887)に発表した「東行遺稿」には上の句の「おもしろき」が記されていない。明治38年(1905)4月12日、伊藤博文が箱根の環翠楼(かんすいろう)で官僚の林田林太郎(はやしだりんたろう)に高杉や野村の人となりやこの歌について話をすると、林田から経緯を書いてくれないか?と頼まれ、伊藤が書き記した際、「おもしろき」の言葉が付け加えられた。総理大臣まで務め、高杉と生死をともに過ごした伊藤がいうなら問題なかろう、と高杉の句は言葉が上書きされ、臨終直前に辞世の句扱いされ、高杉が上の句を書いた時点で力尽きて筆を落とし、野村が下の句を続けたという逸話まで作られて、世間に流布される。

高杉の200以上ある漢詩なども友人たちが8割以上を添削して、遺稿には原本と違う形で掲載された。これにはこのままでは下手すぎて載せられないレベルでアカンと言う説がある。

赤禰武人の家を継いだ養子の篤太郎は大正元年(1912)1月20日、史談会の講演にて「高杉さんが死の間際、赤禰に詫びたいと。赤禰は同志を助けるために交渉していたのに、オレが挙兵して全てをブチ壊し、同志を見殺しにした。オレは赤禰を罵ったが、本当に罵られるのはオレだよ(意訳)」と漏らしたと述べる。篤太郎は赤禰の復権を目指し、史談会に掛け合ったが、最終的に山縣有朋や三浦梧楼ら長州閥の政治家に遮られた。

他には江戸の街中で高杉が馬に跨り暴れた*58とか、箱根の関所を籠で強行突破したとあるが、どちらも元ネタがなく、話に尾びれがついて膨らんだ結果と言われている。

明治に入ると高杉の交友関係にも手が加えられる。高杉の相談相手は金策をする時は井上馨、悪いことをする時は伊藤博文、悩みごとは前原一誠がそれぞれ窓口だった。しかし、前原一誠が萩の乱で処刑されると、高杉の相談相手リストから前原の名前が消えていく。主に手を下したのは山縣有朋だと言われている。

評価


吉田松陰「物事の道理をよくわきまえた人物である。しかし、学問に励もうとしない。また、かなり自分の思い通りに物事を進め、独断専行の癖がある。私はかつて、久坂玄瑞を褒め称えることで、晋作の鼻をへし折って抑えつけようとした。晋作の心は、激しく反発して納得しなかった。それから間もないころ、晋作の学問の業績は急激に伸び、その議論はますます高まっていった。同志の者たちはみな、彼の凄さに襟を正して敬意を払うようになった。それからというもの、私が物事を議論する時は、いつも晋作を引き合いに出して決断するようになった。彼の言葉は、軽んじることができないものである。(意訳)」

木戸孝允「非常に優れた、才能にあふれた人物です。ただ、惜しいことに少し頑固な性質があります。将来、他人の忠告や意見を受け入れなくなるでしょう(意訳)」

久坂玄瑞「高杉、お前がNo.1だ!!(意訳)」

入江九一「久坂は隊長としては陣中に起臥し、兵士と起居飲食を共にしており、謹厳にして質素である。高杉は兵営外に泊まり、時には相合傘で、馴染の美人を引張って、陣中に入ったこともあった。しかしながら、この二人に対する兵士の人望は、全然同一であった(意訳)」

伊藤博文「一度行動を起こせばまるで激しい雷電のようであり、言葉を発すれば激しい風雨のようである。周囲の人々はただただ驚き圧倒され、誰もまともにその姿を直視することすらできない。これこそが、我らが高杉晋作君その人ではないか(意訳)」

山縣有朋「高杉、アンタがNo.1だ!!(意訳)」

山田顕義「高潔な人柄、風流な生き様、そして維新後も活躍の機会があれば偉大な功績を残したであろう(意訳)」

中岡慎太郎「物事を思い切って決断する強さがあり、いざ戦場に臨んでも決して迷うことがない。好機を捉えて機敏に動き、奇策を用いて敵に打ち勝つ者、それこそが高杉晋作である。彼もまた、西国が生んだ傑出した人物の一人だ(意訳)」

坂本竜馬「戦いの天才(意訳)」

勝海舟「年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ(意訳)」

田中光顕「兵を率いれば奇策縦横、事に臨んで神出鬼没、天衣無縫の天才児(意訳)」

三浦梧楼「高杉晋作と云う人は全く偉人であった。我輩が偉い人だと思ったのは、高杉一人だ。実に目先の早い、機敏な人で、臨機応変、奇智沸くが如くであった。その鬼謀神算、到底常人の遠く及ぶべき所でない。如何なる困難に遭遇しても、常に綽々として余裕ある態度を以て切り抜けられた事は、何人といえども、人間の浅知恵や計画、あるいはどんなに努力を重ねたとしても、絶対に人間の力が敵わない対象や領域が存在するのだ(意訳)」

甦る高杉


  • 明治8年(1875)12月、評論新聞によると、高杉は死んだように見せかけて中国大陸に渡り、世界を巡ってこの度、山口県下関に姿を現し、「この御一新は出来損ないだ。オレが本当の御一新を見せてやる(意訳)」といって去ったとある。話を聞かされた伊藤や井上は「今、高杉がいても使いものにならんよ、あの骨董品(意訳)」とバッサリ切り捨てた。

  • 昭和8年(1933)2月、首席全権としてジュネーブに赴いた松岡洋右(まつおかようすけ)*59は、「高杉先生の気持ちを偲び(意訳)」として日本を国際連盟から脱退させた。

  • 2010年6月8日に第94代内閣総理大臣に就任した菅直人氏は自らの内閣を「奇兵隊内閣」と評した。8日の記者会見で「勇猛果敢に戦ってもらいたいという期待を込めて、奇兵隊内閣とでも名付けてもらえればありがたい」「高杉は逃げるときも攻めるときも速い。果断な行動をとって、明治維新を成し遂げる大きな力を発揮した」と称賛し「今の日本は停滞を打ち破るために果断な行動が必要だ」と訴えた。

高杉晋作が登場する作品

  • 昭和16年(1941)日活「決戦奇兵隊」では嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)が高杉晋作を演じ、キャッチフレーズは「国民皆兵。黎明日本の決戦譜!」である。

  • 昭和19年(1944)大映「狼煙は上海に(あが)る」では阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)が高杉晋作を演じ、上海で現地人にアジア団結と英米排撃を説く。

  • 日本テレビ系列の年末時代劇スペシャルに於いて、「奇兵隊」が1989年12月30日・12月31日に放送され、松平健が高杉晋作を演じた。

  • 鯨統一郎の幕末時そば伝では高杉の暗殺事件が扱われている。ちなみに本作で高杉の好物がサンマとされているのはあくまでストーリー上の都合ではあるが、魚料理が好物だったのは確からしい。


  • サッカー漫画「俺たちのフィールド」の主人公・高杉和也の由来は作者の村枝賢一氏によると姓は高杉晋作からとったとある。

  • スーパードクターKでは幕末時代に活躍した「Kの一族」一舎と無二の親友である。上記の「処刑の際に弁当を食べながら悠然と眺めていた」エピソードや最新の武具を揃えていた話の他、死因となった病気によって一舎がレントゲン検査の協力をする動機となったエピソードが描かれている。

  • Rise of the Roninでは、三味線を得意とする伊達男として登場。また病気を治すif展開が可能。




追記、修正は奇兵隊を創設してからお願いします。

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最終更新:2026年09月23日 01:11

*1 主君の衣服や調度品の管理、理髪、食事の給仕、身の回りの雑務を担当。

*2 近侍の上に立つ役職。

*3 身の回りの世話をする側近たちの統括。

*4 蒸気船2隻、帆船2隻。

*5 安政3年(1856)11月16開設。責任者は古賀謹一郎。蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は大流行、翻訳書は次第に充実して自然科学部門が置かれた。

*6 義実家の看病とある。

*7 夜に変装して松蔭に面会するなどしている。

*8 松蔭時代の松下村塾門下生。

*9 現在のフィリピン・ルソン島。当時スペインが支配していた。

*10 現在のインドネシア・ジャワ島。当時オランダが支配していた。

*11 どちらも貿易で豊かになると巧みに誘導して現地勢力から実権を奪い、支配下に置いた。

*12 幕府の通商条約を認め、積極的に海外貿易で金を稼ぎ、富国強兵を行い、日本をアピールするモノ。攘夷派の鎖国論も初代・家康は開国論であり、3代目・家光がキリスト教を遮る為の方便として一時的に用いたモノで祖法ではない、オランダや清国とは長崎で交易をしていると事実を挙げて論破している。

*13 ロシアの南下に反発したフランスとイギリスがオスマン帝国を支援して戦争となった

*14 広州で清がアロー号の水夫を海賊だとして逮捕、臨検し、アロー号が掲げていたイギリス国旗を引きずり降ろした。アロー号がイギリス国旗を掲げる期限は切れていたが、清側がそれをイギリスに説明出来なかった為、イギリス公使のパークスがぶち切れて、外交問題に発展した。

*15 長江、黄河に次ぐ中国第三の大河。淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい事に定評がある。

*16 1852年完成の全百巻からなる世界地誌。地図75枚、軍事情勢の解説付き。

*17 後の15代将軍・徳川慶喜

*18 そのテロの実行に大きく関与したのが土佐系攘夷志士の岡田以蔵と薩摩系攘夷志士の田中新兵衛である。

*19 幕府の捕り方を斬殺して指名手配されていた清河八郎も、同志の幕臣・山岡鉄舟と一緒に文久2年(1862)11月12日「急務三策」(攘夷の断行、大赦の発令、英材の教育)を政事総裁職・松平慶永に提出している。

*20 自身は開国論なのに、世論に迎合して武市ら土佐勤王党を用いて攘夷論を装っているから。

*21 構成員は高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、渡辺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰武人、山尾庸三、品川弥二郎

*22 要するに無職ニート宣言である。

*23 平安時代後期の歌人・西行

*24 丙辰丸は不参加

*25 文久3年初頭から毛利家は久坂らが士分以外の農民、町人から広く募兵することを決め、光明寺党の結成を認めた。この党は、他家の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は大名家の単位を超脱していた。

*26 信濃の小笠原家から分かれた分家筋の末裔。

*27 三条実美にお願いした。

*28 尊攘派が政権奪取を企図した攘夷親征の行幸計画。具体的には孝明天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し、親征の軍議を行い、伊勢神宮に参宮するというもの。真木和泉らは毛利家を動かして天皇の攘夷親征・王政維新を企て、討幕の機運を作ろうとした

*29 攘夷派公卿の前侍従・中山忠光を主将に迎えて発生した武装蜂起。土佐出奔の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)、三河出奔の松本奎堂(まつもとけいどう)、備前出奔の藤本鉄石(ふじもとてっせき)らが主導。8月18日の政変で攘夷派の公卿は失脚。大和行幸は偽勅とされ、天誅組は逆賊として孤立し、幕府の追討を受けて壊滅した

*30 奇兵隊士が武士階級からなる撰鋒隊士を斬殺した事件。首謀者の奇兵隊士・宮城彦介が8月27日に切腹して事件が収まった。

*31 国司信濃、福原越後、益田右衛門介

*32 宍戸九郎兵衛,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎

*33 前田孫右衛門、毛利登人、山田亦介、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島剛蔵、清水清太郎

*34 第一次長州征伐で征討軍の参謀を務めていた。

*35 慶応3年(1867)11月11日病死。54歳

*36 長州も幕府と明確に敵対する前は堂々と長崎や横浜で武器や船舶を買い付けて軍備の増強をしていた。要するに幕府に敵対しない限り、国防の為に武器を購入する事自体は問題無かった。西日本の大名家が嫌ったのは武器や船舶の購入が幕府直轄領の長崎、横浜、箱館でしか認められていない、購入履歴を公表する、取引は幕府の役人が立ち合うという手続きがイヤで、自分達の領地で直接購入出来ないのが不満の種だった。慶応3年以降はイタリア、ベルギー、デンマークとの通商条約で正規の政府以外の地方政府=諸大名へ武器や船舶の販売が許可され、最恵国待遇によりイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアにも認められた。実際、長崎、横浜の貿易統計を見ても慶応3年以降は貿易品の中で武器や蒸気船の取扱額が3倍以上に増えている。

*37 元治元年(1864)12月、椋梨派が権力を握り三条らの身の危険を感じた中岡慎太郎らが征討軍参謀で薩摩の西郷隆盛と対談し、五卿の身柄は福岡黒田家が預かり、薩摩島津家・久留米有馬家・熊本細川家・佐賀鍋島家から人を派遣・費用を提供するという形になっていた。五卿の滞在先は、太宰府天満宮の別当延寿王院である。

*38 稲葉正邦・諏訪忠誠・牧野忠恭ら

*39 尾張徳川家元当主。尊攘派の家臣に担がれている為、長州に同情的である。

*40 長州征伐派だったが、元治元年(1864)9月、大坂で勝海舟と対談し、幕府はオワコン、大名連合の方がマシと告げられ、長州征伐を最小限の被害者で留める事にした。

*41 4月7日、慶応元年に改元

*42 一会桑の取り成しで改易から謹慎に変更

*43 土佐山内家の町人。安積艮斎、高島秋帆、勝海舟らに師事。文久3年(1863)には名字帯刀を許された。

*44 上海で2挺、長崎で1挺、馬関で1挺の購入履歴があり、高杉はピストルを4挺所持している。その内の1挺を坂本に譲ったとされている。

*45 朝廷や幕府に対して長州の正義を遮る一会桑政権が敵と明記されている。薩摩も長州も会津のせいで不利益を被った被害者同士、会津が強硬論を吐いていると世論を誘導。薩摩と長州で連携しましょう、と木戸孝允が坂本龍馬に宛てた薩長同盟を記した手紙の裏書きに記されている。

*46 慶応元年(1865)3月21日、伊藤博文からイギリス公使館員・ハリソンの紹介でラウダと面会しており、その時に意気投合したとある。この時は休暇で帰国中の公使・オールコックの代わりに代理公使をしていた。

*47 長州としては過去の失敗による教訓から「君側の奸による武力制裁への正当防衛に応戦する被害者長州」を第二次長州征伐で取る事を選んでおり、これ以上「先制攻撃による評判の低下」を防ぎたいという意向があり、木戸は、この時点で幕府とは交戦したく無い為、全て立石の責任と断罪し近隣諸侯に謝罪(主犯の立石は長州側で始末)した。

*48 1865年2月、軍艦と運送船を区別する為に軍艦の名称には丸を付けない事を布告している。咸臨丸はこの段階では軍艦ではなく運送船。

*49 長州の主観では小倉は攘夷に非協力で報復に領地を占領したら会津に告げ口して文久政変を勃発させ、七卿落ちを発生させた原因だから。

*50 先代当主が39歳で急死。家督を継いだ忠忱は当時まだ4歳である。

*51 高杉と関わったことで福岡黒田家に捕らわれていたが、長州側が彼女の身柄を奪取、高杉の下で暮らしていた。

*52 慶応元年頃から高杉と付き合いだした僧侶。高杉に水墨画を教え、看病もしていたが、高杉の死後、忽然と歴史から消える。

*53 百合三郎は後に南貞助と名前を改め、イギリスに密出国留学。イギリス人女性と結婚し、日本人国際結婚第一号になる。役人や事業家を務めた。

*54 初代大阪駅長を務めた。

*55 明治元年(1868) 10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主、執政、参政、公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*56 明治3年(1870)1月、山口藩で発生した事件。奇兵隊や遊撃隊の兵隊や下士官たちが山口藩に諸隊の幹部連中が隊の公金で贅沢に遊んでも処罰されないのに、戊辰戦争を命がけで戦った自分たちは藩政改革の名の下にリストラして無一文で路頭に迷わせるのか、と反発して武装蜂起。木戸孝允が軍隊を率いて鎮圧した。

*57 後の一橋大学。

*58 徳川時代は原則的に市街地での乗馬は禁止、公務や公務に準じる領内視察を兼ねた寺社参拝などで将軍や大名が市街地で乗馬する事は許されていたが、彼等も市街地での駆け足は禁止されていたし、乗馬が可能な郊外でも乗馬中に人を傷付けたら処罰と多額の賠償を支払う規則だった。

*59 山口県出身