耶麻郡慶徳組山崎村

陸奥国 耶麻郡 慶徳組 山崎(やまさき)
大日本地誌大系第32巻 136コマ目

この村の地形、山麓にありて日橋川に臨み出崎のごとき(ゆえ)名くという。

府城の西北に当り行程4里25町余。
家数41軒、東西3町50間・南北1町。
北は山に連なり東西南は田畠にて、南は日橋川に傍ふ。

東8町9間田原村の界に至る。その村まで12町余。
西5町26間真木田原両村の山に界ふ。真木村は申(西南西)に当り21町余。
南3町42間河沼郡青津組東青津村に界ひ日橋川を限りとす。
北5町3間新宮村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り8町余。
また
申(西南西)の方3町45間青津組北宇内村に界ひ日橋川を限りとす。その村まで12町20間余。

小名

天神免(てしめ)

本村より4町子丑(北~北北東の間)の方にあり。
家数6軒、東西24間・南北1町56間。
西は山に倚り東南北は田畠なり。

山川

日橋川

村南3町40間余にあり。
広140間計。
田原村の境内より来り、西に流れ真木村の方に注ぐ。
真木村と界域入逢町数詳ならず。
慶長16年(1611年)8月の地震に山崩れ川塞りしかば、蒲生氏数千の役夫を集めて疏鑿(そさく)せしが、なお本郡7ヶ村・河沼郡16ヶ村の地を浸し東西35町余・南北20町余汎濫して湖水の如くなり。これを山崎新湖という。
加藤氏の時に至て下流を(けし)て水勢漸半を減せしが、寛永8年(1631年)9月の洪水に再び填塞(てんそく)して水湛ふ。
当家に至ても寛文中(1661年~1673年)風土記撰述の頃までは新湖あり。漸々に疏鑿して水道旧に復し今はなし。

濁川

村より丑寅(北東)の方7町計にあり。
新宮村の方より来り、南に流るること12町余日橋川に入る。

関梁

船渡場

村南にて日橋川を渡し青津組の諸村に通す。

神社

十二所神社

祭神 十二所神?
相殿 鬼渡神
鎮座 不明
村北、山足にあり。
鳥居拝殿あり。上三宮村高村能登が司なり。

麓山神社

祭神 麓山神?
鎮座 不明
村北3町、山の頂にあり。
登ること40間計。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

寺院

龍源寺

村中にあり。
曹洞宗松峯山と號す。開基詳ならず。
もと空海作の地蔵ありし(ゆえ)地蔵院ともいう。天正巳丑の兵争に地蔵の像を失う。
寛永中(1624年~1645年)天寧村天寧寺の住僧怒山を請て中興開山としその末寺となる。
本尊釈迦客殿に安ず。


最終更新:2020年08月25日 19:39