耶麻郡慶徳組新宮村

陸奥国 耶麻郡 慶徳組 新宮(しんくう)
大日本地誌大系第32巻 131コマ目

この村源義家朝臣熊野新宮を(ここ)に勸請す。因て名くという。或は伝う、昔小松少将という人この地に(たく)せられ居住せし(ゆえ)小松村といいしを、新宮勸請の後今の名に改むと

府城の西北に当り行程4里19町余。
家数48軒、東西2町20間・南北3町20間。
西は山に連なり東は濁川に傍ひ南北は田圃(たんぼ)なり。

東14町20間小荒井組長尾村の界にいtる。その村は丑寅(北東)に当り24町10間。
西22町50間余河沼郡坂下組長井村に界ひ日橋川を限りとす。
南3町2間山崎村の界に至る。その村は未申(南西)に当り8町余。
北4町6間慶徳村の界に至る。その村まで10町50間余。
また
辰(東南東)の方18町2間大木村の界に至る。その村まで19町20間余。
丑寅(北東)の方8町27間能力村の界に至る。その村まで12町10間余。
卯辰(東~東南東の間)の方3町52間田原村の界に至る。その村まで10町40間余。

村東11町10間に1区あり。向分(むかひふん)という。家数8軒、東西3町10間・南北3町44間。寛政4年(1792年)本村より出て村居を開く。四方田圃なり。

端村

小山(こやま)

本村の戌亥(北西)の方1町余にあり。
家数2軒、東西18間・南北21間。
西は山に連なり三方田圃なり。

小館(こたて)

本村の丑(北北東)の方6町余にあり。
家数9軒、東西16間・南北42間。
東は堀出新田の端村重壇新田に続き西南北は田畠なり。

山川

土橋山(とはしやま)

村の亥子(北北西~北の間)の方9町余にあり。
新宮氏土橋を設け落し穴とし敵を破りし所という。

火附なみ山

村の戌亥(北西)の方12町余にあり。
應永中(1394年~1428年)黒川の兵高館に火を掛んとて風を待し所という。

経塚山

村より未申(南西)の方20町計にあり。
昔高寺全盛のとき鬼門に当れるを以て経を蔵し所という。寛文中(1661年~1673年)この塚を穿て石函を得しという。
またこの山の東南の麓に釈一遍1宇を建立せし跡あり。今の府下大町当麻山東明寺はこの地より移せしという(東明寺の縁起にはこのこと見えず)。

灰塚山(はひつかやま)

村より亥(北北西)の方6町余にあり。
昔の墓所なりという。

烽火山(ほうくわやま)

村西4町計にあり。
古戦争ありし時狼煙(のろし)をあげし所という。

備中山(ひつちゆうやま)(横打山)

村西6町余にあり。
新宮氏の長臣大竹備中というもの弩を備て敵の横を打し所という。
また横打山ともいう。

地獄沢(ちこくさわ)

村南4町にあり。
新宮氏罪人を誅戮(ちゅうりく)せし所という。その屍を埋めし塚とてあり、土人「しとみ塚」という。死人塚(しひとつか)を誤れるにや。

日橋川

村西、山を隔て22町余にあり。
真木村の境内より来り、戌亥(北西)の方へ斜めに流るること12町10間余慶徳村の地を過ぎて木曽組小布瀬原村の界に入る。

濁川

村東2町40間にあり。
堀出新田村の境内より来り、8町20間余南に流れ田原村の界に入る。

関梁

村東、濁川に架す。
長6間の土橋にて隣村に通る径路なり。

水利

堤3

一は村より6町50間余亥(北北西)の方にあり。古舘堤という。東西50間・南北25間。
一は村より3町14間酉戌(西~西北西の間)の方にあり。山神堤という。東西49間・南北32間。
一は村より30町余未申(南西)の方にあり。中曽禰堤という。東西35間・南北84間、真木村の養水とす。
共に山中にあり。

神社

熊野宮

村西山麓にあり。
新宮熊野神社

寺院

大同寺

熊野宮の北にあり(旧石神の南にあり。後ここに移す)。
山號を普光山という。越後国村上耕雲寺の末寺曹洞宗なり。
もとは律宗にて大同中(806年~810年)の開基なり。
寛正中(1460年~1466年)(新宮氏應永27年(1420年)亡ひしよしあれば、この年号いぶかし)新宮次郎盛俊先祖の位牌をこの寺に安じ、曹洞の徒瑚海を請して住せしめてより洞家となる(この寺もとは木曽組寺内村にありしを、新宮氏この地に移せしといい伝う)。
天正巳丑の兵燹(へいせん)に罹て堂宇廃壊せしが、新宮氏の旧臣等相集て再興せしとぞ。
本尊如意輪観音客殿に安ず。

古蹟

館跡

村北3町余にあり。
本丸跡、東西70間・南北82間。
二之丸跡、東西220間・南北200間。
この館は新宮城といい、また大城ともいいしとぞ。新宮氏代々の居所なり。何れの時築しということ詳ならず(村民は建暦2年(1212年)に六郎左衛門尉時連築くという)。
新宮氏は遠江守盛連の六男六郎左衛門尉時連の後なり。時連のこと東鑑に詳なり。或は六郎兵衛尉といい、或は遠江大夫判官という。
康元元年(1256年)11月23日兄弟3人相模守時頼と共に出家して、法名を観蓮という。子孫相続てこの所に住し耶麻郡半郡の地を領す。
元享の頃(1321年~1324年)右衛門尉時明という者あり(時連の子宗明の子なりという)、その後数世の間主名事跡(じせき)詳ならず(康暦の頃(1379年~1381年)北田氏と戦い討死せし人ありという)。塔寺八幡宮所蔵長帳によるに、應永中(1394年~1428年)に至て黒川の領主葦名氏(修理大夫盛政なりという)と地を争い、22年(1415年)11月・25年(1418年)正月等の軍あり。25年6月に小河の城を攻落し、7月小布瀬の城を攻落さる。27年(1420年)6月2日(或云7月2日)この城遂に陥り、新宮氏(村民は次郎盛俊とて時連6世の孫なりという)越後国に出奔す。
永亨5年(1433年)再び小河荘の城に拠り葦名氏と戦いしが、恢復(かいふく)の功ならずして10月23日新宮氏兄弟三河・尾張などいう者数十人討死し新宮氏遂に亡ぶ(越後国蒲原郡小川荘津川町新善光寺の過去帳に、9月25日新宮殿道宗禅定門義開朝栄賢範父子3人小川にて討死と記して、傍に永亨5年(1433年)の時分欤とあり)。
また新宮氏全盛の時はこの辺に北小路・本小路・道場小路・高野町・禰宜町・熊野小路などいう所ありしが、應永の乱の後北小路・道場小路・高野町(今の紺屋町のことにや)をは黒川に移し、その余は田圃と成てその字今にあり。

また村の戌亥(北西)の方に東西34間・南北44間の館跡あり。
文亀の頃(1501年~1504年)西海枝駿河某という者ここに住せるにより、駿河館といい後の山を駿河山と唱ふ。昔熊野宮を守護せし者住し、その後平田常範という者住居せりといえども何れの頃にか詳ならず。

阿弥陀堂跡

村の未申(南西)の方6町計、山上にあり。
その地を阿弥陀山といい、昔恵心僧都信濃国善光寺にて霊夢を感じ弥陀の銅像48軀を造りその1軀をここに安置すという。慶長辛亥(16年。1611年)の地震に堂宇顛倒(てんとう)し、その後旧跡より本尊を掘出す。今神宮司の本尊これなり。
また村北1町計、駿河山の麓に補陀落(ふだらく)堂とて1宇あり(今大同寺の境内なり)。この山の南端に寺迹なりとて四方50間計の所あり。この堂全盛の時360坊ありしその一なりとぞ。
この外十王堂・薬師堂・中堂・護摩堂・流鏑馬場・笠懸場の跡・熊野清水など今にその名残れり。煩わしければこれを略す。





補足:新宮氏系図(参考:武家家伝
 佐竹盛連 - 遠江守
 ├経連(猪苗代氏)
 ├広盛(北田氏)
 ├盛義(金上氏)
 ├光盛(葦名氏)
 ├盛時(加納氏)
 └時連(新宮氏)- 新宮六郎左衛門尉
  ├泰盛
  ├頼連
  │└政連
  │ └時明
  │  └助成
  │   └次房 - 新宮平内左衛門
  │    ├定能
  │    ├時康 - 兵部大輔
  │    │├時兼
  │    ││└兼光
  │    │└時宗
  │    │ └時頼
  │    └次房
  ├行連
  └宗明
   └時明(→政連の養子?)
新宮盛俊と繋がらないです…。
最終更新:2020年08月24日 21:35