府城の西に当り行程13里。
家数33軒、東西5町・南北3町、四方田圃なり。
また辰巳(南東)の方8町に家居1軒あり。野田原という。
新発田街道駅所にて、村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
海道組焼山村駅より1里13町13間余ここに継ぎ、ここより4町47間
海道組天満村駅に継ぐ。
東11町30間
海道組花立村の界に至る。その村まで16町。
未申(南西)の方4町15間、南4町15間、共に
九島村の界に至る。その村は未申(南西)に当り14町10間余。
北1町2間
天満村の界に至る。その村まで1町30間余。
村の西北に一里塚あり。
山川
六松山
村より巳(南南東)の方25町計にあり。
頂上まで3町余。
雑木多し。
南は九島村と峯を界ふ。
田沢川
村北1町にあり。
海道組田沢村の境内より来り、西に流るること25町計小出川に注ぐ。
広6間。
小出川
村西1町10間にあり。
九島村の界より来り、西北に流るること8町計
天満村の境内に入り室谷川に注ぐ。
広8間。
年魚・鱒の類を産す。
関梁
橋2
一は村西2町、隣村の通路小出川に架す。長8間・幅8尺。
一は村東9町、新発田街道田沢川に架す。長8間・幅1丈。
水利
堤2
一は村より巳(南南東)の方7町にあり。周136間。
一は村より辰巳(南東)の方10町にあり。周153間。
神社
諏訪神社
祭神 |
諏訪神? |
相殿 |
伊勢宮 2座 |
|
日光神 |
|
若宮八幡 |
|
山神 |
鎮座 |
不明 |
村西5町にあり。
鳥居あり。九島村齋藤丹後これを司る。
相殿の伊勢宮:共に本村より移す。寛文の頃(1661年~1673年)まで『天文十九年下総國野手住人修理』と記せし棟札あり。今はなし。
實首神社
村北にあり。
舊事雑考に『塔寺村八幡宮長帳及び津川町新善光寺の過去帳に拠り、永亨5年(1433年)新宮氏兄弟小川庄
人谷にて自殺しその首を黒川に伝えんとせしに、
忽ち民間に祟をなしければ、所々その霊を祭り実首宮という。』と見ゆ。
鳥居あり。村民の持なり。
墳墓
石塔1基
村東1町余、圃中にあり。
長2尺1寸・幅1尺8寸余。『金光明上信士慶長元年二月八日卒俗名源太胤玄』と彫付け、その後ろに周7間計の塚あり。
土人相伝て、胤玄は金上遠江守盛備が子という。
石塔は近頃建し物と見ゆ。
- 耶麻郡慶徳組新宮村 - 新宮氏の本拠
- Google Map
- 野村地区
- 野村の一里塚 - なし
- 六松山?
- 上ノ山の事か?(ちなみに明治の地理院地図には「上ミノ山」と記載)
- 野中村の東に笠松山があるとの記載もあり、位置が被り判断できず。
- 田沢川 - 現在の音無川。上流で合流しているのが田沢川
- 小出川 - 現在の東小出川で上ノ山の東を流れる。上ノ山の西から流れこの川に合流するのは小出沢川。
- 諏訪神社
- 實首神社
- 明治40年(1907年)に諏訪神社に合祀され、その時に諏訪神社も現在の位置に移ったそうです。
- 石塔 - 見当たらず。
- お堂(延命地蔵尊?)
余談。
実首神社(みくび-?)の合祀の件はこちらを参照しました。
ただこの記事内に「實首神社は以仁王を祭る」とありますが、それはありえないでしょう。正史によれば宮の首実検は平清盛の前で行われ、その後京都木津川にある高倉神社の地に埋葬されました。南会津の伝承でも以仁王の霊を祭るのは高倉神社ですし、一行は越後の小国へと逃れているので首を取られたわけではありません。説明に少し無理があります。
会津風土記の記述にある「新宮氏兄弟の霊を祭った」の方がまだ信憑性があるのではないでしょうか。
追記。
神社明細帳に
諏訪神社と実首神社の記があったので載せておきます。
※越後佐渡デジタルライブラリー『神社明細帳 阿賀町』No.72,73より
最終更新:2020年10月20日 18:50