蒲原郡下條組岩谷村

越後国 蒲原郡 下條組 岩谷(いはや)
大日本地誌大系第34巻 64コマ目

府城の西北に当り行程17里10町余。
家数31軒、東西1町・南北1町50間。
南は揚川に臨み三方は山に傍ふ。

東6町25間吉津村に界ひ揚川を限りとす。その村は辰(東南東)に当り10町40間余。
西4町32間五十島村の界に至る。その村は未申(南西)に当り9町余。
南3町五十島村に界ひ揚川を限りとす。
北7町38間岡沢村の山界に至る。その村は丑寅(北東)に当り15町20間余。

山川

兎倉山(うさきがくら)

村より戌亥(北西)の方1里10町余にあり。
頂まで2町。
西北は岡沢石戸五十島3ヶ村の山に界ひ、南は五十島村に界ふ。

揚川

村南3町にあり。
川口村の境内より来り、西に流るること15町計五十島村の界に入る。
広2町10間。

神社

若宮八幡宮

祭神 若宮八幡?
相殿 幸神
鎮座 不明
村北30間計にあり。
鳥居あり。五十島村渡部奥頭が司なり。

寺院

平等寺

村北にあり。
岩屋山と號す。石間村正壽寺の末山曹洞宗なり。
昔、余五将軍平維茂船を(うか)べて揚川を渡りし時、龍口(たつのくち)という(揚川の南岸、岩の峙ちたる所をいう)所にて薬師の像あらわれ光明を放つを見て信心を起こし、天台宗八箇寺を建立しこの地にて天年を終という。
(縁起に、維茂の草創を大同元年(806年)の事とすれども、維茂大同中の人にあらず。舊事雑考に長徳元年(995年)藤原実方陸奥守に(うつ)されしとき維茂等相貴重す*1といえば、この寺を建立せしもその頃なるべしとあり。案ずるに、永正14年(1517年)永源という僧塔寺再興の勧進状に大同元年維茂開基のこと見えたり)
その後、世々の住侶宗門も定らざりしに、萬治3年(1660年)正壽寺6世の僧林道というもの住してより洞家となり今に相継という。
本尊地蔵客殿に安ず。長1尺2寸、古佛なり。

薬師堂

平等寺の北にあり。
5間2尺に4間、南向き。
秘佛なり。
日光月光、各長2尺計。
十二神将、各長1尺5寸。
1軀は維盛の作にて余は徳溢の作という。
毎年4月8日会式あり。
即維茂の建立にして薬師の像は龍口より得る所なりとぞ。
堂は永正中(1504年~1521年)僧永源が再興なり。古堂なれば所々朽損(きゅうそん)し、また種々の題名あり。(ちなみ)にその1、2を録す(※略)。
平等寺これを司る。

勧進状

今は失う。舊事雑考に載る所を以て左に注す(※略)

墳墓

平維茂墓

※国立公文書館『新編会津風土記104』より

平等寺の東30間余にあり。
高3尺。東西2間・南北3間半、北を首とす。四方縁に切石を敷き、後ろに数圍の古杉あり。その枝葉数歩を庇い、墳上苔むしていと閑寂(かんじゃく)なり。
維茂の卒せし年月土人の口碑に伝えず。諸書に見る所なし。元享釈書に「年80にして終れり」という。
元禄8年(1695年)より平等寺に米を与て墓を守らしむ。

碑石

墓の前にあり。
高1丈2尺・広3尺1寸・厚3尺余。
寛文8年(1668年)肥後守正之建る所なり。
その文如左(※略)。



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    • 岩屋地区
    • 兎倉山?
      • おそらくこの山(標高527.5m)だと思うのですが。
    • 若宮八幡神社
      • 神社明細帳・阿賀町のNo.46。リストは八幡神社となっていますが中を見ると若宮八幡神社と書いてあります。相殿神の記載はありませんでした。
    • 平等寺
      • 寺院明細帳・阿賀町のNo.24。
    • 平等寺 薬師堂
      • 寺院明細帳・阿賀町のNo.64。
    • 将軍杉(平維茂墓)
      • 国の天然記念物。「我が国における日本一のスギである」との事。樹齢は約1400年だそうです。
  • 平維茂(Wikipedia)


余談。
龍口とは阿賀野川のどの辺だったのでしょう?
この村の西側から石戸村まで(旧若松街道沿い)川幅が狭くなっているので、その出口(現在の五十島橋の西側)辺りでしょうか。
最終更新:2020年11月08日 19:57
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*1 貴重す:とてもよくしてくれた