府城の西に当り行程17里。
家数82軒、東西1町・南北2町40間。
山麓に住し東北は揚川に傍ふ。
東4町33間
岩谷村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り9町余。
西17町30間余
長谷村の山に界ふ。
南2里計、公領本郡高石村の山に界ふ。
北22町5間
取上村の山界に至る。その村まで26町40間余。
山川
又六嶽
村南2里余にあり。
頂まで20町余。
近山に勝れて高峻なり。
この山、東南の方赤倉・船木平等の諸峯つづき、西南は公領川内谷諸村の山に界ふ。
松峠
村東10町にあり。
登ること2町余。
谷沢村に行く道なり。
笹峠
村より辰(東南東)の方1里4町にあり。
登ること2町余。
谷沢村に行く道なり
五十島川
又六嶽・赤倉山・舟木平山の諸渓会してこの川となり、北に流るること3里余村東にて揚川に入る。
広5間。
揚川
村東2町にあり。
谷沢村の境内より来り、五十島川を受け北に流るること1里余
長谷村の界に入る。
この川に砂滝とて鮭を捕る所あり。
雨池沼
村南3里余、餅倉という山の上にあり。
東西13間・南北30間。
旱歳に雨を祈る所とす。
関梁
三月沢口
村南1里、三月沢という所にあり。
川内谷の諸村に行く路にて、番戍を置き往来を察せしむ。
沼越峠とて牛馬を通せず。難所なり。
神社
若宮八幡宮
祭神 |
若宮八幡? |
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相殿 |
諏訪神 |
地主神なり |
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富士神 |
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鎮座 |
不明 |
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村北にあり。
文明5年(1473年)山内新左衛門尉通信という者神領を寄付し、永禄12年(1569年)須田神左衛門という者また神田若干を寄付すという。共に今は失う(文明(1469年~1487年)の寄付状は寛文の頃(1661年~1673年)までありしという)。
鳥居幣殿拝殿あり。
神職 渡部奥頭
正徳の頃(1711年~1716年)渡部遠江吉信という者当社の神職となるという。
今の奥頭吉政は吉信が孫なり。
寺院
徳正寺
村中にあり。
石間村正壽寺の末山曹洞宗なり。
旧この地に3宇の僧院あり。共に水火の災に罹て頽廃す。寛政元年(1789年)雷村永谷寺2世満室が弟子流産という僧塔寺を造立し、三院の本尊を安置し満室を請て開山とし林谷山徳正寺と號す。
寛文元年(1661年)古峰という僧再興して正壽寺3世骨寒を請て中興開山とせしとぞ。
本尊弥陀客殿に安ず。
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- 五十島地区
- マンダロク山(又六山)
- 松峠 - 不明
- 笹峠 - 不明
- 五十島の東南東1里4町(約4.4㎞)は小花地村の南、現在国道49、459号線の赤岩トンネル付近になります。谷沢村への径路とはまるで関係ない場所ですね。おそらく風土記への掲載時に方位を誤ったのではないかと。村の巳(南南東)の方角、五十島川の上流から東に向かう道(県道17号新潟村松三川線)があり大須郷を経由し谷沢村へと続いています。
- 五十島川 - 現在の五十母川
- 雨池沼 - 不明
- 餅倉山は海道組倉平村の西にありますが、五十島村の南には見当たりません(名前が変わったのかもしれませんが)。候補としては上條組鑰取新田村の北西にある鍋倉山(こちらは現在付近に大きな池なし)と五十母川の上流で日本平山の北東にある大池(谷沢村の境内)があります。
- 三月沢口 - 不明
- 谷沢村と沼越峠の記載があることから、この辺りに番所があったのではないかと。
- 沼越峠 - 金山町と阿賀町の境界にある沼越峠(鉾峠)とは別。
- 若宮八幡神社
- 神社明細帳を見ると境内に琴平神社もあるとのこと。なお相殿の富士神とは木花開耶姫命だそうです。
- 徳昌寺(徳正寺)
- 「寺院明細帳 阿賀野市 阿賀町 五(泉市 ?)」No.30にて確認
- イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る 中編
- イザベラの足跡を辿るという特集で、その4では津川から新潟まで船で移動した所を紹介しています。五十島の船着場や(岩谷の)将軍杉等の写真が掲載されています。
最終更新:2020年11月10日 19:54