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会津郡滝沢組松窪村

陸奥国 会津郡 滝沢組 松窪村
大日本地誌大系第31巻 18コマ目

この村寛永の始(1624年~)松窪という原を(ひら)いて民居を置く。因って村名とす。

府城の北に当り行程1里3町。
南北2区に分る。その間1町30間余を隔つ。

北を上分(かみぶん)と云う。
家数4軒、東西30間・南北1町5間。

南を下分(しもぶん)と云う。
家数12軒、東西1町15間・南北1町15間。

共に山麓高敞の地にあり、西南北に田圃(たんぼ)あり。

東15間余下居合村の山界に至る。
西1町36間河沼郡代田組藤倉村の界に至る。その村まで9町20間余。
南2町25間下居合村に界ひ吹屋川を限とす。その村は未申(南西)に当り6町40間。
北5町16間代田組駒板村の界に至る。その村は戌亥(北西)に当り8町20間。
また、
寅(東北東)の方8町5間代田組生井新田村に界ひ、明浜を限とす。その村まで13町40間。
辰巳(南東)の方3町32間長原新田村の界に至る。その村まで6町40間余。
亥(北北西)の方4間代田組藤倉新田村の界に至る。その村まで1町40間余。

村中に二本松街道あり。

山川

吹屋(ふきや)

村南2町20間にあり。
下居合村の界より来り、西に流るること4町余また下居合村の境内に入る。

明沢(あかるさわ)

村北5町10間余にあり。
源は金堀村の山奥より流出て滝沢村・下居合村の山中を過ぎ、西の方に流れて駒板村の界に入る。
この村の境内を経ること2町10間余。
広3間計。

水利

日橋堰

駒板村の方より来り、田地の養水となり下居合の方に注ぐ。


外部リンク等



村名について

幕末まで(1868年)、会津郡松窪村
明治8年(1875年)、 松窪村・長原新田村が合併し松長村となる。
明治22年(1889年)、上蚕養村・八幡村・金堀村・鶴賀村・亀賀村・松長村・八角村が合併し蚕養村となる。
明治24年(1891年)、蚕養村が一箕村に改称。
昭和30年(1955年)、門田村・湊村・一箕村・高野村・神指村・大戸村・東山村が若松市に編入し、改称して会津若松市となる。

二本松街道と吹屋川

会津の街道より「大寺駅までの道」を一部引用)
式内社蚕養国神社わきの綿掛橋は、文化(1804年~1818年)年間には、長さ四間・幅二間五厘、勾欄のある橋であった。橋を渡って北へ進むと不動川の橋に出る。ここが藤原で、橋の左岸に石碑と休み石がある。
石碑は「東堂山」(大正十四年)、「馬頭観世音」(昭和五十年)、「南無阿弥陀仏」(享和三年)、「湯殿山」(昭和五十二年流出により復元)、「古峰神社」(明治四十年)、「秋葉山」(文政十二年)の六基であるが、当初の位置については不明である。休み石はこれらの石碑群の右、道傍に高さ七〇センチメートル弱で上が平らな石で、重い荷を背負って休むのには格好(かっこう)の石である。
橋を渡って進み、富士通前のバイパスを横断して国道49号線をガソリンスタンドの西で渡って上居合(かみいあわせ)に向かう。上居合から49号線を再び横断する。近くにバス停留所「壇別」がある。
街道は少しずつ登りになって松窪温泉(鉱泉)に着く。ここに下居合一里塚があった。現在は東のものだけが残されている。東南へ行く道は長原へ通じている。東北へ吹屋川の呼橋(よばるはし)を渡る。この橋は文化年間には長さ三間・幅九尺であった。伝説に鬼一(きいち)法眼の娘・皆鶴姫が牛若丸を恋募ってきて、ここでその名を呼んだので呼橋と称するようになったという。
(以下略)

吹屋川は呼橋が架かっている川とのこと。
最終更新:2025年12月27日 23:22