蒲原郡下條組赤谷村

越後国 蒲原郡 下條組 赤谷(あかたに)
大日本地誌大系第34巻 76コマ目

府城の西北に当り行程20里9町。
家数109軒、東西7町・南北3町、両頬に住す。
東南は山に倚り西北に田圃(たんぼ)あり。

新発田街道駅所にて村中に本陣を置き、官より令せらるる掟条目の制札あり。
綱木村駅より1里8町ここに継ぎ、ここより1里41間新発田領本郡山内村駅につぐ。

東1里20町計五十沢村の山に界ふ。
西1里20町余、公領本郡女童村の山に界ふ。
南25町綱木村の界に至る。その村まで1里4町。
北7町45間滝谷村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り28町40間余。
また
戌亥(北西)の方18町12間新発田領本郡中山村に界ひ境川を限りとす。

村南に一里塚あり。

加藤氏の時滝谷村と山界を争し時の裁許状あり。その文如左(※略)。


山川

飯豊山(いひてやま)

村東10里余にあり。
頂まで1里余。
南は鹿瀬組実川村に界ひ、西の方烏帽子嶽(えほしたけ)蒜葉嶽(ひるはたけ)馬髪立(うまのかみたち)等の諸峯連なり、北は本村及び滝谷村と入逢なり。
実川村の条下を并見るべし)

棚橋沢川(たなはしさはかわ)

村南5町計にあり。
棚橋という山より流れ出、西に流れ北に転じ不動橋という小川を得て飯豊川に入る。
境内を経ること30町計。
広6間。

境川

村西19町余にあり。
金鉢(かなはち)という山より流れ出、処々の渓流を得て北に流るること1里18町余飯豊川に入る。

飯豊川

村北7町余にあり。
飯豊山の西麓より流れ出、西に流れて境川を受けまた内蔵川に会し、滝谷村と入逢の地を流るること10里余、中山村と黒川領本郡小戸村の界に入る。3流合する所を三淵(みふち)という。
広30間。

内蔵川(うちのくらかわ)

村北20町にあり(滝谷村の条下に詳なり)。

原野

内蓋木河原(うちふたきかわら)

村より辰巳(南東)の方1里計にあり。
東西30町・南北10町計。
滝谷村と入逢の秣場なり。

関梁

境橋

村北19町10間余、新発田街道、境川に架す。
中山村と橋の中央を境とす。故に名つく。

赤谷口

村中にあり。
ここより新発田に達す。
木戸門を設け番戍(ばんじゅ)を置き、往来を察せしむ。

神社

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
村より亥(北北西)の方5町にあり。
鳥居あり。村民の持なり。

寺院

龍泉寺

村中にあり。
重福山と號す。陸奥国耶麻郡五目組熱塩村示現寺の末山曹洞宗なり。
この村の住小田切参河が草創にして菩提所なりしという。その年月は知らず。
その頃梅易という僧住せしに、天正6年(1578年)兵燹(へいせん)に罹り、7年の後梅易また来て再興すという。
元和2年(1616年)本郡蔵光村香傳寺9世剛金という僧住せしという。
弥陀を本尊とし客殿に安ず。

観音堂

村西2町計、山上にあり。
十一面観音を安ず。
造立の初知らず。
村民の持なり。

古蹟

笠菅塁(かさすけのるい)

城四郎長茂これを築くという。今その地を詳にせず。関峯の事なりともいう。
東鑑に『壽永元年九月二十八日越後国城四郎永用於越後国小川庄赤谷構城郭剰奉崇妙見大菩薩奉咒詛源家由有其聞』とあり(壽永元年:1182年)。
旧村西に壇2あり。長茂源家を呪詛せし所という。今その1存す。三成にて高1丈・周40間。土人大壇と唱ふ。
今観音堂に異相(いそう)の佛像2軀あり。各長1尺8寸。長茂が時のものなりといい伝う。

関峯塁(せきがみねるい)

村西3町計、山上にあり。
東西40間・南北50間。
今草木繁茂せり。土人往々兵器の朽たるを得ることありという。南の方に(ほり)の跡あり。
この所は天正15年(1587年)葦名の臣小田切参河というもの、上杉氏の兵を拒みて忠死せし所なり。
初、景勝の臣新発田因幡との主に背き葦名に属し五十公野という所に楯籠り、新発田の城には因幡が一族源太という者を(こめ)置き、合戦年を経てやまず。会津よりも援兵(えんぺい)をこの地に出し新発田の後詰めをさせければ、上杉の軍動もすれば敗衂(はいじく)せり。
此度(こたび)は五十公野新発田を脇に見て直ちにこの地に押向い、会津往還の道を塞ぎ(さき)つ小田切に腹をきらせその後に新発田等を誅せんと商議して、10月中旬景勝みづから兵を(ひき)いてここに向う。小田切この由を聞き、今この小勢にて2町にたらぬ小城を頼み墓々(はかばか)しく矢の一筋も射かけざさんこと口惜とて、(にわか)にこの峯に取上り要害を構える。因て兵糧も乏しく水草も疎なれども、上下百人計、心を一にして景勝の大軍を引き受けたり。
景勝ここに来り「小田切もさるものなり。その上勢の多少も計り難し」とてこの所より辰巳(南東)の方4、5町を隔てたる山上に3日までぞ陣したる。
このとき津川よりも兵粮及び加勢を遣わす。途中にて上杉の兵に追立てらる(阿部理非内・長谷川近内等、踏留て上綱木の細道に支えしというはこの時なり。新谷村の条下と照らし見るべし)。小田切も終に力屈し思うままに合戦し、なお敵の手にかからじとて腹切て死しけるとぞ。
(この事夏目定房が記には、天正14年(1586年)9月の事とし、小田切がことを赤谷左衛門佐と記せり。また五十公野に籠りしは井地峯道壽齊というものにて、新発田の城には因幡が籠りしよし見ゆ。今専ら四家合考の説による)

大将陣場

村南にあり。
高20間計。頂上に1町四方計の平地あり。
天正中(1573年~1593年)景勝小田切を討しとき、山上に三日陣せしというはこの所なり。今陰々(いんいん)たる杉森となる。
また東の麓に清水あり。岩間より出つ。土人景勝清水と名つく。景勝鑓の(いしづき)にて穿ちしとぞ。



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    • 上赤谷地区(赤谷)
    • 飯豊山
    • 棚橋沢川 - 棚橋山からこの村の西側へと流れる川?
      • 棚橋山
      • 不動橋川は不明ですが、不動橋というバス停ならありました。
    • 境川
    • 飯豊川 - 現在の加治川の上流
    • 内蔵川 - 今はダムにより湖が出来ている内の倉湖流域の川。
    • 内蓋木河原?
    • 境橋 - 境川に架かる橋。会津藩の北西隅、新発田藩との境界線。参勤交代の際は家臣がこの橋まで出迎えていたそうです。
    • 赤谷口 - 番所跡等は無いようです
    • 山神社
    • 龍泉寺
    • 観音堂?
      • 寺院明細帳を見ると龍泉寺の境内佛堂の条に観音堂の記載があります(相変わらず裏面のイメージはありませんが)。おそらく後年に移されたのではないかと。
    • 笠菅塁 - 不明。
      • 小戸の要害山にあったのではとの説あり。ただ、滝谷村に要害山にあった館は小田切参河の旧館との記載あり。
    • 赤谷城(関ヶ峰城)址(関峯塁)
    • 大将陣場跡?
      • おそらく龍泉寺南の山の上。地理院地図には神社のマークあり(神社明細帳には登録なし)。
      • 景勝清水。上の山の東側。
    • 国鉄赤谷線赤谷駅跡

  • 管窺武鑑(かんきぶかん)(著:夏目定房) - 米沢図書館デジタルライブラリー
    • 上杉関連の軍記物。最初に父・定吉が仕えた上杉謙信・景勝の事を記し「上杉記」とも称される。次に夏目家と縁のある景勝家臣の藤田能登守信吉、定房が仕えた永井家について記し、夏目家についても記す。
  • 会津四家合考(あいづしけごうこう)

※笠菅塁の条、吾妻鑑の口語訳
寿永元年9月28日。越後国の城四郎永用(長茂の事)は越後国小川庄赤谷に於いて城郭を構える。(それだけでなく)、妙見大菩薩を奉じ源家を呪詛している、との噂(由)を聞いた
河沼郡坂下組長井村の記にも城長茂が横田河原で敗れた後の話が載っています。

余談。
地名に残っていないのではっきりしませんが内蓋木河原は、本文にも東西に長い秣場との記載もあるので、今の東赤谷(国鉄赤谷線東赤谷駅跡のある)付近、もしくはその先にあったのではないかと。
最終更新:2020年11月26日 21:25