小千谷陣屋の北に当り行程16町余。
家数92軒、東西1町26間・南北6町16間。
東は信濃川に傍ひ西南北は田圃なり。
東3町28間、公領本郡薭生村に界ふ。
西7町37間
山谷村の界に至る。その村まで22町20間余。
南2町20間
西千谷川村の界に至る。その村まで12町20間。
北4町36間
三佛生村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り9町30間余。
また
未(南南西)の方1町37けん
平沢新田村の界に至る。その村まで6町50間余。
戌(西北西)の方3町36間
小粟田村の界に至る。その村まで8町余。
山川
信濃川
村の寅(東北東)の方4町余にあり。
薭生村の境内より来り、3町20間余北に流れ
三佛生村の境内に入る。
関梁
橋
村の巳(南南東)の方にあり。
長8間・幅1間、千谷郷川に架す。
長岡に通る街道なり。
神社
熊野宮
村の寅(東北東)の方にあり。
鳥居あり。
神職 西方但馬
安永中(1772年~1781年)但馬定趙という者神職となる。
今の但馬定政が祖父なりという。
山王神社
村の辰巳(南東)の方にあり。
村民の持なり。
伊勢宮
村北2町にあり。
村民の持なり。
寺院
長樂寺
村西1町余にあり。
千谷山と號す。曹洞宗、小粟田村潮音寺の末寺なり。
文明中(1469年~1487年)益公という僧創立し、弘治中(1555年~1558年)潮音寺第2世廣尭という僧再興すという。
弥陀を本尊とし客殿に安ず。
『泰器盛安大姉』の霊牌あり。稲葉刑部某の妻なりとぞ。
慶長5年(1600年)稲葉新平某この人の冥福を薦めん為に田畝を当寺に寄附せしという。
鐘1口あり。径2尺5寸、『越後國魚沼郡藪神荘千谷村千谷山前総持長樂寺九世本名代求之也寶暦八戊寅天』と彫付けあり(寶暦8年:1758年)。
薬師堂
境内にあり。
寶物
古文書 1通。その文如左(※略)。
観音堂
村中にあり。
草創の年月をしらず。
小千谷村慈眼寺これを司る。
十王堂
村中にあり。
創立の時代詳ならず。
村民の持なり。
墳墓
稲葉刑部妻墓
長樂寺の申(西南西)の方2町10間にあり。
5間四方計の壇にて、石塔なくただ空輪1を存す(長樂寺の条下と照らし見るべし)。
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- 千谷
- 有明橋
- 熊野宮 - なし
- 祭神は櫛御氣野命(須佐之男命の別名)で熊野大神とも言われ、出雲(島根県松江市出雲)熊野大社の祭神です。会津地方に沢山ある熊野神社は紀伊国(和歌山県)の熊野三社権現の方。
- 明治43年9月30日に日吉神社へ合併。
- 日吉神社(山王神社)
- 祭神は大山咋命で、明治時代に熊野神社を合併し櫛御氣野命も合祀。
- 神明宮(伊勢宮) - 見当たらず
- 神社明細帳に登録はありますが見当たりません。旧住所は北魚沼郡千田村大字千谷字下原。祭神は天照皇大神です。
- 長楽寺
- 観音堂?
- 十王堂?
- 稲葉刑部妻墓?
- 見照院 - 日吉神社の北
- お堂?
余談。
寺院明細帳(52-1)を見ると、千谷には見照院・大瀧院・長楽寺と3つの寺院があるようです。
長楽寺は風土記にも記載があるのですが、観音堂・十王堂と見照院・大瀧院が一致しません。さらに大瀧院は所在地も不明です。
見照院と大瀧院は本尊が不動明王です。十王の1番目である秦広王の本地は不動明王なので十王堂と重ねることは出来なくはないですが、多少こじ付けが過ぎます。同様に十王の8番目である平等王の本地は観世音菩薩ですが、こちらは不動明王と離れてしまいました。
観音堂と十王堂はどこに行ってしまった、もしくはどうなってしまったのでしょう。
補足:十王信仰について。
中国発祥の信仰で、日本では地蔵菩薩と結びついて広まりました。十王とはあの世で生前の罪を判断する裁判官のことで、有名所に閻魔大王という方がいらっしゃいます。本地とは大雑把に言えば本来の姿のことで、例えば閻魔大王の本地は地蔵菩薩です。
|
名称 |
本地 |
第一 |
秦広王 |
不動明王 |
第二 |
初江王 |
釈迦如来 |
第三 |
宋帝王 |
文殊菩薩 |
第四 |
五官王 |
普賢菩薩 |
第五 |
閻魔王 |
地蔵菩薩(六道能化) |
第六 |
変成王 |
弥勒菩薩 |
第七 |
太山王(泰山王) |
薬師如来 |
第八 |
平等王 |
観世音菩薩 |
第九 |
都市王 |
勢至菩薩 |
第十 |
五道転輪王 |
阿弥陀如来 |
最終更新:2020年12月02日 20:20