会津五佛とも。
会津五薬師とは…
大同元年(806)に
磐梯山が大噴火となり、それが原因で会津地方では農作物に大きな被害があり、疫病も蔓延した為、徳一大師は安寧を願い5躯の薬師如来像を彫刻しそれぞれ祭ったと伝えられています。
余談
会津五薬師には、時代とともに焼けたりし変化転しています。
確実な記録としては『会津旧事雑考』の「向羽黒山城・巌館銘」(永禄11年・1568年)に書かれていて、「東方恵日寺、南方火玉堂寺、西方日光寺、北方漆、中央勝常寺」とあるものです。
江戸末から大正時代では、南の薬師は「下雨屋薬師」に代わっていたことが『耶麻郡誌』に書かれています。
弘法大師伝説
会津五薬師の建立に関して次のような伝説がある。
昔、会津の地は磐梯山に住む魔物によって常に霧が立ち込め、太陽が遮られて作物が育たなかった。そのため、人々に病気が蔓延し、長い間苦しめられた。このことを聞いた朝廷は弘法大師(空海)を会津に派遣した。弘法大師は法力により魔物を撃退し、さらに、人々の無病息災や心身堅固、五穀豊穣の祈願のため、5体の薬師如来像を造立することとした。しかし、完成直前に朝廷より帰京の命が下ったため、後事を徳一上人に依頼し、やむなく帰京した。その後、徳一は5つの堂を会津各地に建立し、完成した5つの薬師如来を安置したという。
空海が会津へ来たという確証はなく、また、徳一は南都六宗の一つ法相宗の僧で新興仏教の担い手であった空海とは対立する立場であった。そのため、上記の伝承はあくまでも伝説であって、事実ではないといえる。会津五薬師が現在真言宗寺院となっていることから、おそらくこれらの寺が真言宗に改宗した際に寺を空海と結びつけるためにこのような話を創造したのであろう。
最終更新:2025年07月05日 20:32