この村もと勝常寺村と称し勝常寺の寺領料なりしが、天正中(1573年~1593年)没収せらるという。後寺の字を省けり。
府城の西北に当り行程2里7町。
家数47軒、東西1町45間・南北2町41間。
四方田圃なり。
東3町10間
上垂川村の界に至る。その村まで8町30間余。
西6町10間
青津組履形村に界ひ鶴沼川を限りとす。
南49間
五町目村の界に至る。その村まで2町30間余。
北6町45間
堂畠村の界に至る。その村まで8町40間余。
また
丑寅(北東)の方3町24間
中台村の界に至る。その村まで8町20間余。
巳午(南南東~南の間)の方3町30間
中目村の界に至る。その村まで13町。
寅卯(東北東~東の間)の方26間
下垂川村の界に至る。その村まで11町10間余。
山川
鶴沼川
村西6町余にあり。
五町目村の境内より来り、北に流るること6町
堂畠村の界に入る。
水利
高久堰
寺院
勝常寺
村北薬師堂の西にあり。喬樹多く物古たり。
真言宗山號を瑠璃光山という。
大同中(806年~810年)空海創建する所といい伝う。
大永5年(1525年)葦名盛舜寺料20貫文の地を寄付せり。
旧記文書も多かりしが、天正巳丑の乱(1589年)に強盗に掠められその後火災に罹り紛失せり。故に累世住職の僧侶詳ならず。今に薬師堂のみ古のままにて寮舎は後の修造なり。今なお十王堂の遺址及び知徳寺・願成寺という字残れり。
山城国仁和寺御室の末山なり。
鐘楼門
2間4尺に1間半。
鐘径2尺1寸。文和2年(1353年)に鑄る所の物小なる故天和中(1681年~1684年)改め鑄る。『天和元年権大僧都法印日宥』という彫付けあり。銘あれども煩しければ略す。
客殿
8間に6間、南向き。
本尊不動。
外に地蔵の像あり。
寶物
如意輪観音掛物 1幅。空海筆という。
古文書 3通。その文如左(※略)。
薬師堂
村北にあり。
10間半四面、南向き。四方に庇縁あり。
瑠璃光山という額あり。
長7尺の薬師を安ず。空海作という。
大同中(806年~810年)空海この地に来り自ら薬師の像を刻み勝地を撰て五ヶ所に安ず。
東に
本寺村(耶麻郡川西組)。
北に
漆村(同郡小沼組)。
南に
堤沢村(会津郡南青木組)。
西に
宇内村(青津組)。
中央はこの佛なり。因て中央の佛という。
十二神将、各長3尺。
外に観音の像あり。長6尺7寸。
会津三十三所順禮の一なり。
勝常寺これを司る。
二王門
3間半に2間。
力士の像、各8尺1寸。
山王神社
薬師堂の東にあり。
鳥居あり。
宗像神社
二王門にゆく路の右小池の中にあり。
墳墓
古墓
薬師堂の北にあり。
勝常寺13世の僧覚成というが墓なりとぞ。
数圍の榎の下に古き石塔あり。文字はなし。
- 会津五薬師 - 大同年間に空海が掘ったとされる薬師を安置している堂
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- 勝常寺 - 極上の会津プロジェクト
- 勝常寺薬師堂 - 湯川町
- 勝常寺 - wikipedia
最終更新:2025年06月14日 20:35