耶麻郡小沼組漆村

陸奥国 耶麻郡 小沼組 (うるし)
大日本地誌大系第32巻 58コマ目

府城の北に当り行程5里1町。
家数79軒、東西3町30間・南北2町50間。

東25町下川前村の界に至る。その村まで1里7町。
西3町29間・北8町30間、共に熊倉組下吉村の界に至る。その村は戌(西北西)に当り4町40間余。
南5町47間熊倉組熊倉村の界に至る。その村まで13町。
また
辰巳(南東)の方12町58間関屋村の界に至る。その村まで16町。
未申(南西)の方11町20間熊倉組中里村の界に至る。その村まで14町50間。

端村

谷地(やち)

本村の西8町にあり。
家数19軒、東西1町42間・南北1町16間。
四方田畠なり。

戸合(とあひ)

本村の東12町50間余にあり。
家数5軒、東西46間・南北30間。
南は大塩川に傍ひ三方田畠にて東北は山に近し。

山川

一森山(いちのもりやま)

村東30町にあり。
その北に二森山(にのもりやま)あり。
共に高100丈計。
またその北に三森山(さんのもりやま)あり。二森より高し。
松樹雑木多し。

石山

村東20町にあり。
岩山なり。
村民この石を採て石爐・石階・橋等に造る。

三森川(さんのもりかわ)

三森山水源にて、30町計未申(南西)の方に流れ村北をすぎ中里村の方に注ぐ。
広2間計。
下流を渋川という。

大塩川

村より辰巳(南東)の方10町にあり。
関屋村の境内より来り、斜に未申(南西)の方に流るること22町熊倉村の界に入る。

関梁

戸合橋

端村戸合の南にあり。
長9間・幅1間、大塩川に架す。
隣村の径路なり。

水利

綱取堰(つなとりせき)

村より辰巳(南東)の方にて大塩川を引き田地に(そそ)下吉村の方に注ぐ。

小塩堰(こしほせき)

村南にて大塩川を引き田地に漑ぎ中里村の方に注ぐ。

神社

上諏訪神社

祭神 諏訪神?
相殿 山神
   麓山神
勧請 不明
村より寅卯(東北東~東の間)の方8町40間余山麓にあり。
鳥居あり。高柳村山本源之進が司なり。

下諏訪神社

祭神 事代主命(ことしろぬしのみこと)
相殿 伊勢宮
   稲荷神
鎮座 不明
村東6町10間余にあり。
鳥居拝殿あり。山本源之進が司なり。

寺院

大正寺

村の丑寅(北東)の方6町にあり。
打越山と號す。
弘仁中(810年~824年)空海この寺を創建し、真言の徒をして薬師の像を守護せしむ。
永禄中(1558年~1570年)廃絶す。その後浄土の徒居住し、慶長5年(1600年)天台の徒常海来り住して郭内延壽寺の末山となる。
本尊弥陀立像、長2尺3寸5分。脇士観音・勢至、共に長1尺9寸、運慶作という。客殿に安ず。

寶物

笈 1荷。武蔵坊弁慶がものという。

松音寺

村中にあり。
山號を鷲嶺山という。真言宗河沼郡笈川組勝常村勝常寺の末山なり。
永禄2年(1559年)宥範という僧開基す。
本尊釈迦、長5尺6寸3分。相伝て行儀行基の作という。昔村南に5間四面の堂ありて安置す。天正中(1573年~1593年)兵火の後客殿に安ず。

薬師堂

村より丑寅(北東)の方17町30間、山の上にあり。
9折にして登ること1町10間計。
堂4間四面、南向き。
北山薬師といい、また峯の薬師とも唱ふ。
弘仁中(810年~824年)空海本州に来りしとき、この地において護摩を修し自ら薬師の像を刻み堂宇を建立してここに安置し、また別に1寺を草創してこの堂を守らしむ。今の大正寺これなりという。
永禄中(1558年~1570年)大正寺廃絶におよびこの堂宇も頽顛(たいてん)せしを、慶長年中(1596年~1615年)に蒲生忠郷再び廃れたるを興し府下東黒川南町分弘真院の開山秀榮を請て供養の導師とす。因てその後弘真院が司となる。
堂の後に奥院と称して岩石多く重り家屋の如なる所あり。その中空虚にして方1丈計・高9尺計、上にさし覆える岩の外面に円かにくぼめる所あり。旧その内に蓮華座ならび梵字ありしという。今は分明ならず。初空海この地に至りしとき自然にこの梵字ありしかば、奇瑞に感じ護摩を修し薬師の像を刻て安せしという。或は空海自らその梵字を彫しともいう。
会式は8月7日、8日なり。
本尊薬師立像、長2尺。脇士日光月光ならび十二神将を安ず。
会津五佛の一なり。

古蹟

綱取城蹟

村東15町、山上にあり。
麓より登ること50間余に平地あり。
東西50間・南北30間。
大塩川その麓を流れ東より南をめぐり、川を隔て関屋・樟の諸村眼下に見え眺望(すこぶ)る佳なり。
永正の比(1504年~1521年)葦名氏の臣松本勘解由左衛門これに居る。永正2年(1505年)松本源蔵・同勘解由、佐瀬・富田と隙ありし時、葦名盛高は佐瀬・富田に党す。その子三郎盛滋は松本に党しこの館に籠る。白川氏来て和議をあつかいしかども従わず、10月9日より塩川村の橋を隔て日々に合戦あり。同14日盛滋終戦負て出羽国長井に出奔す。中目・西勝・佐野・栗村・松本新蔵人等これに従う。同3年(1506年)父子和睦有て盛滋長井より帰るという。
(長帳によるに、明應9年(1500年)正月15日葦名盛高漆へ押寄せ綱取城をかこみ、2月5日に攻落すということありて、城主の名氏を載す。舊事雑考には松本勘解由居と見ゆ)。

館跡4

一は村東8町にあり。東西48間・南北41間。その北の畠の字を木戸脇という。この地より往々古瓦を得ることあり。
一はその東1町にあり。東西82間・南北31間。
一は村より丑寅(北東)の方2町にあり。東西44間・南北30間。
一は村より戌亥(北西)の方1町30間にあり。東西27間・南北30間。
何れも何人の築しや詳ならず。今は畠となり土居の形のみ僅かに存せり。

石佛

村南5町40間にあり。
形圭首に似たる自然石なり。
高7尺5寸・幅3尺、表はきわめて平かにして梵字3字あり。下に蓮花座を彫り、またその下に数10字を彫れども剥落して(わずか)に『一念彌陀佛即滅旡量應永二年』*1の13字を弁す(應永2年:1395年)。村民名けて石佛という。
また村の辰巳(南東)の方5町に1体あり。高6尺・幅2尺4寸。
また村の戌亥(北西)の方4町40間余にも1体あり。高6尺・幅2尺9寸。
みな梵字蓮花座を彫る。文字あれども読べからず。その形共に村南の石に同じ。何れの頃にか3体の石佛を以てこの村の橋に架せしが、正保中(1645年~1648年)村民2橋を掛替て、石佛をばその傍に建置けり。その中1橋は費用すくなからざればその(まま)にてありしが、寶永4年(1707年)河沼郡笈川組粟宮新田村覺圓という者この橋をも掛替え石佛を故の如く建(即今村の戌亥(北西)の方にあり)。
初め小沼村の端村勝本新田に忠左衛門という者あり、終に臨んでその子孫助に向い「我平生家貧しく数々のおいめありて未全く償わず、臨終の今に及んで心にかかることはこれのみなり。汝如何にもして償いくれよ」といい、孫助快くうけがいければ忠左衛門よろこびて身まかりぬ。その後年を経て孫助昼夜心を尽くし産業を営み多くの債ども償いけり。その中粟宮新田村勘之丞という者は先立て身まかりければ、孫助勘之丞が子の覺圓が許に行て爾々(しかじか)の旨を告ておいめ償いければ、覺圓「汝が父既に身まかり、我その事をしらず」といって敢えてうけず。孫助また固く償わんことを請ければ、その時覺圓漆村の境内に佛名を彫たる小橋あり村民これを掛替んことを計れども費用少からずしてその事ならずと聞き「今この金を以てその費用に供せば両家の追福ともなるべし」といいにぞ。孫助その意に同じ不日に橋をかけ替て石佛をその傍に建置けり。
また大正寺の門前にも1体あり。高5尺・幅2尺7寸。石の形始に同じ。梵字のみ見えてその余剥落せり。

旧家

澤左衛門

この村の農民なり。遠藤大隅某というものの子孫なりといえど世系事実詳ならず。
始め小田付組岩崎村に住せしが、元禄中(1688年~1704年)荘七郎という者この村に移りしよりここに住す。
豊臣家より与えられし文書1通家に蔵む。その文如左(※略)

褒善

遠藤荘七郎

この組の郷頭なり。初は小田付組岩崎村の肝煎なり。生まれつき謙遜にしてよく諫を入れ人の為にはかりて、実義深く村民を教導して農業に怠らしめず。暇ある日は村翁・野童を集めて条目など読み聞かせその意をいいおしえければ、風俗改まりて争論おのづから少れなり。またよく父母に事ふ。父母年老屋の東数歩に退休の所を営みて住けり。常に彼父朝とく起きて荘七郎が許に来り萬の事とも指揮しける。因て雪の晨には父の未起きざる前に未明より起き出て雪ふみわけて老父の通路やすからしむ。この事奴僕にもしらしめず。かかる行とも多かりければ、元禄2年(1689年)に移して本組の郷頭とす。






追記:漆の石佛
とんりすんがりさんより情報頂きました。
漆の石佛は4体全て現存しており、南の石佛の位置に各方位の石佛の説明板が設置されているそうです。

東の石佛

西の石佛

南の石佛

北の石佛
最終更新:2020年07月24日 19:06

*1 雄山閣では「旡」を「无」と記載。「旡」は「既」の原字で「无」は「無」の略字のため、おそらく雄山閣版が正しい。