アットウィキロゴ

郭外 > 下町 > 桂林寺町

陸奥国 若松 郭外 下町 桂林寺(けいりんじ)
大日本地誌大系第30巻 158コマ目
幕末会津若松城下地図 - 会津若松市/デジタルアーカイブ

桂林寺町口の郭門を出て北の方七日町に至る。
長5町53間余・幅3間。家数128軒半。

昔何の頃にか桂林寺という時宗の道場(今その地を詳にせず)ありし(ゆえ)町名とせり。
中程より当麻町に出る小路あり。
(東黒川千石分の地雑はれり)。

浄光寺跡

この町の北頬(ほり)際にあり。
寛文11年(1671年)徒町願成就寺前通に移し蹟を町屋敷とす。

成就寺跡

浄光寺蹟の北にあり。
今は護摩堂屋敷と称ふ。
天台宗郭内延壽寺の末山にて山號を如意山といいしとぞ。開基の始詳ならず。
什物に秘密灌頂(かんじょう)式一軸ありて、應永25戌亥年(1418年)本寺僧英海より如意山成就寺住持耀海に付属すという奥書ありしという。
何のころにか廃して町屋敷となる。

旧家

早山藤蔵

藤原姓にて先祖を延時という。初左兵衛尉と称し後掃部頭と改む。本州白川の産なり。
四条院延應元年(1239年)南都東大寺の洪鐘を造んとて冶工に命じて鑄さしむるに成らず。この時延時、たまたま京師*1にありしかば冶工に代り山に入てこれを鎔せしに、その功不日に成て(やが)て朝廷に達す。因て勅して氏を早山と賜い、これより世々早山氏を称すといい伝う。
その後、数世の間譜第詳ならず。
永正の頃(1504年~1521年)裔孫に掃部助兼次というものあり。始て会津に来りこの町に住し、大沼郡高田組高田村文珠堂鐘楼に懸る所の鐘の命に『大檀那平盛高永正十四年丁卯四月十九日大工掃部助兼次』*2とあるこれなり。
その子掃部助家次といい道金と號す。耶麻郡川西組本寺村恵日寺の鐘に銘あり。
その子を主殿助善次といい郭内諏訪神社の鐵燈籠、耶麻郡熊倉組上勝村勝福寺の鐘に銘あり。
その子を掃部助吉次といい、これより相襲て世々掃部助と称す。
吉次が子を定継といい河沼郡牛沢組柳津村虚空蔵堂の鰐口に銘あり。
その子を定次といいこれも彼別当圓蔵寺の鐘に銘あり。
これ等みな名を金石に勒して人の知る所なり。
定次より今の藤蔵由次に至て15世の間冶鑄を業とし、封内寺社の神器佛具を作りその名今に至て見るべし。
また傍ら戎器を製す。
今月俸を給て家人の列に次せしむ。
往昔延時に賜所の綸旨永く伝て家珍とせしが、慶長15年(1610年)3月15日の火災に失えしという。

外部リンク等


余談

桂森稲荷神社は明治43年10月10日に青麻神社へ相殿・遷座となりました。
その青麻神社も現在は諏方神社境内に遷座されています。
二社の由緒書きについて→諏訪神社(若松)#青麻神社・桂森稲荷神社の由来
最終更新:2026年01月18日 12:59
添付ファイル

*1 京の都

*2 注:永正14年(1517年)は丁丑。永正4年(1507年が)丁卯なので銘のどちらかが間違っている可能性あり