諏訪神社

※国立公文書館デジタルアーカイブより

祭神 武御名方(たけみなかた)
勧請 永仁2年(1294年)8月
この丁の末にあり会津六社の一(東黒川蚕養宮村蚕養国神社・大沼郡高田組高田村伊佐須美神社河沼郡牛沢組塔寺村八幡宮・耶麻郡河東組見弥村磐椅神社・越後国蒲原下条組西村八幡宮に当社を合せて会津六社と称し、神職世々従五位上下の内に叙す。封内の神職多くはこの配下に隷せしむ)にて若松の大鎮守なり。
祭神は武御名方命。
相伝ふ。昔葦名氏新宮某を征せんとて河沼郡笈川村まて行向ふに一人の禰宜(ねぎ)鉾を荷て陣前を過るあり。自謂ふ、某は信州諏訪の社司なり。諏訪は軍神なれはかく行逢(いきあい)奉ること吉祥と云へし、今日の軍必利あらんと葦名氏大いに喜ひ彼をして先登たらしむ。この日新宮氏戦わすして雌服せしかは、その神徳に感し伏見院永仁2年(1294年)8月当社を勧請す。小野氏・佐久間氏・笠原氏3員の神家神与に従ひ来るその時神體(しんたい)を奉し来る。辛棺(からひつ)(今は失ふ)に(まとい)ひしなりとて(くろがね)の注連あり、その四手(しで)*1に永仁2年の紀號あり(寶物の部に出す)。後円融院永和元年(1375年)当社造営7月14日柱立あしりこと諸の旧記に見ゆ。疑らくは再建のことなるへし。その後奈良院天文5年(1536年)4月26日、同7年(1538年)3月20日両度の火災に罹り珍器・重寶・旧文・古記多くは灰燼(かいじん)(まか)し履歴の詳なることを知(り)難し。ただ昔は3員神職の外に密家の社僧あり。今の大町諏波山弥勒寺これなり。また千手堂・阿弥陀堂・閻魔堂なと浮屠氏の塔頭(たっちゅう)ありしか。寛文中(1661年~1673年)神社改訂の時(ことごと)(こぼ)ち捨つ。葦名氏の時は数多(あまた)の荘園ありて神領多かりしと云い伝れとも今詳ならず。蒲生氏の時に至て百石を寄付せしより今に至れり。

総門

神馬廐

外繋(そとつなぎ)

制札

御手洗川

本一之丁の(みぞ)より分れて社地に入り鳥居の前を西に流る

鳥居

燈籠

石および銅鉄等の数基あり。この内3は住古より常夜燈とす。
拝殿の前の鉄燈籠に彫付あり。地(さび)て文字分明ならす。その銘載て舊事雑考にあれは左に出す。
奥州會津黒川諏訪御寶前常住大旦那平朝臣盛氏願主森田彦兵衛内女大工藤原朝臣早山善次永禄四年辛酉八月日
※永禄4年=1561年

隋神門

3間に2間、南向、中央に額あり『正一位南宮諏方大明神』と題す。
正三位神祇(じんぎ)大副(たいふ)卜部兼敬筆なり
左右に随神の木像あり後に木造の獅子あり。

廻廓

拝殿

幣殿

本社

杮葺にて3間四面、南向。
正南に下る所5級の階あり。
階前に木造の獅子2頭あり。
三方に玉垣を(めぐ)(ら)す。
神體(しんたい)は天羽車に封す。
祭禮7月27日、28日なり。26日を前齋とす。また5月5日に小祭あり花會(はなのえ)祭と称ふ。
7月を大祭とす。三済山(みさやま)祭と称す。茅の穂にて神供(じんく)をかさり神前にて供す。因てまた穂屋(ほや)祭とも云う。本社の式を模せるなり。
従昔神輿渡御(みこしとぎょ)の祭りと云うことあり。諏訪小路と云う所(この地今詳ならず。或謂ふ今の諏訪四谷より赤井丁に出る小路なりと)より神輿を舁出(かきいだ)して黒川の町々を渡せしとそ。後この事久く中絶せしか寶永中(1704年~1711年)正一位の神階を請ひ受しより再ひ旧例によりてこの祭あり(若松条下と併見るへし)。これを授光祭と称ふ(位記の文に『宣榮班式光祠壇』と云うに本くとそ)。

神楽所

神供所

連歌所

假殿

鐘楼

東廻廓の西にあり。鐘径2尺3寸5分。明和中(1764年~1772年)桂林寺町冶工早山伴次か改鑄(かいちゅう)(し)て寄付する所なり。『元禄七甲戌年八月日明和九壬辰年九月期日改鑄之』と彫付あり。
※元禄7年=1694年、明和9年=1772年

寶蔵

御射山

本社の後土居につきて周数間の築山あり。信州の御射山をかたとりしと云う。注連を廻して不入の地とす。俗に獅子山と称ふ。

神木榎

拝殿の東橋廊下の側にあり。
延寶中の火災に殿宇(でんう)・鐘楼(ことごと)燒亡(しょうぼう)せしかは、この所に材を打(ち)額を貫き假に鐘を懸置(かけおき)しに、枝葉を生して程なく大樹となり拝殿の上に(はびこ)れり。屋上(の)葺替なとある時(に)誤て枝葉傷れは必(ず)怪我ありと云う。

隠里石

西廻廓の外にあり。高8尺余・幅4尺余。
従古は今の府城本丸の地にあり。如何(いか)なる(ゆえ)にか人この石を尊崇しけれは蒲生氏城築の時ここに移すと云う。

的場

社地の東橋にあり。
祭禮のとき人多くここに集て射技の優劣を競う

棟札


寶物

鐵注連 一連

四手に『奉觀請仕諏訪大明神永仁二□□八月吉日神佐久祝本願』と彫付あり。按するに永仁二年は甲午なり。また()請は()請を誤りしなるへし。

神剣 一振

古額 一枚

薙鎌 一挺

堤燈籠 二

鐵鉢 一口

高1尺9寸。常に拝殿に置き賽銭を入る器とす。
銘あり。其圖如左

※国立公文書館デジタルアーカイブより

舊事雑考に、葦名盛員その子高盛ともに片瀬に於て打死の後、嗣子直盛幼生なれは盛員の室藤原氏の女にて簾を垂れ行信をして事を攝せしめしなるへしとあり未た詳にしかたし。また案するに丁丑は延元2年(1337年)なり。されとも今年光明帝即位延元の號を廃して建武の號を用ゐられしこと諸書に見えたれはこの鉢にも建武四年(1337年)とは彫付しにや。

獅子頭 二ヶ

(ほこ) 一筋

象 一頭

狛犬

供膳 七具

その一の裏に『天文九年かのえね三月廿六日か存(不詳)次郎』と書付あり。
※天文9年=1540年

問答落着牒


末社 六座

天王神社

白山神社

城森神社

祭神 信州諏訪郡の領主神頼重の霊
勧請 寛文6年(1666年)
城山神社の南にあり。2間に1間。西向き。
寛文6年家士一瀬甚五右衛門と云う者勧請す。

伊勢宮

稲荷神社

忠彦霊社

祭神 友松勘十郎氏興
勧請 不明
稲荷神社の南にあり2間に1間、東向。
肥後守正之時代の執政友松勘十郎氏興(1622年-1687年)と云う者を祭れり。
初大祝部か園中にありしか肥後守正容時代ここに遷して末社とす。
また氏興か遺言によつて彼か祖先の霊をも併せ祭れり

神職 諏訪近江

神職 佐久上総

神職 笠原幸之丞

最終更新:2020年02月29日 05:47
添付ファイル

*1 紙垂