この村もと原村という。何の頃にか勝前(勝前の事は下の勝福寺及び松島の条下に見ゆ)という女この地に来り、病に遇て死す。後中将(勝前の父なるにや。姓名を伝えず)その蹤跡を尋てここに至り、その死を聞て悲惨にたえず数多の堂社を建立す。因て勝村と改む。
後下勝村に対して上の字を加ふという。
府城の北に当り行程4里28町。
家数9軒、東西1町・南北1町。
四方田畠なり。
東1町45間・北2町15間、共に
平林村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り12町40間余。
西3町21間
上高額村の界に至る。その村は未申(南西)に当り10町40間余。
南36間
西中明村の界に至る。その村まで8町30間余。
端村
松島新田
本村の西2町にあり。
家数6軒、東西50間・南北1間。
四方田畠なり。
神社
宗像神社
村西1町余にあり。
勝前を尋ね来りし中将の勧請という。
鳥居あり。勝福寺司なり。
寺院
観音堂
村西1町にあり。
6間に5間、南向き。即中将の建立という。
中将勝前に後れ傷悲の余、新たに観音の像を造て勝前の持佛観音の小像を新像の眉間に嵌せりという。
今観音の像3軀を安ず。
浮壇金の像、長3寸7分。
十一面の像、長6尺3寸。
十一面千手の像、長3寸。
この堂天文中(1532年~1555年)回禄し(長帳に享禄2年(1529年)6月この堂焼失の事見ゆ)、永禄元年(1558年)領主葦名盛興再造す。その後再び頽廃せしを当家入封の後寛文5年(1665年)府より再興す。
またこの堂中に不動・毘沙門の木像あり。共に4尺余、極めて古物なり。
また鐘1口あり。径2尺7寸、銘に云。
奉鑄鐘一口
奥州會津那麻郡勝之村
勝福寺別當滿勝院
本願觀行坊慶筭當寺
大檀那平盛興并隠居盛氏
鑄師大工早山主殿助并小工太郎左衛門銘帳切手兼定
諸行無常 是生滅法
生滅々已 寂滅為樂并
諸旦那等現世安穏後生善所無疑者也
永禄七年甲子季夏日
二王門
5間に2間。
左右に金剛力士の像あり。共に長8尺許、古物なり。
別当 勝福寺
観音堂の南にあり。
松島山と號す。真言宗府下大町
弥勒寺の末寺なり。
本尊大日、長2尺。
相伝て。勝前が冥福の為に中将この寺を建立せりという。
昔はこの寺に属する堂社多かりしが(今この村の境内に八幡宮・天神社・薬師堂・地蔵堂・十王堂・櫻本坊等の遺跡あり)、
尽く
頽破して今は僅かに宗像社と観音堂のみ存せり。
墳墓
古墓3
一は村の申(西南西)の方1町30間にあり。高1丈・周36間、上に老杉1株あり。勝前の墓といい、或は勝前の侍婢を埋めし所ともいう。享保中(1716年~1736年)建てる所の石塔あり。文字なし。
一は村の戌(西北西)の方2町10間余にあり。高9尺・周10間。土人乾坤壇という。
一は村の申(西南西)の方2町10間余にあり。高7尺・周8間、十石壇という。
共に謂れ知れず。
古蹟
松島
村西4町にああり。
東西30間・南北22間。
本州宮城郡松島浦の境致をうしせし所なり。昔、勝前とて京家の女1人この地に来りし時、しばしの宿を求めて民家に立よりしに、長途の疲れにや有けん、病に打伏せて頼すくなくなりゆきしが「吾松島や雄島の磯を尋ね心ある海人の仕業をも詠ん為はるばる都を出て鄙の長路にさまよい来り、図らずも病を得てこの地にして身まからんこそ本意なけれ」とてその様いと哀なり。村人打よりて松島の勝状を模して見せければ、女なのめならず喜び今は心にかかる事なしとてやがて死せり。因て斯く名くという。今も曲岸回渚の形存し、依稀としてその境を渉るが如し。故にこの地に遊ぶ者佳勝を歎賞して昔時を追憶せざる者なし。
余談。
- 松島地区の西、水路がやや蛇行している所が松島の跡地でしょうか?→この辺
- しかし藤倉の皆鶴姫といい大内の桜木姫といい野沢の小野小町といい、京の女性が会津の地で亡くなるという話が多く伝わっていますね。
- 会津発見塾~関柴町の寺宝と郷土史など~ - 山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会スタッフブログ
- 勝福寺と勝前御前の墓、この地区の歴史について記載があります。また熊倉街道の碑の写真もありました。中に寺の建立年は中将政保との記載がありましたが、この方が誰だったのか。
- 喜多方発・勝福寺と勝の前の伝説。 - 得さんのページ
- やはり勝福寺について。「毘沙門像胎内墨書「弘安二年」(1279)の記録があるそうです」の記述があり、その辺りの年代に建立した可能性を示唆しています。
古地図
最終更新:2025年06月17日 21:14