大沼郡高田組高田村

陸奥国 大沼郡 高田組 高田(たかた)
大日本地誌大系第33巻 10コマ目

この地近村より地勢やや高き(ゆえ)名くという。

府城の西南に当り行程2里12町余。
家数248軒、東西2町14間・南北15町54間。

南の端を上丁、次を中丁、末を下丁という。中程に少し東に折るる所あり。
また上丁の東頬より東に分るる通を横町という。
東西1町12間・南北54間。
共に両頬に連れり。
横丁の東に南北の小路あり。
家数12軒、東西23間・南北1町1間。社家町と唱え伊佐須美神社神職の居所なり。
四方田圃(たんぼ)にて東は宮川に近し。

この村は毎月6度の市をたて炭薪を交易し、また越後国より下野国に通る駅所にて村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
河沼郡坂下組坂下村駅より2里32町40間ここに継ぎ、ここより2里1町30間東尾岐組市野村駅に継ぐ。

中丁の西1町に1区あり。
家数6軒、東西1町18間・南北2町41間。
新町という。

東2町29間本郡橋爪組下中川村に界ひ宮川を限りとす。その村まで6町余。
西8町永井野組八木沢村に界ひ赤沢川を限りとす。その村まで21町。
南6町16間永井野組永井野村に隣りその村際を界とす。
北10町48間境野村の界に至る。その村まで17町余。
また辰巳(南東)の方1町48間竹原村に界ひ宮川を限りとす。その村まで5町40間。
丑寅(北東)の方6町8間安田村の界に至る。その村まで9町。
戌亥(北西)の方14町50間寺崎村に隣りその村際を界とす。

また下丁の東40間余に穢多の居所あり。
家数5軒、東西34間・南北34間。

山川

宮川(みやかわ)

村東2町20間余にあり。
永井野村の境内より来り、北に流るるころ13町余安田村の界に入る。

赤沢川(あかさはかわ)

村西8町にあり。
永井野組上戸原村の境内より来り、北に流るること14町余寺崎村の界に入る。
広3間計。

五加木清水(うこきしみず)

村中にあり。
石を(しゅう)*1して方池とす。
径3尺計。
大旱にも涸れずという。

土産

採て苧に製しその粗なる者を漉て紙とし「いらわた」と唱ふ。その幹また世用に便あり。
この村及び近村多く種て売出し産業の資とす。

水利

塊堰(くれせき)

冑組松岸村の方より来り、数派となり田地に灌ぐ。

村西1町にあり。

東西50間・南北2町40間。
享和2年(1802年)に築く。

郡署

代官所

村西20間にあり。
役人を置き本組及び本郡中荒井組・会津郡中荒井組を支配せしむ。
中荒井村郡役所に属す。

神社

伊佐須美神社

横町の東にあり。
伊佐須美神社

齋宮神社

祭神 倭姫命
鎮座
村中にあり。
昔は伊佐須美神社に給事する女官ありて、伊勢の齋王・加茂の齋院の如くここに住せしにや。その旧跡に社を建て倭姫命を祭りしと見ゆ。
昔は毎年3月25日伊佐須美の神輿をこの宮に渡し7日を経て神輿を本社に納めしとぞ。その式今は廃す。
鳥居幣殿拝殿あり。
渡邊伊代これを司る。

寺院

龍興寺

村中にあり。
道樹山と號す。嘉祥年中(848年~851年)の建立にて慈覚の開基なり。
應安の頃(1368年~1375年)堂宇頽破(たいは)しければ、恵雲という僧中興せり。
恵雲より12世の法孫舜幸が時天海これに師とし事え、永禄3年(1560年)この寺にて得度せり。
舜幸が後往を亮慶という。領主蒲生忠郷の命に因り高備中という者の旧屋を(こぼ)ち新に殿閣を営しやや壮麗なしりが、寛永6年(1629年)回禄に罹りしとぞ。
上野国新田郡世良田長楽寺の末山天台宗なり。

制札

入口の左にあり。

客殿

9間に2間、南向き。
本尊不動。

地蔵堂

客殿の西南にあり。
長3尺の地蔵を安ず。
また天海得度の寺の故に因り、正徳2年(1712年)住持尊圓、宮に請い縁を募り慈覚慈眼両大師の像を彫刻し大明法親王の開眼を受けこの堂に安ず。各長2尺5寸。

聖天堂

客殿に西にあり。
もと伊佐須美神社の境内にあり。寛文中(1661年~1673年)この寺に移す。

舜幸墓

境内にあり。
長4尺余の石塔なり。『竪者法印辨譽舜幸』と彫付けあり。
この僧は即天海の師にて恵雲より12世の法孫なり。
また外に永正・天文の彫付けある物数基あり。剥落して字体弁じがたし。

山王神社

客殿の南にあり。

寶物

五大尊掛幅 3幅封。智證筆という。
紺紙金泥普賢経 1軸。慈覚筆という。
胎金曼荼羅 2幅。『文亀三年癸亥九月廿七日』という裏書あり。(文亀3年:1503年)。
文珠画像 1幅。慈眼幼年の筆という。
不動画像 1幅。傳教幼年の筆という。
如来正面画像 1幅。親鸞筆という。如来の下に親鸞父母の像あり。
地蔵画像 1幅。慈覚筆という。
山水画 1幅。唐人筆という。
竹画 1幅。同上。
水晶珠数 1連。慈覚所持の元といい伝う。

文殊堂

伊佐須美神社の北にあり。
暦應2年(1339年)の造創にて昔は運慶作の文珠を安ず。獅子座に乗り、長2尺9寸の木像なり。慈眼の誕生を祈りし霊験の佛なりとて元禄13年(1700年)大明法親王の教に因て東叡山吉祥閣に遷し、別に法親王開眼の文珠の木像を下し賜いしが、天明3年(1783年)の火災に焼て後また定朝作の文珠を下し賜う。殊に慈眼の縁に因り黄金若干を賜り常燈の料とす。天明3年火災の後、鐘楼二王門等経営いまだ成らず。
鐘1口あり。径2尺1寸。近年響あししとて寶暦・享和2度の手入れあり。古銘の末にその年を彫れり文字磨滅せるものあり。その文如左
奥州會津大沼郡
 高田
伊佐須美大明神
 社内之鐘 奥之院
 大旦那  平盛高
 同    平盛安
本願権少僧都智鏡
 別當   清龍寺□□
 同旦越  新右衛門尉
      源左衛門尉
 諸旦那等法喜結縁
  大工掃部助兼次
 永正第十二二天丁丑卯月十九日

白山神社

文珠堂の西南にあり。

智鏡塚

白山神社の南にあり。
法幢寺の住持にて鐘の命に本願智鏡とあるものこれなり。
文亀3年(1503年)伊佐須美社回禄に罹り贈爵の綸旨を失いしに因り智鏡これを請い、天文20年(1551年)再び賜うおいう。
塚の高5尺余・周10間余。
上に6尺系の五輪あり。梵字の外、文字なし。

別当 清龍寺

本堂の西にあり。
護国山と號す。天台宗龍興寺の末寺なり。
暦應2年(1339年)圓濟という僧開基す。

天王寺

村東にあり。
高田山と號す。天台宗龍興山の門徒なり。
開基の僧を観裕という。
何の頃の草創ということ知らず。
本尊弥陀客殿に安ず。

心光寺

天王寺の南にあり。
護念山と號す。浄土宗府下五之町高巖寺の末山なり。
天文3年(1534年)良海という僧開基す。
本尊弥陀客殿に安ず。

法幢寺

心光寺の南にあり。
廣田山と號す。浄土宗高巖寺の末山なり。
明應3年(1494年)玉誉という僧開基す。
その後堂宇頽破(たいは)せしを、天文年中(1532年~1555年)智鏡再興すという。
本尊弥陀の銅像を客殿に安ず。背後に『奉鑄金銅善光寺阿彌陀如来右志為父母二親并常願藤原氏乃法界平等利益成建治貳年丙子二月時正初番』と彫付けあり(建治2年:1276年)。長1尺6寸。
また大黒の像あり。
弥陀・大黒ともに寛文中(1661年~1673年)伊佐須美神社の境内より移す。
大黒は運慶作という。長2尺計。

長光寺

村西1町にあり。
山號を真弘山という。相模国藤沢清浄光寺の末山時宗なり。
文安の頃(1444年~1449年)この村の住義原左京義元という者当寺を建て、この頃1遍の徒長阿弥この地に来りしを請いて開山とし、世々家に伝わる所の安阿弥作の弥陀を安置す。

地蔵堂

客殿の南にあり。

観音堂

天王寺の東南にあり。
十一面観音の木像を安ず。
昔は5町計、丑寅(北東)の方にあり。寛永13年(1636年)ここに移すという。
会津三十三所順禮の一なり。
天王寺これを司る。

箱清水

観音堂の西にあり。
石を甃して方池とす。
径3尺計。

浮身観音堂

村東にあり。
何の故浮身の称ありしにや詳ならず。
観音の像に『永禄二巳未三月十七』という銘ありとぞ(永禄2年:1559年)。
秘佛なり。
龍興寺これを司る。

墳墓

兒墓(ちこはか)

村より丑寅(北東)の方5町にあり。
天王寺の司れる観音堂の旧地はこの所なりという。
往古は7堂伽藍ありて34区の坊舎軒を並べしとぞ。この児はその頃の者なりという。
五輪1基存せり。
また村西4町に塚田とて2間四方の平地あり。
如何なる人の墓にか知らず。
毎年七夕に白雀来るという。謂れを伝えず。

古蹟

館跡

村西1町にあり。
1町四方。四面に土居隍の形残れり。中は菜圃(さいほ)となる。
当寺村八幡宮長帳に、文明11年(1479年)5月27日高田館落ち戦死の者ありしよしを載す(舊事雑考に文明12年の事とす)。
如何なる人にて誰人の為に滅されしにか詳ならず。
土人の口碑には、葦名盛高高田氏を滅さんとてその隙を窺うに、盛高の家人と男色の知音ありしを幸に家童をして語らはせければ、高田氏の家人一議にも及ず領掌し彼一族宮川に漁に出て備なき由を報す。盛高その虚に乗じ俄に襲てこれを滅せりという。
大平記に葦名二階堂小俣とあり、舊事雑考に葦名は会津二階堂は磐瀬のことなれば、この地小俣に近きゆえ高田氏は小俣氏の事なるべしとあり。

寺跡3

一は徳林寺とて村西にありしを、後に会津郡南青木組闇川村に移す。
一は村東にあり。光明寺という。会津郡中荒井組小沢村(※註:原文の間違い。会津郡ではなく大沼郡中荒井組小沢村)に移す。
また伊佐須美神社の境内に神宮寺という社僧あり。本郡南青木組大石村に移す。
共に天台の道場なりしという。

釈門

天海

父を舟木道光という。清龍寺の文珠堂に祈て天文17年(1548年)正月朔日に誕生せり。
永禄3年(1560年)龍興寺現住舜幸を師とし13歳にて剃髪す。
後天海僧と號し、東照宮御帰依の僧にて東叡山を開き慈眼大師と諡す。
行状は世の知る所なればここに略す。

旧家

坂内丹四郎

世々この村の検断*2なり。
先祖を坂内参河憲政といい兵庫信房という者の3男にて、伊勢国より会津に来り葦名家に仕て小山村を領す。
その子左馬丞憲勝、天正巳丑の乱に義廣を送て常陸に往く。別に臨て義廣佩刀(はいとう)を与ふという。
慶長8年(1603年)この佩刀を携え行き江府に奉献す。その時賜わりし伝馬燈文、今なお家に伝う。
左に録す。
傳馬壹疋江戸ゟ會津
まて可出之者也仍如

 卯月正月七日
      右宿中

吉原源之丞

世々この地に住して、先祖より商人の司を勤しという(昔は吉原を義原に作りし)。
この村の長光寺も文安の頃(1444年~1449年)彼が先祖左京義元建立せしとぞ。
今なお毎年正月14日には家の前に市神の假屋を作り市祭を行い、同廿日には組子の商人を集め酒饗あり。
昔よりのならわしという。
古文書を蔵む。左に出す(※略)。

喜三太

この村の農民なり。
先祖を渋川源左衛門某という。
家系を失て世次を詳にせず。
家に古文書数通を蔵む。左に録す(※略)。