この村水辺に昔は楊柳多く風致ありしゆえかく名けしとぞ。
府城の西に当り行程6里24町。
家数121軒、東西3町18間・南北7町16間。
東に重山を擁し西に只見川あり。銀山川(中ノ川ともいう)また村中を名流れ一帯の匹錬空翠を浸し佳景比なし。
民居、或いは山岩を鑿し或いは只見川に傍ふ。
山中にあれども虚空菩薩の霊場なれば参詣の男女たえず。村中に客舎多く西頬は只見川に臨み大抵3階のかけつくりなり。因て駅所とし、
塔寺村駅より2里3町ここに継ぎ、ここより3里5町
野沢組野沢村駅に継ぐ。また1里18町
塩野村駅に継ぎ、1里30町
大沼郡滝谷組滝谷村に継ぐ。
村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。
東6町49間
小柳津村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り16町40間。
西は村際にて
小巻村に界ひ只見川を限りとす。その村まで6町余。
南1町
阿久津村の界に至る。その村まで1町30間。
北14町26間
細越村の界に至る。その村まで15町10間余。
また
巳(南南東)の方11町
黒滝村の界に至る。その村まで16町50間余。
山川
早坂峠
村東にあり。
登ること8町計。ここを越えて
大野新田村に至る。田沢通とて府下よりこの村に至る別路なり。
只見川
村西にあり。
阿久津村の方より来り、北に流るること15町余
細越村の界に入る。
銀山川
黒滝村の境内より西北に流るること15町計、村中を経て只見川に入る。
船渡場
村際にて只見川を架す。
野沢組の通路なり。
清水
村東銀山川の辺にあり。
弘法清水という。
周5間計。
原野
郷戸原
村南15町にあり。
東西13間・南北16町。
この中に多く田圃を闢く。
関梁
橋2
一は村中にあり。長12間・幅1間、中橋という。旧は上下に橋ありてこの橋その間にありしゆえこの名なりとぞ。上下の橋今はなし。
一は村南10町にあり。長5間、隣村の通路にて土橋なり。
共に銀山川に架す。
神社
諏訪神社
祭神 |
諏訪神? |
相殿 |
稲荷神 2座 |
|
飛鳥神 |
|
権現 |
鎮座 |
不明 |
村南小高き所にあり。
鳥居あり。圓蔵寺司なり。
寺院
虚空蔵堂
※国立公文書館「新編会津風土記93」より
村東岩上にあり。
8間1尺四面。高5丈余。西南に向かう。
庇縁・勾欄ありて、西南面に舞台を構え数仭の石壁に臨めり。只見川の長流その下を過ぎ、山色明媚にして怪岩画くが如く無双の霊場なり。
大同2年(807年)徳一の創立ともいい、また慈覚の創立ともいう(或記には弘仁3年(812年)の建立という)。
本尊を福満虚空蔵といい、長1尺8寸。空海の作にて、安房国清澄と常陸国村松と当山の霊像を併せて1木3体の作とす。
また外に賓頭盧の坐像を安ず。長1尺3寸。これも空海の作にて霊験いちじるし。
東の入口に香集界を題せる額あり。筆者知らず。
西に菊光堂と扁する額あり。林道榮が筆なり。
また鰐口1区を掛く。『奉掛鰐口諸願成就皆今満足之所也仍檀那細越村猪俣美濃守吉種于時天正十五年丁十月七日大工藤原氏早山彦八郎定継』(天正15年:1587年)と彫付けあり(今の鰐口は天明の頃(1781年~1789年)改鑄たりという)。
この堂昔は河畔にありしを、元和3年(1617年) に水災を避けてこの所に移せり(本願は蒲生忠郷の母堂なり。圓歳寺の条下と照見るべし)。
二王門
麓より岩を鑿し石階とす。47級を登り二王門に入る。
二王門、4間余に2間半、南に向かう。
左右に力士あり。1軀は運慶の作、1軀は作者知らず。
吹雲関という額あり。
また75級を登り本堂の前に至る。
明星天宮
石階の東側にあり。
2尺4面、南向き。
この宮の下に明星池という池あり。深3尺余・周5尺計。
空海が加持に因てこの泉沸出しという。
塩気ありて眼疾に宜し。
子安観音堂
本堂の巳(南南東)の方にあり。
3間四面、南向き。
この堂の下にまた7間に3間の観音堂あり。
西国三十三順禮観音の像を写す。
文殊堂
本堂の巳(南南東)の方にあり。
4尺四面、北向き。
大佛
文殊堂の側にあり。
銅の座像、長2尺計。
弁天堂
本堂より寅卯(東北東~東の間)の方にあり。
4尺四面、西南に向かう。
銅像、長1尺。
鐘楼
本堂より辰巳(南東)の方にあり。
2間半に2間。
鐘径2尺6寸『大日本國會津縣太守大旦那藤原朝臣羽柴飛騨守秀行公奉鑄大鐘柳津霊巖山圓蔵寺文庵叟叔結縁助成同利益(願主見正)右工早山掃部助定次惟時慶長十一年丙午年十月十三日』(慶長11年:1606)と銘あり。
龍藏神社
本堂より戌亥(北西)の方にあり。
1間2尺に1間、東向。
鎮座の始詳ならず。
宗像神社
本堂の東にあり。
5尺に3尺、西南に向かう。
鎮座の初詳ならず。
伊勢宮
本堂の傍にあり。
5尺に3尺、東向。
鎮座の始詳ならず。
稲荷神社
本堂の西にあり。
2尺3寸に2尺2寸、東向。
鎮座の始詳ならず。
大日岩
本堂の下巳(南南東)の方にあり。
岩に大日の形あり。空海刻みしという。
その前に7尺四面の堂あり。巳(南南東)の方に向かう。
三重塔
本堂より寅卯(東北東~東の間)の方にあり。
昔の塔は慶長中(1596年~1615年)災にかかり、今新に経営す。いまだ成らず。
両蛇石
共に只見川の東岸にあり。
形状をもて名く。
雄蛇石・雌蛇石という。
明星石
同上。
石上に巨人の跡あり。
燈明石
同上。
昔龍燈石上に現せしという。
魚淵
只見川の東岸にあり。
この地昔より漁猟を禁ずるにより魚多くこの淵に集まる。
遊人岸上より餌を投すれば水面に大魚浮出、撥刺としてこれを争う。誠に奇観なり。
且里人この魚と取れば必ず祟りをなすといい伝う。されば慶長16年(1612年)7月、蒲生秀行辛辣の毒を流してこの川の魚と取りしに、ただこの淵の魚のみその毒に中らず。その年8月大地震ありて溺死多くその翌17年(1613年)秀行逝去ありしにより、人益その祟りとて畏れあへり
烏帽子石
形状を以て名く。只見川の西岸にて小巻村の境内にあれども本堂の景勝に属せるゆえ爰に記す。
寶珠石
同上。
別当 圓蔵寺
虚空蔵堂の東、山腰にあり。
霊巌山と號す。大同2年(807年)本堂と共にこの寺を建立す。法相宗なりしが、至徳年中(1384年~1387年)に徳一の裔孫義乗霊夢の感ありて、郭内興徳寺第3世大圭に嗣法し臨済宗となる。
葦名の時、既に許多の寺産あり。因て天正18年(1590年)豊臣大閤この地に下向し給いしとき、秀次より寺料200石の寄付あり。その後蒲生・加藤両家の時寺料故の如し。当家封に就い至て200石の地を付し堂料とす。
慶長16年(1612年)故ありて蒲生家より臨済の住職を停め、府下真言の僧4員に命じて輪番に寺務を掌らしむ。その年地震暴水ありて屋宇漂流しこの寺も災いに罹り多く経巻・什寶を失えり。その翌17年(1613年)の春また大地震ありて寺の後ろ山崩れ僧房を破り看寺の僧2人を壓殺す。禅僧1人その傍にありて恙なかりしがば、里俗その祟りなるべしとて驚怖せり。その後大坂の役起りしとき、蒲生忠郷の母堂は東照宮の姫君なれば本堂に祈願ありしに、大阪の事畢その報賽のためとて殿宇再興あり。また江戸に朝し白書院にて謁見す。
寶物
大国立像 1軀。長寸、空海作。
近藤二王像 1軀。長4尺。同上。
不動石造 1軀。長3尺、自然石なり。
佛頂黒點舎利 鑑真和尚帰化の時護持の物という。
牛玉 1顆。
虚空蔵小像 1軀。長2尺、厨子入り。
七福神小像 榧実の中に納む。厨子入り。
阿弥陀経 1軸。中将姫筆。
八仙人花瓶 1口。玄宗皇帝の物という。
姿見鏡 1面。忠郷母堂の寄付。
定家墨蹟 1軸。(権中納言藤原定家か?)
三面大国画像并讃 1幅。心越筆。
賓頭盧阿修羅漢画像 1幅。顔輝筆。
山水画 1軸。天祐筆。
八景詩歌 1軸。直江山城守兼続筆(上杉氏の臣直江兼続)
太刀 1口。長9尺(役2.7m)無名葦野左近寄付。
古文書 4通。皆寺料寄付状なり。その文如左。
己上
爰柳津領貳百石并書屋地子令寄進訖全破寺納
無由齗斷建立尤候、猶羽柴忠三郎方え申渡候、謹言葉
天正十八年九月三日 (豊臣)秀次(花押)
柳津本願
将軍家譜を案ずるに、天正18年の頃は秀次いまだ中納言にて天下の政務を任せしとも見ず。また氏郷この地を領せし頃は既に飛騨守に任じたれば、忠三郎とあるも覺束なし。されどこの寺に伝わる所偽あるべきに非ず、いかなることにか今詳にしがたし。
己上
爰柳津領貳百石并当社屋地子、近年納來分永代令寄進候、今度御検地屋地子出分等、對坊中地下令免除者也
天正十八年九月朔日 (蒲生)氏郷 判
楊津本願
爰楊津領貳百石永代令寄進訖并当所屋敷方加地子出分、對坊中地下令免除者也
慶長六
十月廿二日 (蒲生)秀行 判
楊津 別當坊
爰楊津領地行貳百石、如先規全可有寺納社也
寛永五年
十月十八日 加藤左馬助嘉明 判
楊津圓藏寺
建福庵
己下塔寺の塔頭なり。
観音堂の前にあり。
6間半に3間。
星見庵
本堂の前にあり。
破壊して再建ならず。
六衆徒
六坊あり。徳一派にて佛殿の洒掃を務む。
何れも妻帯なり。昔は36坊ありしという。
今存するもの如左
柳本坊
塔之坊
岡本坊
杉本坊
月本坊
桜木坊
塔の坊所所蔵顧問書 1通。
その文左に載す。
去秋頓乳寶前、参籠被抽幡幟成就之巻数守并五明紅燭送給目出欣然之至候、彌武運長久乃懇祈任入候、恐々謹言
二月十四日 景勝 判
塔之坊
桜本坊所蔵古文書3通、その文左に載す。
當月幡之開帳鳥目進之候、於御寶前能〻謹言
六月廿三日 止〻齋判
櫻木坊
自佐竹之使御造作に候共、一宿之儀頼入候、委自出雲所可申越候間早〻。恐〻謹言。
八月五日 盛 隆判
桜木坊
態用一行候、當寺衆徒中、分沼ゟ畳百三十状被越候様、塔之坊相相談之上可被及理候、其内少数候共不苦候、早〻相越候様に可有之候、吉事重而恐〻謹言
六月廿八日 政 宗判
桜木坊
奥院
村の丑寅(北東)の方山の中腹にあり。
弁天堂の別当にて本堂の奥院なり。
大同2年(807年)の創建徳一開基なりしが、至徳年中(1384年~1387年)圓蔵寺の住職義乗法相宗を改めて
興徳寺第3正大圭に嗣法せしより当院も臨済宗となり興徳寺に隷せり。因て大圭を中興とす。
客殿
7間半に5間、西向き。
本尊明星天子
弁天堂
境内にあり。
3間四面。
弁天像、長1尺2寸。古佛なれども作者しれず。
寶物
虚空蔵板木 1枚。長1尺立像。空海が彫刻とす。
観音繍像 1幅。中将姫製という。
月光院
村より辰巳(南東)の方1町、山麓にあり。
真言宗鵜圓満山と號す。府下同上小路観音堂の末山なり。
開基詳ならず。
常に松風蘿月を友と閑寂の境地なるによりまた山居寺という。
本尊大日、脇立不動・愛染客殿に安ず。
瀧沢寺
月光寺の北に並り。
開基詳ならず。
寺後長流の幕府あるにより長瀧山と號す。
また観音寺の末山真言宗なり。
本尊不動客殿に安ず。
人物
石川冠者
名を有光という。
源義親の裔なり。いつの頃にかこの所に来り住すといえども、その履歴を伝えず。
寛文中(1661年~1673年)撰述せる風土記に石川氏の祖たりとあれば、その頃までは家系のあらましも伝えしにや。
今この村の農民仙右衛門というもの、その子孫なりといえども系図文書等の考證とすべきなし。世次事実い詳ならず。
体系図に石川有光の奥州に住せるよしは見えたり。
早坂峠について
はっきりとした場所は不明ですが、柳津から大野新田村に向かルートは2つあります。
明治時代の最新旅行地図を見るかぎり柳津から北東方面に向かって大野に向かうルートの記載は無いようなので、柳津→黒谷→大野→大野新田のルートの屠龍に早坂峠があるものと思われます。
…とここで発見。大正時代の地理院地図に早坂峠の記載がありました。
とうやら柳津の東川の抜け、山の尾根沿いに南下して大野新田村に行くルートが早坂峠のようです。
飛鳥神について
文字を見る限り
飛鳥神と読めます。飛鳥神で軽くしらべると奈良県にある
飛鳥坐神社がヒットし、事代主神・高皇産靈神・飛鳥神奈備三日女神・大物主神を祭った神社なのかと思います。
ただ、この地区でこの神を祭った神社を見当たらないんですよね。由緒ある神社の分祀であれば、会津一之宮である
伊佐須美神社に祭られていてもおかしくないはずなんですが。ならば、上の神社とは全く別で何ららかの鳥を祭った神だったのかもしれません(何せ武将の愛馬を祭った神もいらっしゃるくらいです)。柳津は山の中の集落です。山には
いろいろな鳥が生息しており、ひょっとしたらオオタカ(羽を広げると1mを越えます)をも超える大きな鳥が生息していたのかもしれません。そのあまりにも大きな姿に恐れを抱いた村民が神として祭ったと考えた方がロマンがあって素敵だと思いますが、いかがでしょうか?
石川有光について
石川有光について。
生まれは長元10年1月12日(1037年1月30日)で死去は応徳3年10月2日(1086年11月10日)。
柳津冠者と呼ばれる石川氏ですが、この柳津は会津ではなく摂津国の事を指します。前九年の戦いで父に従い奥州に下向しましたが、その功で石川郡(福島県の白河近郊)を領しその地を安堵します。なお、石川氏を名乗ったのは白河に三芦城を造立し移住してからになります。
会津の柳津にいたとされる石川有光は別人、もしくはその縁者なのかもしれません。高倉宮以仁王の従者渡部唱と
会津郡黒谷組長濱村の唱崎の戦で首を落とされたのは石川有光本人ではないと思われます。ちなみに以仁王が奥会津に逃避していた時期は治部4年(1180年)と、時代も一致しないですね。
最終更新:2020年07月01日 21:56