会津郡和泉田組界村

陸奥国 会津郡 和泉田組 (さかひ)
大日本地誌大系第31巻 132コマ目

この村もと堺に作る。寛文中(1661年~1673年)今の字に改めき。
伊南郷と伊北郷の界なる(ゆえ)名けりと云う。

府城の西南に当り行程20里21町。
家数21軒、東西1町・南北3町50間、三方は山に傍ひ西に田圃(たんぼ)あり。

東1知18町大沼郡野尻組大芦村に界ひ鳥井峠を限りとす。その村まで3里。
西7町30間小野島村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで9町。
南8町古町組鴇巣村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り13町。
北8町20間片貝村の山界に至る。その村は戌亥(北西)に当り50町。

小名

宇和田(うわた)

本村の北9町50間にあり。
家数3軒、東西32間・南北25間。
山麓に住し戌亥(北西)の方片貝村の小名宇和田に続く。

端村

虻宮(あぶのみや)

本村の北5町30間にあり。
家数17軒、東西45間・南北1町。
東は山に倚り三方に田畠あり。

山川

鳥井(とりい)

村東より漸々に登ること1里18町ここを越て野尻組の諸村に通る。

檜枝岐川

村西7町30間にあり。
古町組宮床村の境内より来り、北に流れ西に転じ鹿野水沢と得て片貝村の界に入る。
境内を経ること19町。

鹿野水(かのみづ)

村より戌(西北西)の方2町にあり。
水源2あり。
一は村より巳(南南東)の方十文字(しふもんし)という処より流出づ。
一は辰(東南東)の方大谷地という処より出づ。
2水合し西に流るること2里計檜枝岐川に注ぐ。
広2間。

関梁

村より戌(西北西)の方6町鹿野水沢に架す。
長5間・幅1間2尺。
府下の通路なり。

神社

鹿島神社

祭神 鹿島大明神
草創 天養元年(1144年)
端村・虻宮にあり。
天養元年(1144年)の草創にて棟札に『奉勸請󠄁鹿島大明神天養元年甲子十一月吉祥日天下泰平國家豊饒民安全願主敬白』とあり。
何人の勧請せしことを知らず。
旱歳諸の山川にて雨を祈るに験なきときはこの社及び二間在家村若宮八幡宮・梁取村観音堂の境内に(あつ)まり、祭禮の時獅子躍を法楽(ほうらく)*1に供ふべしとて祈誓(きせい)すれば必ず応ありという。
祭禮7月20日なる。

石鳥居
両柱の間1丈。
本社
1間四面西向。
弊社
2間に1間半。
拝殿
5間に2間。

末社 若宮八幡宮

祭神 若宮八幡?
本社の辰巳(南東)の方にあり

神職 渡部信濃

延寶中(1673年~1681年)権大夫某という者当社の神職となる。
今の信濃義興は6世の孫なりという。

山神社

祭神 山神?
相殿 三島神
鎮座 不明
村東にあり。
鳥居あり。渡部信濃が司なり。


外部リンク等


村名について

(南郷村地名由来調査報告書より)
界(さかい)
以前は井戸沢村と称した。高倉宮以仁王がお通りになった時井戸沢村重郎左衛門宅に宿をとられた。この時、方向をお尋ねになられたので、井戸沢村を境に南を伊南・北を伊北といいますとお答えした。その後村名を境村と改めたと伝えられている。江戸時代までは境野村や境村と記されていた。

虻の宮(あぶのみや)
界村の端村で虻の宮村と称した。天養元年(1144)常陸国鹿島神社の御神霊が虻に乗って来臨して鎮座したため虻の宮と呼ばれるようになったという。

明治22年(1889年)、片貝村・和泉田村・界村・下山村が合併し南会津郡富田村が発足。
昭和30年(1955年)、富田村と大宮村が合併し南郷村が発足。富田村は消滅。
昭和43年(1968年)、旧富田村の一部(和泉田の一部)は只見町に編入。

この村から伊南川下流側が伊北。(宮床から)上流側が伊南と区分けされる。


鳥居峠と新鳥居峠

※地理院地図(大正2年測図/昭和8年要部修正測図)

村史より)
伊南川の右岸大字界から入る沢を鹿水川といい、その川を遡ると右岸田圃道の所に自然石で「金山谷行き」の案内石がある。今はこの道も利用者がなくなったので廃道となり知る人もなくなった。
この峠を登って途中から、昭和村の下中津川へまた大字大芦へゆく道路を今は旧鳥居峠と呼んでいる。
大芦村の五十嵐村長が、明治二十八年九月大沼郡長桐原彦吉に鳥居峠を改修を申し出てから、現在の昭和村大芦と当村界を結ぶ新鳥居峠を里道一等の博士街道の改修と共に初めて、南会津郡富田村大字界でも新道鳥居峠の改修にかかり、明治三十一年大芦村と富田村で人夫を割当てて、元山道のあった道路に新しい峠道の改修にとりかかって完成した。
新鳥居峠は、その後地方の主要道路となり界~若松線として地方の人が若松に出るのに一番近い道であったので、自動車が当地方に普及するまで、昭和村との物資の輸送交易に利用される峠となった。
明治末期から奥会津で、養蚕・製糸業が急に発達したとき昭和村大字芦屋の養蚕家は当村の通称台にあった製糸工場に、毎日馬で五、六頭、およそ一〇〇貫の繭がこの峠を越えたといわれる。
昭和四十六年、地方民の要望に答えて、県道会津若松・伊南線と改名され、現在は更に道幅も広げられて舗装され、平成五年四月一日会津若松~南郷村として国道に昇格して四〇一号線に指定された。
現在当村は頂上まで舗装も終わったが昭和村側は拡張工事を施行中である。


鳥居峠は明治になって大改修が行われて新鳥居峠となったが、この道標は旧鳥居峠を登って100メートル位の所に山田があり、その道が昔、金山谷・今の昭和村に行く道であった。
自然石に「是より 右は作業道、左は金山道」*2と刻まれている。

糸沢川

昔、この辺に糸沢川という小川があり、ここで飯豊講のため七日七夜の水ごりを行っていた。また、用水路を引くため糸沢川をまたいで木樋をかけており、この樋の下に小豆洗いが住んでいたという伝承がある。

さかい温泉さゆり荘

村史より)
昭和四十五年(1970)黒鉱探査ボーリングをしたところ、深さ1,296メートルの第三紀塩ノ岐層から突然温泉が湧出した。越後山脈には、火山脈が走っていて檜枝岐村でも温泉を掘り当てているが、当村でもこの幸運に恵まれた。たまたまそれが界であったから界温泉と命名、村営の温泉ホテルをさゆり荘と名づけた。この登り口左側には曲屋、直屋の標準的民家二戸を移築して、奥会津南郷民族間としている。
このさゆり荘ですが2021年3月28日をもって営業を終了しており、今は「会津高原 星の郷ホテル」としてオープンしています
最終更新:2025年09月05日 20:08
添付ファイル

*1 仏の教えを信じ行うことによってえられる喜び,楽しみを意味する仏教用語

*2 「ゟ」は「より」と読む