会津郡和泉田組小林村

陸奥国 会津郡 和泉田組 小林(こはやし)
大日本地誌大系第31巻 134コマ目

府城の西南に当り行程18里。
家数6軒、東西1町20間・南北30間、東北は山に倚り西南に田畠あり。

村中に官より令せらるる掟条目の制札あり。

東7町47間梁取村の界に至る。その村は辰(東南東)に当り18町。
西10町大倉村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで12町余。
南4町30間二間在家村に界ひ檜枝岐川を限りとす。その村まで7町10間。
北13町布沢口村に界ひ布沢川を限りとす。その村まで17町30間余。

小名

竹花(たけのはな)

本村の戌亥(北西)の方1町にあり。
家数6軒、東西2町30間・南北15間、東北は山に倚り西南に田圃(たんぼ)あり。

仲田(なかた)

竹花の西2町にあり。
家数28軒、東西3町・南北1町、北は山に倚り三方田畠なり。

山川

金石鳥屋(かないしがとや)

村より戌亥(北西)の方1里にあり。
頂上まで20町、黒谷組小川村及び大沼郡大塩組山入村と峯を界ふ。

檜枝岐川

村南4町30間にあり。
梁取村の境内より来り、西に流れ北に転じ布沢口村の地を過ぎ、黒谷組泥島村の界に入る。
境内を経ること29町。

布沢(ふさは)

小名仲田より亥(北北西)の方8町にあり。
布沢口村の境内より来り、未申(南西)の方に流るること3町檜枝岐川に注ぐ。
広9間。

土産

鱒楚割

秋に至て檜枝岐川に産するを捕り、脊を割て骨をさり割て数条とし遠く火上に爆してこれを製す。
味佳(かみ)なり。

倉廩

米倉

村東20間にあり。本組の米を納む。

神社

日光神社

祭神 日光神?
相殿 幸神
鎮座 不明
小名仲田より戌(西北西)の方2町10間余にあり。
鳥居あり。界村渡部信濃が司なり。

鹿島神社

祭神 鹿島神?
相殿 天満宮
鎮座 不明
小名竹花の北20間余にあり。
鳥居あり。渡部信濃これを司る。

八幡宮

祭神 八幡宮?
鎮座 不明
仲田の西1町20間余にあり。
鳥居あり。新福寺司なり。

寺院

新福寺

小名仲田の西30間余にあり。
真言宗林光山と號す。下山村観音寺の末山なり。開基詳ならず。
慶長中(1596年~1615年)宥真と云う僧住せしと云う。
旧は村南にあり、正保中(1645年~1648年)火災に罹り今の地に移せり。
本尊正観音客殿に安ず。

古蹟

館跡

村より寅(東北東)の方3町にあり。
東西20間・南北18間。
塔寺村八幡宮長帳に、亨徳2年(1453年)8月12日典厩伊南の河原田をたのみ労を休め、やがて同28日に伊北小林の館落るとあり。典厩は何人なることを知らず。
天正18年(1590年)長沼盛秀と布澤上野助同信濃が為に攻落さる【四家合考】に見えたり。
村老の説には文亀中(1501年~1504年)山内大和守俊光と云うものの郎等堀金左京某という者住し、天正中(1573年~1593年)中丸三郎左衛門某という者住せりと云う。


外部リンク等


村名について

明治22年(1889)4月1日町村制施行に伴い、小林村と梁取村が合併し小梁村が発足。
昭和15年(1940)11月5日、小梁村・八幡村・布沢村が合併して明和村が誕生。
昭和30年(1955)7月20日、只見村と合併。明和村は飛地合併。
昭和34年(1959)8月1日、朝日村を編入。即日町制施行により只見町となる。

八幡神社と真福寺

(町史より)
上平の山腹に小林の氏神・若宮八幡(わかみやはちまん)が鎮座している。真福寺(しんぷくじ)のあたりは新屋敷(あらやしき)とよばれ、その南側に古宮(ふるみや)とよぶところがある。ここは八幡大菩薩とよばれたころの旧社地である。それが明治二年に若宮八幡神社と改称、同四年に現在地に遷座(せんざ)した。真福寺そのものも、小林平の頂部の上川原から現在地へ正保年間に移されたものという。

小林字日宮沢(にっくざわ)の観音堂

(町史より)
本尊とされるのは観音岩とよばれる自然の岩で、これを真福寺(しんぷくじ)の奥の院と称している。昭和七年に堂を建てたが、同九年の大雪でつぶれたという。旧暦四月十七日の縁日には、日宮沢へ金山(かねやま)町の山入(やまいり)や横田などからも参拝にきたらしい。家内安全を祈ったというが、ウマを連れて来る人もいたらしいのでウマの信仰もあった。この日、真福寺ではお札を出した。
小林の地とは言っても布沢川を渡って県道360号線を泥島(亀岡)方面に向かった所に参拝口がある。

古地図

※地理院地図(大正2年測図/昭和8年要部修正測図)
最終更新:2025年09月21日 14:43
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