伊舎須弥神社



祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊
創立 大同2年(807年)
相伝う。人皇10代崇神天皇元年(紀元前97年?)この神船に乗して天降り鉾をこの地に投す、その鉾化して八角の水晶となる。因て社を建て伊舎須弥神と崇め宮を號して八角(やすみ)という。また伝う、鉾の落るところを名て鉾田という(今その所を詳にせず)。乗る所の船化して石となる今の滝沢坂の船石これなりと(滝沢組滝沢村の条下を併見るべし)。一説に昔この地に一の亀あり、その甲に八角あり(ゆえ)に社の名とす。
康暦元年(1379年)葦名直盛鎌倉より下向の後城を小田山に築き安倍某をしてこの地を鎮守せしめ、この神の来由に(かた ど)て城を鶴城(つるがしろ)と号し当社を修整して亀宮(かめがみや)と名け永命を祈りしという。その頃神社僧凡て6員ありて180間余の廻廊を始宮殿の経営も巨宏なり。社邊に田圃(たんぼ)有て民居連り税を納る所1000余貫に至る(昔八角村と称せしはこの地の事なるべし)。大沼郡高田村(高田組)よりも禾3500束を収納せしという。
大永元年(1521年)の夏猪苗代氏(何人なる事を詳にせず)黒川を侵す時に賊兵当社を掠立て陣営とす故に社僧みな逃亡す。また神主峯岸なる者祝子と争論のことあり宮中に走り入り火を放て自殺す。ここにおいて両職共に絶え社領を失う。然れども高田村の神税3500苅は故の如く、その他畑銭等葦名氏より若干を寄付し毎年8月15日の祭禮に供し、また12月28日白餅30枚・銭150疋諏訪宮よりこれを供し、湯本村(南青木組)よりも白幣紙を供せし故(なお)大廃に至らず。天正巳丑の乱(天正17年=1589年)の後伊達政宗当社の来由を聞き社領寄付当故の如し。
文禄元年(1593年)府城修築の時社地を削り今の境内とす。石鳥居御手洗等の遺跡いまにあり。その後蒲生秀行の時社領50石を付してより今に至る。

制札

門を入て西にあり

寶塔

門を入て東にあり。
石にてこれを作る。5層、高1丈余。跗石、周1丈余。
『永徳四年大旦那』と彫付あり(永徳4年=1384年)。その余文字あれども分明ならず。

鳥居

枙立作にて両柱の間2間余・高2間5尺。

銅燈籠

2基。
本社に行く路の左右にあり。各長7尺余・周1丈。
『奥州會津若松總鎭守伊佐須彌大明神龜鶴山萬刧寺亨保三戊戌八月吉祥日冶工早山掃部助藤原治次』の数字を陰起にす。

本社

7尺四面、南向。
神體(しんたい)は深く秘して社僧と(いえども)見こと能わずという。

幣殿

2間に1間半。

拝殿

5間に2間半

文殊堂

境内にあり。
亀幅院の本尊を安ず。

末社

稲荷神社

境内にあり

若宮八幡

同上

別当亀福院

本社の西につづく。
亀鶴山と號す。高野山南谷心南院の末寺真言宗なり。
天正の頃(1573年~1593年)阿闍梨宥繁という僧当社の別当となり、再び絶えたるを継り。
初めは寶壽院といい、何の頃にか今の號に改む。
また昔は亀を喜に作るという。

寶物

巻物

1軸。
異形の怪獣を図せしものなり。
降魔の図と称し尊崇すること大かたならず。

金磬

1枚。
中興宥繁が求めしものにて『黒川館内宝壽宥繁』という銘あり。
懸る所の(竹+虍+兵)に『天正八年季庚辰九月五日御東館内宝壽院求之権大僧都宥繁』と書付あり。また舊事雑考天正8年6月の記に八角宮の鐘成り黒川東館之内寶壽院宥繁と銘せし由を書せり。
按ずるに舊事雑考至徳元年の記に古くは黒川館と記せしものあり。葦名氏昔は父子東西に分居し、小高木(今の小田垣)の館を東館と称し幕内(高久組幕内村)或は小館(今の融通寺町城安寺の地なり)をば西館と称せしなるべしとあり。然るは至徳元年城築の前は今の小田垣よりここまでなべて東館と称し、天正の頃(1573年~1593年)までその遺唱ありしにや。
※天正8年=1580年、至徳元年=1384年。
今はなし。

古文書

2通。
その文如左(※略)

勧進牒

1通。
今は失えり。
載て舊事雑考にあれば左に出す(※略)