滝沢峠

※地理院地図(明治43年測図)

会津郡滝沢組滝沢村滝沢坂(たきさはさか)の説明文より
村端より丑寅の方に登る白川街道なり。
麓より登ること16町、頂きを九折峙(くのおれじ)という。
金堀村に界ふ旧の往還は、この村より南20町余を隔て本郡南青木組院内村より背炙峠(せなかあぶりとうげ)[加藤嘉明冬坂と改む]を()えて原組原村に出しを、寛永4年(1627年)この道を改め(ひら)けり。されども秋雨の折は泥濘(でいねい)深くして駄馬通せず旅人往来に苦しめり。(よっ)て加藤嘉明の時寛永9年(1632年)より8万人の人夫を以って泥土を除き2尺余3尺計の石を敷しむ。同11年(1634年)に功成れり。これより今に至り人馬往来に患なし。
この坂より西に連なる支峯2あり。南を堂作山(たうがさくやま)(また堂柵に作る)という。北を柏木山(かしはきやま)という。

旧滝沢本陣より東に道なりに進むと(途中白糸神社への案内板あり)、旧滝沢街道を示す石碑と案内板があります。
案内板の記述を引用します。
旧滝沢峠(白河街道)
 この峠は、天正十九年(一五九一)にときの会津領主蒲生氏郷により、若松から白河に至る白河街道として開かれました。
 寛永四年(一六二七)に会津に入部した加藤嘉明も街道の整備に力を入れましたが、雨天や雪解け時などには泥道となって往来に困難したため、その子成明は寛永九年(一六三二)から十一年(一六三四)にかけて、延八万人の人足を動員して石畳道に改修、冬坂峠の表街道を廃止して滝沢道と表街道としました。以来大名の参勤交代、旅人の往来などに利用されて、大変賑わった街道でありました。
    新奥の細道
       環境庁・福島県

道中に舟石(滝沢村の説明参照)があります。
案内板の記述を引用します。
 舟石
伊弉諾・伊弉冉尊が会津に天降らせ給うた際、投じられた鉾が化して八角の水晶となった。
そこで伊舎須弥神社として崇め、宮を号して八角と云う、と言い伝えられています。その宮というのは会津若松市内にある八角神社のことで古くは伊舎須弥神社と呼ばれておりました。
 また、上が天降る際に乗り来たった舟が化して石となったのが、この舟石であるといい、昔から名所でありました。
  ハァー恋(鯉)の滝沢
  舟(鮒)石越えて
  親は諸白 子は清水
    新奥の細道
       環境庁・福島県
後半の「ハァー」は何だ?とお思いの方、盆踊りで有名な民謡・会津磐梯山の歌詞です。




余談。
よく滝沢峠は滝沢町から強清水までの道と言われていますが実際には滝沢~金堀までで、金堀~原新田(強清水)は沓掛峠(くつかけとうげ)です。



最終更新:2020年03月25日 23:11
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