会津郡原組西田面村

陸奥国 会津郡 原組 西田面(にしたづら)
大日本地誌大系第31巻 21コマ目

相伝う。義家朝臣東征の時この地泥濘(でいねい)深かりければ、村民馬の口に取付き(つつが)なく渡せしゆえ手縄村と称せしを、後に訛転して今の名となりしと。また田連とも書けり。
何れの頃より分て東西両村となりしという事を知らず。

府城の東に当り行程2里33町余、家数40軒。
東西2町12間・南北5町12件、白川街道にあり。
西南は山に続き東北に田圃(たんぼ)あり。

東6町9間崎川村の界に至る。その村まで24町。
西20間本郡南青木組湯本村の山に界ふ。
南7町原村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り13町50間余。
北2町1間上馬渡村の界に至る。その村まで4町20間余。

小名

源治郎屋敷(げんぢらうやしき)

本村より巳(南南東)の方5町40間余、白川街道にあり。
家数2軒。
東西14間・南北42間。
西は山に()ひ三方に田圃あり。

山川

湯沢山(ゆざはやま)

村西4町計にあり。
2山南北に相並び、南湯沢山・北湯沢山と称す。
雑木多し。

二岐山(ふたまたやま)

村南1里計衆山の奥にあり。
登ること14間余2峯並び(そばだ)

赤井川(あかいかわ)

村南3町、大清水という清水を源とす。
諸渓に合し東北に流るること8町余、上馬渡村の界入る。
広1間半。


神社

八幡宮

祭神 八幡神?
勧請 不明 前九年の役(永承6年(1051年)~)以降か?
村中にあり。
義家朝臣この地にて白旗を建らしゆえその処に勧請せりという。
鳥居拝殿あり。

末社 熊野宮

祭神 熊野神?
相殿 伊豆神
   伊勢宮 2座
   熊野宮
   赤城神
   山神
   機織神
   妙見神

腰王神社

祭神 不明
相殿 不明
村西3町計山中にあり。
祭神及び草創の年代詳ならず
鳥居あり。村民の持ちなり。

寺院

興泉寺

村西にあり。
真言宗給洞山と号す。
縁起に、至徳中(1384年~1387年)安積郡横沢(二本松領)の地頭移送右金吾某という者その父の菩提を弔わん為この寺を草創せり。その法名を興泉居士といいし(ゆえ)かく名け。
3町程の地を寄付せり。その時岩城寺(横沢にあり)に住せる雪芩という臨済の僧住し、文亀元年(1501年)密侶弘盛という者住してより今の宗旨に改め、本寺村恵日寺の末寺となり今に至りしという。
天正19年(1591年)右金吾が遠孫藤三郎某、伊達政宗に属せしより寺産を失いしとぞ。
本尊大日客殿に安ず。

観音堂

境内にあり。


最終更新:2023年06月19日 21:28