往古、この邊の諸村を天満12邑と称す。
武藤某が知行所なりし故俗に武藤村ともいう。
慶長5年(1600年)上杉氏神指村に城築しとき、その東門にあたれる故辰巳(南東)の方2町10間酒漕という処に移せり。その後城築の事廃して旧地に還住し今の村名に改めりといい伝う。
府城の西北に当り行程20町。
家数48軒、東西1町30間・南北2町48間、四方田圃なり。
東1町20間・南28間・北は村際にて、共に府下
西黒川分の地に界ふ。
西1町20間
天満村の界に至る。その村は未申(南西)に当り7町20間。
また
未申(南西)の方1町20間に
西城戸村の界に至る。その村まで8町。
戌亥(北西)の方1町40間
高瀬村の界に至る。その村まで7町40間余。
村東に越後街道あり。
山川
黒川
村の丑寅(北東)の方1町30間にあり。
小黒川分の界より来り、北に流るること1町余、また
小黒川分の境内に入る。
応湖川
村西1町20間にあり。
西城戸村の界より来り、北に流るること1町10間余、
高瀬村の境内に入る。
水利
東城戸堰
神社
伊勢宮
村の未(南南西)の方50間余にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。郭内
諏訪神社の神職笠原幸之丞が司なり
稲荷神社
| 祭神 |
稲荷神? |
| 相殿 |
伊勢宮 4座 |
| 熊野宮 2座 |
| 若宮八幡 |
| 天神 |
| 稲荷神 |
| 明神 |
境内にあり
墳墓
石塔
村北1町20間田圃の中にあり。
高3尺余の野面石なり。
『武藤右京佐直正之墓天正十七年子五月廿日 行年七十一而卒 孝子武藤是戒眞次』と彫付あり(天正17年=1589年)。その頃のものとも見えず。
古蹟
酒漕
村より辰巳(南東)の方2町余にあり。田畝の字なり。
慶長5年(1600年)上杉氏神指城を築きし時酒漕を置て12万余の役夫に飲ましめし処という。
旧家
長左衛門
この村の農民なり。
先祖は武藤右京佐眞正とて葦名盛氏に仕え天満12村を領せり。
眞正が子弥五郎眞次相続て葦名氏に仕え、天正17年(1589年)磨上の軍破れて後この村に屏居し祝髪して是戒と號す。
慶長4年(1599年)上杉景勝の家臣野田丹右衛門某という者、己が驍勇を負み動もすれば主命を蔑如せり。景勝これを悪み野田を蒲原郡津川に使せしめ途中にて殺めんと啇議し打手の者を撰びしに、諸臣一同に武藤是戒にしくものなしという。景勝即是戒に命ず。是戒家に帰り16歳になれるその子眞忠に向い、我太守の命を受け野田をうつ汝従い来てその状を見るべし、という。眞忠聞きて仰謹で承はりぬとて父の前を立つ。明日黎明に眞忠1人父にさきだち竊かに家を出て野田が来るべき路に待つ。野田至て何者ぞと怪しみ問う。眞忠偽てこの邊の者なるが漁の為に来りというも、果す君命なりと詞をかけ抜打に野田を斬り遂にその首を獲たり。間もなく是戒来り見て大いに驚き、眞忠幼けれども恙なく討得しを喜び父子相ともに景勝に謁し始末を告げれば、感賞大かたならず太刀を鳥羽1枚及び田地5段を与えしとぞ(武藤田とて田圃の字に遺存せり)。
今の長左衛門は眞忠の7世の孫なりとて、家にて太刀1口を蔵む。銘あれど分明ならず。
参照・補足
外部リンク等
村名について
東城戸はもと武藤村とよばれ、神指城築城に際しその東門にあたるので、その南東二町十間(約236m)位の所にある酒ふねに移動させたが、築城の仕事が中止されたので、もとの位置に返り名を東城戸と改称したという。ただし、武藤村の名は文禄の高目録にもあがっていないし東城戸の名は寛永二十年(1643年)の本高調にも記されていない。
もとこの付近は天満十二邑といったらしいから、西城戸などとともに天満の端村かもしれないのである。
幕末まで(1868年)、会津郡東城戸村。
明治16年(1883年)、東城戸村が黒川村に合併。
明治22年(1889年)、高瀬村・黒川村・南四合村・中四合村・北四合村・高久村が合併し神指村となる。
※以後は
会津郡高久組小見村#村名についてを参照
東城戸地区の社寺
法人番号公表サイトでは下記の登録がある。
| 法人番号 |
商号又は名称 |
所在地 |
| 2380005008214 |
神明神社 |
会津若松市神指町東城戸404番地 |
最終更新:2025年12月10日 21:03